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それぞれが持つ言葉のカタチ

noteを始めて10ヶ月弱経ちましたが、ここまで定期的に投稿したりコメントのやり取りをしたSNSはnoteが初めてです。

昔からSNSに対して恐怖感があって、(世代がバレるんですが)学生の頃流行っていた前略プロフィールやミクシィにも頑なに手を出さず、Facebookなどもってのほか(友達の友達とつながらせようとしてくるの怖すぎる)。現実の自分とは違うネット上の自分が一人歩きして、自分の制御下から外れてしまうのではと恐れていました。
すでにリアルで顔見知りの人たちとネット上でまでつながる必要あるんか?とも思っていたので、自分のアウトプット用にTwitterやブログをちょこっとやってみたものの紙の日記があるので大して使わず消すというのを数回やりました。

「何かを書く」ということは私にとっては“発信”ではなく、自分を整理するための自己満足でした。いまもそのスタンスで書いていることが少なくないです。
やはり自己開示・自己表現に対しての抵抗が根強くあるのです。

いちばん素直に自己開示している場所は誰にも見せないと決めている紙の日記なのですが、2番目がこのnoteです。ここはリアルの友達や家族には教えていないので。(もし見つかってたら震え上がる)

noteが2番目なんて、話聞いてくれる友達いないのかよって感じですが、いないんです、、
私に相談したり話を聞かせてくれる友達は結構いるんですが、自分のことを話すと満足するようで、私の話はあんまり聞いてくれない。(これは私が話し下手なのも大いにありますが)
共通の話題で話せる友達がいないというのもあります。私がいま興味を持っている精神世界とか目に見えない世界のことは話したらきっと引かれちゃうんだろうなあ。

noteを始めたきっかけは、自分に起きたつらい出来事が紙の日記という自己完結の世界だけでは収まりきらなかったのだと思います。
少しでも人の目を気にして書くことで、闇のどん底の手前で踏みとどまれるような気もしていました。結果、その通りでした。

「書くことは浄化」と言いますが、自分しか見ないところに書くのと、誰かはわからないけれど誰かしらが見るところに書くのとではやはり全く違います。
誰かしらが見ることを考えて書くときは、自分の中では当たり前の前提になっていることも最低限は書いているつもりです。それすらも省いて「伝わる人にだけ伝われ!」という時もありますけどね。
当たり前の前提も書くことで、より状況や感情が自分から切り離されて浄化が進むということなんでしょう。

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自己開示が怖い、というのは私がよく人から抱かれる第一印象にも影響していると思っていて。私が自己開示したくないと思っているから、相手からミステリアスだとか話しかけづらい(何を考えているかわからないから何を話したらいいかわからない)と受け取られるのだと思います。

自己開示や自己表現が怖くなってしまったきっかけは思い当たる節があります。
子どもの頃に「自分が思っていることを言うと相手を傷つけてしまうんだ」「自分の思いが伝わらないと自分自身が傷つくんだ」という体験をしたからです。
だからといって嘘をつくのが苦手なので、何も言わないようになりました。思ったことがあっても黙る。表現しない。そうやって自分を封じることを覚えてしまいました。

自分も相手も傷つけてしまう“自分の言葉”を、ずっと使うのが怖かった。自分のもののはずなのに手懐けられない猛獣のようで、使わないように慎重に避けてきました。
ときには「私は言い方がまずいだけで間違ったことを言っているわけではないから、傷つくほうが悪い」とジャイアン的な開き直りをしてみたこともありました。これも自分を責め続けるよりはマシで、自分の欠点と思えることを否定せず受け止めるという一定の効果はありました。

そして今の自分になってやっと、それを猛獣にするのも神獣やペットにするのも自分次第なんだと実感することができました。
「言葉を大切に扱えば、手懐けたり従わせようとする必要はなく自然と善きものとなる」というインスピレーションが降ってきました。
私自身が必要以上に恐れることで、それは手懐けなければならないものになってしまっていました。

よく私の言葉は「鋭い」「本質を突きすぎて致命傷になる」と言われてきました(特に母親から)。
子どもの頃はそう言われることに傷ついていたし、だから使わないようにしてきたのですが、それは素敵なナイフでもあるんだと今では思います。

「猛獣」といったり「ナイフ」といったり表現がブレていますが大目に見てください。合体させると「扱いの難しい日本刀」みたいなイメージです。笑
人それぞれが言葉にカタチを持っていて、お花のようにもらったらほっこりできるようなものだったり、湧水のように心を潤してくれるものだったりするのだと思います。
それが、私の場合はきっと日本刀なんです。(ほんとはお花とかがよかったけど仕方ない)

刀はいらないものを切り去ることができるし、大切なものを守ることもできる。だからそのために使おうと思います。そういうものを必要としている人の役にも立てたらなお嬉しいです。

無理に優しい言葉を使ったり、思ってもない表現をするのはやめます。もうこれ以上、自分を窒息させたくないから。
お花が必要な人はお花屋さんに行ってもらって、いらないものを切って欲しい人は私のところに来てほしい。それでいいんだ〜って思えるようになったし、日本刀を持ってる自分に誇りも出てきました。

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自分が欠点だと思っているところって、まずは開きなおりができれば十分だと思います。欠点を悪いところとして扱って、無視したり自己否定の材料にしたりしても何もいいことない。
そうしてるうちに、ある日ポンとそこから先へ抜けて欠点だと思っていたところが欠点じゃなかったと実感できる。

私の場合はこの「自分の言葉が怖い」というのは「自己開示・自己表現が怖いのなんでだろう」と考えていたところから見つかりました。
たしかに「言葉がキツい・鋭い」のはずっと気にしていたけど、思っていた以上に根深いコンプレックスだったことに今回初めて気が付きました。

ここまで書いてみて「自分の世界を人に見せるのが怖い」という第2弾もあることに気付いたのですが、、もう疲れたのでやめます...!

思いつくままに書き連ねてしまい長くなりました。最後までお読みくださった方、本当にありがとうございます。

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