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25歳とこれまでとこれから

もう数ヶ月前の話ですが、25歳になりました。
noteを書こう書こうと思っていたら、歳を取るだけでなく年も越してしまいました。今年もよろしくおねがいします。

ここ数年でだんだん誕生日を素直に喜べなくなってきていましたが、こうやっていざアラサーの仲間入りとなるといよいよ本当に喜べないですね。サーティのアラウンドまで来てしまったのに心はまだまだティーンエイジャーなので困ったものです。自分の人生設計によると25歳ではもうパートナーを見つけて阿佐ヶ谷あたりに借りたアパートで二人暮らしないしは半同棲の安泰な人生を送っているはずだったのですが、気がつけば一人ぼっちで20代ももう折り返しです。ありきたりな言葉ですが、自分が子供の頃に想像していた25歳と今現在の自分との乖離に焦りと失念と多少の後ろめたさを感じます。まぁありきたりな言葉ということは、誰もが必ず通る道なのかもしれません。ちなみにぼくの人生設計によればあと3年後には海辺の一軒家で自分と彼とゴールデンレトリバーの3人で静かに仲良く一緒に暮らしているそうです。

毎年のことだがこの一年で何か成長できたのかと考えると、まぁ大してなにも変われることなくただ月日が過ぎ去ってしまった。精神的に完全にダメになってしまったのが2年前、今となってはなぜあそこまでボロボロだったんだ?と思えるほどには回復していて、そこからいくつかの病院を転々とし、ゲイの友人を作ったほうが良いと精神科医に言われ、アプリを入れて初めて人と会ったのがだいたい1年前。市場に売りに出すのが遅すぎるとそれはもう多方面より散々の言われようだったが本当にそれはその通りで心の底から後悔している。若いうちから売りに出していれば貰い手が見つかっていたのかと聞かれるとそういう問題ではなくて、少なくとも歴が長い分今よりは広い人間関係は構築できていただろうと想像する。今となって人間関係を広げてみようと思っても、もうある程度のコミュニティは確立されてしまっていて、そこにズケズケと上がりこんでいくほどの(いい意味での)図々しさもなければ体力もない。とはいえ仮に若いうちからアプリをやっていたとしても人生上手くいっていた自信もなくて、今更後悔してもどうにもならず、それ以降というものiPhoneに映った男の顔写真を左右にスワイプしてみたりハートを押したりしていると気がつけば25歳になっていた。所感してはまぁ人と会わないよりかは会ったほうがそりゃいいよなってくらいであって、みんな隠して生きているからこそ日々同じようなことを感じ同じようなことを考えている人って意外といるんだなと気が付けたことも事実、あるいは全然隠すつもりもなくオープンに過ごしている人もいてすげぇなあ〜って尊敬してみたり、良い勉強になりました。

ただ一つ思うのは、やっぱり本当の意味で友達になれる人や、お互い一緒に人生を生きたいと思う人と出会うのはやっぱり難しいですね。友達は比較的簡単かもしれないが、恋人となると本当に難しいと今更ながら思う。決して自分は恋人の理想が高いわけではない(と思う)が、やはり「恋愛対象が男性である」というだけの根本的な共通点を持つ2人が会って親密になれるかどうかなんて、そりゃ単純に確率論からしても相当難しいよなと思う、まあこれは男女ともに共通なのかもしれないが。自分は恋人にしろ友人にしろ、この人のこういうところが尊敬できるなとか、この人のこういう考え方が凄く好きだなとか、2人の関係の根底にそういうリスペクトのようなものがなければ良い人間関係は築けないように感じていて、ましてやそういう人間関係を入り口が顔写真となるアプリで築くとなるとそりゃなかなか難しいなと。尤も容姿があからさまに好みでは無いとそもそも難しいのかもしれないが、そう考えると自分の考える恋人の理想はもしかしたらちょっと高いのかもしれない。




ところで話は変わるようで変わりませんが、僕は年末の雰囲気があまり好きではないです。どことなく街もセカセカとしていて人生を倍速再生している気分になるし、なぜだかいつもよりも"独りである"ことを強烈に感じるからです。ただ今日が昨日になるだけ、西暦が一つ増えるだけで毎日の延長線上ということには何も変わらないはずなのに、なぜかみんなそれを特別扱いして年を跨ぐことでこれまでをリセットしてこれからの毎日に少々の高揚と期待を持つ。そしてまた12月になればすべてをリセットして、その先に期待する。かくいう自分も去年はだめだった、今年はこうしようという後悔と期待を持ってしまっているので残念な男です。

そんな年末に地元の友人と会いました。仲の良い地元の男女グループがあって、久しぶりに会って話すと自分以外全員恋人がいたり同棲していたりで、ただでさえ狭い上野の居酒屋が途端により狭くなったように感じました。この年になると周りの友人もだんだんと結婚し始め、なかにはもう子供がいる友人もいたりして、去年は特にそういった報告を聞くことが多かった。そして去年よりも今年、今年よりも来年のほうが段々と増えていくのだろうと思うとなぜだか少し生きることが怖くなる。そういう話を聞くたびに、どう足掻いても超えられない壁を突きつけられるような感覚になる。聞いて、ほらね、わたしはちゃんとした人間ですよとあれこれ順序立てて抜かりなく証明されているような感覚になる。ところであなたはどうなんですか?と聞かれても彼氏元彼を彼女元カノに置き換えてなんとか綻びがバレないようにハリボテの証明をするしかない。そしておめでとうと言葉では言いつつも本心では何よりも先に劣等感を感じていることに気がついて、自分のことばかりで情けなくなる。そして焦る、いや焦ったって自分には出来ないことだからどうしようもないのだけれど、なぜだかいつも焦ってしまう。

たぶんこの感覚って一生消えないんだろうなと。仮に自分が家族や友人にカミングアウトできていて、そして全て受け入れられていて、ゲイの友達や恋人に囲まれてどれだけ充実した生活を送っていたとしても、いわゆる普通の男女として出会い、普通の男女として結婚していく人達をどうしても羨んでしまうのだと思う。でもそれはどれだけ努力しても手に入れられるものではない、となると自分がやらなくてはいけないことは、この感情と上手く付き合っていけるようになることですね。たしかに自分は世間一般的な普通の幸せに反吐が出るほど憧れていますが、自分は自分が手に入れられる最上級の幸せを求めることを諦めてはいけないのだろうと思う。

まだまだ眠れない夜も続くかとは思いますが、なんとか皆さん生きていきましょう。眠れないのならば眠らなければ良いし、眠らなくてはいけないのならば睡眠薬を飲めばいい。ただそれだけのことだったんですね。今年は自分を大切にしてくれる人を大切にしながら、自分自身のことも大切にします。2024年に少しの高揚と期待を持っています。



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