哀愁の町に霧が降るのだ(椎名誠の多伝的バカ話型自伝的エッセイ)
このエッセイは俺の記憶を遡っているので適当極まりなく、年月に至っては平気で数年間違えるかシャッフルされている恐れがあるのだが(まだ一篇しか書いていないけど)、『哀愁の町に霧が降るのだ』を初めて読んだ歳は間違いなく覚えている。
十歳。
小学四年生。
昭和59年。
西暦1984年。
ロサンゼルス五輪の年です。
十二月の夜でありました。
父が俺の部屋に駆け込むや、超興奮しながら「この本は面白いからな! 本当に面白いからな! 本棚のここに置いておくから、読んでみてくれ、本当に、面白いから!」と勝手に大絶賛して、本を三冊、本棚のセンターに置いて去った。
これが『哀愁の町に霧が降るのだ』上・中・下巻。
十歳の俺が、初めて読むエッセイとなる。
題の下には「スーパーエッセイpart2」なる文字まで付いている。
スーパーエッセイである。
スーパーとpart2の意味は分かるが、(; ̄O ̄)セイ(失礼、誤変換)エッセイは初見。
辞書でエッセイを調べ、概念を知ってから本を捲ると、なるほど、著者が気侭に書き連ねていた。
いきなり「書き下ろし」についての蘊蓄から始まり、続いてこの本を書く事になった経緯と、実は全然書けていない経緯と、あまりにも筆が進まないのでカンヅメ(ホテルや旅館で作家や漫画家を仕事に集中させる事)にされた経緯を経ても、未だ筆が進まないという空前絶後の言い訳展開が続き、ひょっとしてこの著者は、ダメな人なのではないかと失礼な事を考えつつも、十歳の俺は笑いながら読進した。
この本を書けずに編集者から逃げ回っているという自虐ネタを振りつつも、著者の近況や心境がニヒルにコミカルにウフフフと進められていき、遂にようやく高校時代からの本編が始まる。
こうして、著者の近況と過去の青春群像劇が混じり合いながら、面白さと哀しさと訳の分からなさが語られていくエッセイが、十歳の俺に注入された。もはや分離不可能。手遅れです。
十歳の俺は、ただただ笑いながら読み耽り、部屋を揺るがす程に爆笑し続けたので、父は「ふっふっふ、あやつめ、読みおったわ」と察した。
読むと爆笑と苦笑が伴うエッセイ『哀愁の町に霧が降るのだ』は愛読書になり、十代の頃は一ヶ月に一度は読み返し、二十代は半年に一度は読み返し、四十五歳の今は電子書籍版で読み直している。
著者がこの本を書いた年齢を越しているせいか、笑いよりも哀愁の成分効果の方に目が行くようになっている。歳食ってんだなあ、俺。
良い作品の常で、読む方の年齢と共に味わいが変わって行くのだ。
つまり、何度でも読める。
喜ばしいのだ。
今回は、このエッセイを書く為に、『哀愁の町に霧が降るのだ』を再読している。
まさかそんな日が来るなんて。