軽度知的障害者がライターに間違えられるようになるまで
軽度知的障害や境界知能の場合、文章からはそれと見抜けない事が多々ある。
日常会話やライン、Twitterなどの遣り取りではそうそう見抜けない。
私の場合、ビジネスメールでもまずそれとは分からない。
知的なハンデを持つ人の多くは数字に関する能力に弱い傾向があり算数を解かせればおかしいな、と必ず分かるはずだ。
とは言え一応知的障害の特徴の一つに、読み書きに弱い、はどんな研究者でも挙げている。
実際読み書きは苦手だという人もいる。
しかし私はこれに関してはあまり当てはまらない。
文章を読む限り健常者にしか見えないと言われるし、会社の人から「前職って新聞や雑誌に文章を書く人じゃないですか?」と言われた事もある。
自分では大した文章は書いていないと思っているが時々周囲から文章が上手いと褒められる。
では何故軽度知的障害の私が文章を書けるようになったのか。
今回はそれを説明しよう。
IQはざっと分類すると4つの項目から成り立っている。
言語理解、知覚統合、処理速度、作動記憶の4つである。
これらの平均値を求めたものが俗に言うIQとなる。
私はこの中の言語理解だけが辛うじて健常者と同じ程度ある。
これはその名の通り読み書きを司る力である。
とは言うものの確か数値は90位で全く高い値ではないのだ。
平均がどれくらいか興味がある方は各人で調べて頂ければと思う。
ただ恐らく私の場合、数値以上の文章作成能力が備わっていると思われる。
そうでなければプロのライターと間違われたりはしないだろう。
じゃあ元から言語理解が高い、で決着がつくではないか、と思われるかもしれないが私はこれは努力の結果だと思っている。
厳密には努力ではなく趣味、習慣である。
今でこそ文章を書く事は苦ではないし、苦手意識もないが、小さい頃は作文が嫌いだった。
読書感想文などにはめんどくささを感じていたし評価もされなかった。
コンクールや表彰状の類いとも無縁だった。
因みに先述のIQの項目の中の「知覚統合」が私の最大の弱みで、これは60位で完全に軽度知的障害に分類される。
ここが弱いと視覚から入る情報処理が苦手になる。
そして物事の要約も苦手になる。
ADHDも物事の要約が苦手になる傾向がある。
だから長文は本来書けなくてもおかしくないのだ。
ではいつから書く事が苦でなくなり始めたのか。
明解には記憶していないが、高校の頃には苦手意識は消えていたと思われる。
高校時代、最も得意な教科は英語であった。
理由は単純で先生に褒められたからだ。
今の教育事情は知らないが当時、英語はリーダーとグラマーに分かれていて、どちらの先生も私を褒めた。
グラマーの先生は校内ですれ違う度、私に英検の受験を勧めてきた。
知的障害故の素直さも多少関係はあるだろうが、人間とは単純なもので褒められれば当然嬉しいし頑張ろうとも思う生き物だ。
文章の話に何故英語の話が出てきたのかと言うとリーダーの先生が私を好んだ理由が明らかに私の翻訳のスキルに基づくものだったからである。
眉唾とも言われるが、夏目漱石が「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳した事は有名だが、私も似たような事をよくやっていたのだ。
つまり意訳を好んでやっていたのである。
テストでは教科書通りの回答を記入したが普段の授業では少しひねった回答をするようにしていた。
流石に月が綺麗ですね、レベルの事をすると誤解を招きかねない為やらなかったが、自分なりにニュアンスを読み取り意訳すると先生は少し得意気にしていた。
俺の教え子にもなかなか面白い奴がいたものだ、と感じたのだろう。
意訳するには当然読み書きのスキルが求められてくる。
読めなければ回答は出来ないし、国語の能力がなければ良い訳し方も出来ないはずで、高校の頃に文章を書く能力の素地が作られたのだと思う。
それから暫く間をおいてmixiというSNSの走りの様なものが流行し、そこに文章をアップすると「おもろい」「小説家になれば?」といった声が上がるようになった。
その後あるサイト(?サイトが適切な表現かは分からない)で日記の様な散文の様なモノを投稿するようになった。
サイト内で日記ランキングがあり、私はいつからか数万いるユーザーの中でランキング上位常連になっており週間ランキングや当日のランキングで10位以内にいる事が常となった。
尤も日記は人気のないコンテンツで実際の日記ユーザーは数千位だろうがまあまあの成績ではなかろうか。
この頃には文章を書く事が日課の様なものになっていた。
そうやって段階的に小学生の時に苦手だった作文はいつの間にか私の中で最も有力な心の伝達手段となっていったのだった。
当然情報の伝達にも使うが、私にとって文章はかけがえのない心の伝達手段なのだ。
会話をするとADHDも悪さをしてきて話の論点を見失いがちになるが、何故か文章にすると纏まりができ必然的に相手の理解も得やすくなる。
今でも大切な事は敢えてメールにしている。
メールだとそっけなく思われるかも知れないがそう思われた事は一度もない。
では何が私の文章能力を高めたのか。
それは読書だ。
両親は熱心な読書家で家には本が山ほどあり小学校低学年か中学年から小説を読むようになった。
所謂純文学を読むことが多かった。
この習慣が私の文章能力を高めたのだと思う。
実際私の文体は客観的に見ても小説の影響が濃い。
読まない人間は書けない。
読むことは書く練習に繋がるのだ。
これは絶対そうだと言える。
上手い書き手は同時に必ず良い読み手だ。
年齢に比例して読書量は増えた。
それにより少しずつ書く力も増強されたのだろう。
因みに書く努力は一切していない。
mixiやサイトに文章を投稿したのも腕試しが目的でなく、何となく楽しいからやっていただけだ。
しかし結果的にそれも多少書く力に貢献したのかな、とは思っている。
時々元から書ける人だと思われているようだが違う、努力で得た力だ。
趣味や習慣は努力ではないが知的障害だと分かってからは意識的に読書をしており、これは書く力を落とさない目的なので最近の読書は努力と呼んで差し支えないだろう。
正直なところ、文章が書けたからといって仕事には無関係だ。
仕事に求められる能力はどちらかと言えば算数を解くような能力になってくる。
それでも文章が書けて、書けるようになって良かったとはよく思う。
気持ちを心を表す手段が持てなかったら私はきっと孤独な人間になっていたに違いない。
書く事で人と繋がれる。
それが文章を書ける事の最大のメリットだ。
大切な人がいる限り私は書き続ける。
伝えたい気持ちがある限り私はいつまでも往生際悪く書き続けてみせる。
心が伝わるその日まで私は決して諦めない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?