ファシリティ
便所に籠って肛門に力を込める。
ふう。
一息ついて携帯端末を手に取る。タイムラインを遡り世界を切り取る。閲覧注意の虫画像に手が止まる。オオキンケイギクの花弁にとまるツユムシ、どちらに注意すべきか。鮮やかな花を旺盛に咲かせる特定外来生物。栽培しただけで三年以下の懲役もしくは三〇〇万円以下の罰金。世間は妙なところに気を配る。著名人の死が報道されればお気軽にRIP。#国葬反対 のハッシュタグは消え、県民葬まで無事に執り行われた。
足下には脱ぎ捨てられた白のつなぎ。ここでは一年を通じて誰もが長袖・長ズボンのオールインワンを身に纏う。便所が不便でならない。個室ではそいつを脱ぎ捨て、くすんだブリーフを足首までずり下ろす。便座に腰掛けた自身の身体を見下ろせば、陰毛の上に積み上がる二層の肉塊。この絶望的なアングルを写真に収めてアップすれば、多少の反響は得られるだろうか。不愉快だろう。不道徳だろう。
「頭痛がすれば芸術品」
香澄は言っていた。いい加減な妻だ。贅肉を摘まんで鼻を鳴らす一方、肉のアイデンティティーに僅かな期待を寄せる。頭痛がしはじめ、頬に往復ビンタを見舞った。
便所に何者かの足音が響く。未だ大便中に他人の気配がすると気を揉む。不惑を迎えたというのに青っ洟を垂らしていた頃と何も変わらない。耳を澄ませば小便器を打つ音。俺は唇を嚙みながら懸命に気配を殺す。
「栗栖、うんこしてんのか?」
晴山の声が響き、肩を揺らした拍子に携帯端末が落下した。慌てて拾い上げれば、強度が売りのゴリラガラスディスプレイに蜘蛛の巣が走っていた。
「うわっきゃ」
腹の底からこみ上げる怒りを必死に押し殺そうとすれば猿の声が漏れた。
「サボってないで早くしな」小便に続く水洗音。「便秘には、一に運動、二に野菜、三、四が無くてコーラックだぞ」
捨て台詞とともに晴山は便所から消えた。
俺はひび割れた携帯端末を眺めながら奥歯を噛む。坊ちゃん刈りに白い顔。晴山をぶん殴る自分を思い浮かべるが、誰もが似たような面を下げているから、ひしゃげた白い顔は自分のようでもある。
あいつが余計なことを言いふらす前に、そろそろ出すものを出し切って便所を出るか。それでも鉛のように重い腰が上がらない。扉の向こうに魅力的な世界が広がっていれば別の話だが、この日常には苛立っていたい。
「便秘には、一に運動、二に野菜、三に水分、それでも駄目ならコーラックだったよな」
どうでもいいことを検索し、俺はもう一度ひねり出した。いつだって快便。醜い肉塊が腹に巻き付いていても体調を壊したことはない。体力は落ちたが裸眼で一・五。乳児期の母乳で免疫力をつけ、幼少期にいい飯を食わせて貰ったお陰だ。親に感謝。なんだかんだと健康な奴は重宝される。おまえならば灼熱の南国でもうまくこなしてくるだろう。おまえならば極寒の北国でも丸く納めてくるだろう。
かつては二流企業に勤めていた。明けることのない氷河期に三流大学から就職できたのは上出来だ。何事にも嫌な顔せずイエスと答えられる健康優良人。使い勝手の良い社員が重宝とされるのも束の間。株主様のご機嫌を伺いながら成長を続けなければならないシステムでは、贅沢を望まなくとも現状維持は許されない。
俺は三十半ばにしてこのファシリティに送られた。会社に置いても害はないが、大きな成功をもたらすこともない。先を急ぐ社会に並走できない輩が行き着く先。それがこのファシリティ。一点でも尖った技能を手にすれば世のシステムに組み込まれる。俺たちは大人しく訓練を積めばよかった。ここでは面倒を起こさない輩が何より重宝される。
「世が世なら番傘職人にでもなりたかった」
会社勤めをしていた頃、この一言で交際中の女から縁を切られた。ファシリティ送りが目に見えていたから。ここは俺にとって居心地の悪い場所ではない。それでも、どこか苛立っていないと平静を保てない。
「おしり」をプッシュする。「前」を連打した。俺の肛門は一般的なニンゲンとポジションがズレているのだろう。洗浄位置を最前にしても噴水が肛門を射抜くことがない。深く便座に腰掛け、温水が吹き上がる方へと肛門を運んだ。
「うふぅ」
どうにかベストポジションを捜し当て、不抜けた声を漏らす。至福の時に目を細めた。
便所を後にすると、晴山が壁にもたれて腕を組んでいた。
「なにサボってんだよ」
言われる前に言ってやる。
「便秘でもしてんのか?」
晴山は薄ら笑いを浮かべた。
「至って快便だ」
「あんまりサボってっと、いつまでもここから出られないぞ」
「出る気なんてない。何度も言ってるだろう。訓練をこなすだけで三度の飯が食えるんだ。何の不都合がある?」
「退屈するだろう」
「携帯でも眺めていれば」
それで十分だと言いかけたところで、ひび割れたディスプレイを思い出す。俺の溜め息に晴山は首を傾げる。構わず歩き出せば、あいつも肩を並べた。
「おまえに言っても全く自慢にならないかも知れんが、CPCへの出向が決まったよ」
そいつを垂れたかったようだ。
「めでたいな」
美容整形に再生医療技術が広まり、セル・プロセッシング・センターのテクニシャン需要が増えている。
「栗栖ほどの技術はないけどな。思ったより辺鄙なところでもなかったから、志願してみたんだ。安アパートでも借りて細々やるさ」
「瑞樹は?」
晴山は目を丸める。
「そんなこと心配してくれるのか?」
「これでもヒトの親なんだよ」
「アンドロイドじゃねぇかと疑うがな」
「機械が便所でサボるか?」
「そりゃそうだ」晴山の笑い声が廊下に響く。「瑞樹とはしばらくお別れだけどな。たまには外出届を出して遊びに来てくれるだろう。そうそう。あいつ、面白いこと言うんだよ。人生ってのは交通費を稼ぐことなんだって」
面白いかどうかは別にして、どこか引っかかる言葉だ。
「ある程度蓄えができたら、あいつを扶養に入れてさ」
晴山は両腕を持ち上げて関節を鳴らす。俺は自然と笑みになる。
「夢があるな」
「多少は自慢になったか?」
小さく頷けば、晴山は満足げな表情を浮かべた。
そして、俺たちは二重扉の前に立ち止まる。携帯端末をタッチして一枚目の扉を潜る。ディスポのラボコートを羽織って、不織布キャップを被ったら二枚目の扉を潜る。二三度に保たれた作業場でニトリルグローブをはめると、エタノールでこすった手を振った。
インキュベーターから取り出したディッシュを安全キャビネットに並べると、電動アスピレーターで液体培地を抜き取り、PBSバッファーで軽く洗浄、ディッシュの底に張り付いた培養細胞たちを酵素で剥がしとり、その一部を新鮮な培地とともに新たなディッシュへ植え継ぐ。二、三度繰り返せば誰にだってできる単純作業だ。それでも、一日に一〇〇も二〇〇も繰り返すとなれば話は別、無心に成り下がるスキルがなにより必要とされる。
「訓練だっ、訓練だっ、訓練だっ」
連呼する指導員の声が、晩夏の蝉のように耳を打つ。アンドロイドなんじゃねぇかと揶揄する晴山の声を思い返し、自分が万能細胞で造られた有機ロボットである可能性を考える。それでも幼少期の記憶がある。世界はどこまでも窮屈で、つまらぬ欲を出す。作業をこなすためだけの有機ロボットならば、厄介なメモリーを大脳皮質に組み込まないでほしい。所詮、凡庸なニンゲン。ロボットに成り下がることは容易でない。一〇〇枚のディッシュをコンタミなく完遂させるとようやく終業のベルが鳴った。
腱鞘炎の腕を振ってラボコートを脱ぎ捨てると、再び晴山の声がかかる。
「お疲れ。香澄ちゃんは元気しているのか?」
自慢話の続きかと思えば、妻の名前が飛び出した。
「瑞樹の心配をしてもらったのに、これを聞くのを忘れていたよ」
そんな催促をしたつもりはない。ファシリティで知り合った妻は入籍した翌年に出ていった。別居生活も五年ほど経つ。
「寂しがっているだろう」
「克丸とのんびりとやってるんじゃないか?」
「あんまり寂しがりそうにもないか。でも、のんびりというのはよくない。またファシリティに戻される」
「あいつが戻ることはないよ」
「まだ描いているのか?」
俺が頷くと、あいつは思い出したように携帯端末を取り出した。流れるような操作に続いて、俺の端末が震えだす。ポケットからそいつを取り出せば、ひび割れたディスプレイから晴山の名前が読みとれた。
「やっぱり。さっき便所で携帯落としたろう」
俺は鼻を鳴らす。
「また始末書だよ」
「おまえ意外とそういうところあるよな。何度目だ?」
部屋に置かれたラップトップからワークフローを入力すれば交換品が届く。端末を破損させた場所や状況を入力する必要はあるが、承認されなかったことはない。
「独房に帰って、始末書でも書くか」
作り笑顔を交わして別れた。部屋へ向かう廊下で瑞樹と三日月に鉢合わせる。指導員の三日月は、長いケツ顎を彼女の頬に突き刺さんばかりにして、嫌らしい笑みを浮かべていた。瑞樹は俺に気づくと、助けを求めるように声を発した。
「あ、栗栖ぅ」
愛らしい声に自然と手のひらが踊る。三日月は瑞樹を背中に隠すように立ちはだかった。ケツ顎を撫でながら、こちらが望みもしない笑みを浮かべる。
「今日もいい仕事ぶりだったな」
やりがいのないことを評価されたところで、苦笑いしかない。俺は必死にそいつを噛み殺し、小さく頭を下げる。
「どうも」
「その『どうも』はどんな意味なんだ?」
『どうも』というのは、この国を渡り歩く上で非常に便利な言葉だ。時に『ありがとう』、時に『こんにちは』、時に『さようなら』、場面に応じて何とでも解釈される。『さようなら』だと思ってもらえればよかった。
「指導員様に褒めていただいたんだ。『ありがとう』に決まっているでしょう」
心にもないことを口にすれば、さすがのあいつも眉を顰める。
「おまえはいつになったらここを出るんだよ。あの技量があればすぐ出られるだろう。なんで一向に志願しないだ?」
ポケットから携帯端末を取り出して話題を逸らす。
「またやっちまいました」
三日月は目を剥く。芝居じみた素振りで長い顔を手で覆い何度も首を振った。
「今年で何度目だ?そんなんだからいつまでもここを出られないんだよ」
志願しないからではなかったか。
「すぐに始末書出します」
あいつに倣い、芝居がかった仕草で直角に頭を垂れる。
「いいからもう行け」
三日月は犬でも追い払うように手首を振った。俺はその暑苦しい顔を一瞥して脇をすり抜ける。瑞樹も後に続いた。
「あの指導員は好かん」
「背中に鼻糞でも付けてやりたい」
俺は小さく笑いをこぼした。
「ほじったら付けてきてやるよ」
好ましい回答ではなかったようだ。瑞樹は口元を歪めた。
部屋に戻り、コンピューターを立ち上げながら顔を洗う。始末書はお気に入りに登録されているからワン・クリックで辿り着ける。
「便所、不注意、で、なんか文句あるか」
どんな内容を入力しても、お咎めを受けたことはなかった。なんとか晴山のせいだというニュアンスを残したいが、便所で名前を呼ばれただけだ。考えるのも億劫になって申請を上げた。続いて、外出届の承認状況を確認する。
「オッケー」
週末には外に出させてもらえるようだ。
テーブルに置かれた携帯端末が震え出す。ひび割れた画面には「香澄」と表示されていた。
さっき腹筋二七〇回したわ
妻からこんなメッセージが届いたらなんと返信すべきか。口を尖らせ頭を捻れば夕食を告げるチャイムが響いた。携帯端末を握って部屋を出る。いくつものドアが一斉に開き、白い顔に坊ちゃん刈りを載せた連中が廊下に溢れ出た。
「よう、栗栖。また携帯割ったんだってな」
隣室のタムケルがにやけた。晴山のやつ。あいつはデカい形して無遠慮にデカい掌を振り下ろす。俺は顔を顰めてタムケルを見上げた。
「肩が抜けるだろ」
「毎回少しずつ力を加えてみるんだが、意外と平気なもんだな」
「ヒトの身体で妙なことを試してくれるな」
デカい顔に柔和な笑みを浮かべる。得な性格だよ。俺たちは肩を並べて食堂へ向かった。ひび割れた携帯画面をタムケルに見せる。
「バリバリだな」
「違う。メッセージを見てみろ」
タムケルは蜘蛛の巣に隠れた暗号文に目を細める。
「腹筋二七〇回?」
「妻からだ。なんて返信すればいいと思う?」
「俺は毎日五〇〇回してるぞ」
「おまえはいったい何を目指しているんだ?」
「単純作業に明け暮れていると、筋肉が疼くだろう」
筋肉馬鹿という四字熟語を必死に飲み込む。
「この前、廊下でジョギングしてたろ」
「指導員によく怒られるよ」
「小学生かよ」
「さっきのでいいんじゃないか?」
「なにが?」
「おまえはいったい何を目指しているんだ?嫁さんにそう返してやれよ」
「なるほど」
すぐに香澄の返信が返ってきた。
私の筋肉が疼くのよ
最近流行っているのか?
食堂にはファシリティの連中が列をなす。専任のおかっぱが、一五〇グラムの白米、一六〇CCの味噌汁、一三〇グラムのコールスローを目分量で測り取る。ここに当番制というものはない。食事をつくる者、配る者、便所掃除であれ、廊下のポリッシャー掛けであれ、全てが専攻科目だ。未来のトングマスターが一切れのチキンを載せた。
長テーブルにタムケルと肩を並べて席につく。座る場所はいつも通り、視線の先には晴山と瑞樹がいた。二人は飽きもせず微笑みをぶつけ合う。あいつらと一緒に飯を食ったこともあったが、いつまでもダラダラ箸をしゃぶっているのに嫌気がさした。
タムケルは見た目を裏切らずよく食べる。二回転は常だ。俺たちは食器の音を響かせながら黙々と食い物を口へ運んだ。大口を開いて白米を放り込む。筋肉がエネルギーを欲するんだよ。さあ食べろ。やれ食べろ。満たされた俺は頬杖をついてあいつの大口に魅入る。世界を絞り込み、視界いっぱいにタムケルの口元を映し出す。大きく開かれた口腔に白米が放り込まれ、窄んだ唇から味噌汁が吸い込まれる。強靭な顎と鋭利な前歯で鶏肉が切り取られ、窄んだ唇が引き離す。瞬時の判断で的確な動作が繰り返されていく。
取り込まれた食い物は糖質やアミノ酸に分解され、タムケルは動きはじめる。細胞は肥大と分裂を繰り返し体躯は膨張を続ける。タムケルの満腹中枢は崩壊し、閃光のような笑みが迸る。それでもまだ足りないぞ。膨張の果てに収縮がはじまる。満腹中枢がもたらす強大な重力によってあいつは押し潰される。空間までもが歪みはじめると、ついには物体という物体はもちろん光すらも脱出できない奇妙な空間が生まれる。はくちょう座Xのように。銀河系中心のように。タムケルを中心に世界は渦巻く。おかっぱどもは打ち上げられ、俺も耐えきれず飲み込まれる。
ファシリティの重たいゲートが開くと、週末に吐き出された。人生ってのは交通費を稼ぐことだね。どこかで聞いた言葉を思い出す。俺は守衛に頭を下げて一歩踏み出す。舗装された道の両脇には背を高くしたオオキンケイギク。克丸の顔を思い浮かべた。以前、あいつと何か約束した気がするのだ。ファシリティの僅かな収入と妻のパートタイム労働で、一人息子を養っている。香澄は訳あってファシリティを追い出された。俺たちは大きなジャンプを望まず、他人様に面倒をかけない存在であるべきだった。彼女には耐えがたいことだった。
「人生ってのは交通費を稼ぐことだね」
自動改札をくぐる度にそいつを呟く。駅構内にはクレヨンで描かれた乗車マナーのポスター。「譲られたら座ってあげよう」なんて教育が功を奏した標語。そのうち「座ってもらえなくても腹を立てるな」なんてポスターが出てくるだろう。
二回乗り継いで地元の空気を吸い込む。駅前の小さなロータリーでは『憲法十八条を叫ぶ会』とたすきが掛けした若者たち。男は肩掛けの小さなアンプにエレキギターをつないで聞き覚えのあるリフレインを弾いている。拡声器を握った女が虹色のアフロヘアーを被って条文を叫んでいた。
何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。
簡素なアパートの鉄階段を上り、二度ノックしてからドアノブを引いた。小さな台所の向こうに首を伸ばせば、俺の帰りに気づいていないのか、香澄は克丸とじゃれていた。穏やかな笑みを浮かべながら息子の首に腕を回す。克丸は艶のある黒髪を見せたまま振り返ることもない。イーゼルに立てかけられたキャンバスには香澄が描いた不可解な油絵。女の股座から広がる宇宙。子宮からはじまる物語を一枚の絵にするとなんだか陳腐なものに仕上がる。
「克丸の中には六〇兆個の星があって、あなたの宇宙が構成されているの」
あいつは変わらない。俺が小さい時に思い描いた世界が香澄の中にもあること知った時は子供のようにはしゃいだもんだ。いつまでもそんな絵空事を聞かされていれば歯が浮く。いずれ総入れ歯になりかねない。
「まったく、人生ってのは交通費を稼ぐことだよ」
俺は靴を脱いで居間へ向かう。
「何それ?」
彼女は視線を上げた。
「香澄が言ったんじゃなかった?」
「キミが言いそうだけど」
克丸の頭に手を伸ばすと大量の汗で濡れていた。
「調子が悪いのか?」
真っ赤な顔で寝息を立てている。
「熱出してね。さっきまで布団で寝てたんだけど、寝ぼけて起きてきた」
「そんな小僧に細胞が六〇兆個だとか、身体の中には宇宙があるかと話していたのか?」
「すぐ寝たけどね」
絵空事でもなにかの役には立つ。俺は発熱体を受け取って寝室へ運んだ。濡れた額を親指で拭って居間へ戻った。腕を組んで香澄を足元から眺める。
「なに?」
これと言って変わった様子はない。どんなマッチョに変わり果てたか楽しみにしていたが期待は外れた。香澄は女の股座と宇宙が描かれたキャンバスをテーブルの上に寝かせて、イーゼルを畳んだ。
「売れてる?」
「イラストの依頼が来たくらい。作品はなかなか」
「たいしたもんだ」
香澄はタイトなTシャツにガウチョパンツ。一枚のレコードに針を落とすと、素人には手拍子すら難しいフラメンコギター。香澄の身体は直ぐに応答した。背筋を伸ばし、小刻みにステップを踏む。
「あの子楽しみにしていたのに」
激しい舞踏(バイレ)、掻き鳴らされる六弦琴(トケ)、喉を震わせる歌唱(カンテ)、フラメンコはそれらの要素からなる総合芸術。
「前に帰ってきた時、鉄道博物館に行くって約束したじゃない?」
中世の蛮族侵入の時代に、ゲルマン系ヴァンダル人が攻め入ったことからはじまるアンダルシア。
「克丸、弟と妹が欲しいみたいよ」
さらにはムーア人がもたらしたイスラム系・東方系の文化が交じり合い、独自の歌と踊りの国を作り上げる。
「いいお兄ちゃんになると思わない?」
そして、どこかオリエンタルな響きは、北インドのロマニ系ジプシーによるものだ。
「もう一回くらいなら産んでみたいとも思う」
異質、異教徒の流れ者となれば、迫害のまなざしを向けられそうなものだが、アンダルシア人とは馬が合った。やがて、彼らは民俗芸能の融合を果たすことになる。
「克丸の時、人工受精で帝王切開だったじゃない。普通にこなしてみたい。そんな思いもあるんだよ」
俺はソファに腰を下ろす。
「下唇を被るくらい辛いんだろう?」
弾けないギターを弾くんだぜ。見えないギターを弾くんだよ。ステップを踏み続ける香澄。一見すると俺のギターに合わせているようだが、音楽の一瞬だけ先を踊っている。俺は伴奏をしているようで、香澄が俺を伴(つ)れている。スリリングな緊張感の中、三日月の嫌らしい笑みが紛れ込む。ふと怒りがこみ上げ、弾けないギターを振り上げる。見えないギターを床に叩きつけた。
ファシリティに戻ればなんだか空気が変わっていた。晴山が出ていったせいではない。おかっぱ頭が一人減ったくらい大した変化ではない。朝六時の起床ラッパには驚いた。ベッドから転げ落ち、何ごとかと廊下に顔を出せば、おかっぱ頭に白つなぎの集団がタオルを握って走っている。防災訓練でも予定していたかしら。目立ってはならないと皆に倣って行動する。部屋からタオルを引っ張り出し、おかっぱどもに続いた。
広場には男しかいなかった。皆一様につなぎを下ろして上半身裸になる。「一、二、一、二」と声を掛けながらタオルで乾布摩擦をはじめた。俺は状況が読み込めず、タオルを握って呆然と立ち尽くす。宿舎から大男の影が現れた。シルエットだけでタムケルと分かる。
「全体、気を付けっ」
野太い声が響き渡ると、おかっぱどもは乾布摩擦を止めてつなぎを正した。広場の東に立つおかっぱどもが南北へ一列に並びはじめる。
「右へ倣えっ」
続いておかっぱども右手を腰に当てながら東西に並びはじめる。マスゲームのような規律訓練ははじめてだ。
「皆、異常ないかっ」
「異常なしっ」
「皆、異常ないかっ」
「異常なしっ」
「そこぉっ、声が小さいっ」
タムケルは鬼軍曹を気取ってフランクフルトと見紛う指を突き出した。俺はその指先から放たれた力にひっくり返る。
「腕立て伏せの姿勢を取れっ」
俺たちは操り人形。タムケルがカウントをはじめると、広場のおかっぱどもは揃って腕立て伏せをはじめた。二〇回もせずに崩れる落ちる奴がいる。三〇回を越えた頃に俺が蹲れば、タムケルは幾分満足したようだ。
「よし、立てぇっ。皆、異常ないかっ」
「異常なしっ」
再びラッパの音が響く。今度は何だと見回せば、皆、弛緩し切った表情で宿舎へ戻っていった。俺は頭が混乱したまま、おかっぱどもを見送る。この状況を説明してもらいたいが晴山はいない。タムケルに聞いたところでまともな回答が得られると思えない。ひとまず部屋へ戻り、頼りのコンピューターを立ち上げた。予定表を見る限り変わりはないようだ。
「瑞樹に聞くか」
思いがけず運動を強いられ、久しぶりの空腹感で食堂に向かった。瑞樹の背中を探すが、嫌なものほどよく目につく。後ろ手を組んだ三日月が仁王立ちしていた。
「なんだか久しぶりに見る気がするが、おまえはまだここにいたのか」
「どうも」
俺は小さく頭を下げ、小走りにその脇を抜けた。「どうも」の意味を問われた気もするが、構わず食堂へ向かった。
「栗栖ぅ」
瑞樹はいつだって期待を裏切らない。俺は急ブレーキをかけて笑顔で振り返った。弛緩しきった顔に彼女は怪訝な表情を浮かべた。
「朝っぱらから三日月に会っちまってな」
「あいつ暇そうにしてたね」
肩を並べて廊下を歩いた。
「晴山が出ていって、寂しくなったな」
瑞樹は口角を持ち上げて首を振る。
「会いに行けばいいだけよ」
「瑞樹は無駄が無いな」
「栗栖ぅだって香澄さんに会いに行ったんでしょ」
瑞樹がこのファシリティに送られてきた頃、香澄は既に追い出されていた。二人に接点は無い。
ファシリティに送り込まれたばかりの香澄は、訓練が終わると誰に愚痴を漏らすでもなく部屋へ籠もった。はじめての出会いは毎度のように俺が携帯を無くした夜のこと。廊下で出くわした彼女に携帯番号をコールしてもらったのだ。
「なかなかうまいことやるもんだ」
晴山は感心していたが、そんなつもりはない。結局、携帯はベッドの上で見つかった。サンキューメールを送信すれば、妙な写真が送られてきた。スルーできるほどの関係性はない。気味の悪い絵画だと思いつつも賛美する。それ以来、香澄は作品ができるたびに写真を送ってくるようになった。
いつまでも部屋で大人しく絵を描いていればよかったのだが、ある日、白のつなぎを肌色に塗りかえ、乳房や局部を描いて食堂に現れた。誰もそんなことをする女だと気付いていなかった。気の迷いだろうと一週間の懲罰房で済まされた。処分が空けた日、裸体に真っ白なつなぎをペインティングして食堂に現れた。役人や俺を含めた全てのおかっぱは唖然、即日追放となった。ここは刑務所でない。追い出されたものは社会から見放され、あいつにはもう芸術くらいしか生きる術がない。
「人生ってのは交通費を稼ぐことなんだって?」
「晴山から聞いたんでしょ?」
「瑞樹が言ったんだろ?」
瑞樹は首を振る。
「晴山は言い張るけど、言ってないんだよ。ヒトが動くとお金がかかるって、お祖母ちゃんが言ってた。交通費を稼ぐのが人生なんて、そんな訳ないでしょう」
そんな訳ないのか。
食堂に辿り着けば一際大きなエネルギーを放つ男が目に付く。デカい顔に柔和な笑みを浮かべて、朝食に向き合うタムケオ。あいつの周りには指導員連中が取り囲んでいた。その中でも三日月は抜群に顔が長い。 俺と瑞樹はプレートを手に取り、配膳の列に加わる。
「タムケオのやつ、指導員にでも志願したのかね」
「ここに送られる前は自衛官だったって聞いたけど」
そいつは俺の知らないタムケルの過去だった。
「栗栖ぅは、他人に興味が無いからね」
配膳の列は進み、一五〇グラムの白米、一六〇CCコンソメスープ、一三〇グラムのマカロニサラダが盛り付けられる。そして、トングマスターにより一切れのムニエルがのせられた。
「自衛隊に戻るのか?」
アタシガシッテルワケナイデショ。顔に描かれていた。ふと駅前で声を上げていた若者たちを思い出す。
「街は徴兵制度反対で盛り上がってんな」
元陸上自衛官の防衛大臣は、平和安全法制特別委員会で示された内部資料について、「法案の内容を丁寧に説明するとともに、今後、具体化すべき検討課題を整理したもので、統幕として当然必要な分析研究をした」と語った。SNSで摘まみ食いした情報だ。なんのことやら咀嚼し切れていない。
「今年にも徴兵制度法案が成立して、半年後には施行だって」
俺たちは向かい合ってテーブルにつく。
「憲法十八条を叫んでる奴らを見たよ」
「徴兵制は意に反した奴隷的な苦役じゃないらしいよ。国を守ることが苦役でどうするんだぁって」
「苦役だなぁ」
「栗栖ぅは、なんにも興味無いもんね」
反論の余地は無く、喉に米を詰まらせる。吐き出すよりもコンソメスープで流し込んだ。
「そんで、元自衛官のタムケルは何するつもりか」
「私が聞きたいよ。本当になんにも知らないんだから」
罪悪感に包まれ俺はどうにか言葉を捻り出す。
「まぁ、でも、なんだ。そのナンチャラ法案がらみの動きなんだろう。統合幕僚監部としては、当然必要な分析研究というものがあるらしい」
「なにほれ?」
瑞樹はムニエルを齧りながら首を傾げる。それ以上の言葉が続かずマカロニサラダを頬張った。いつだって言葉ばかりが先行し、何がはじまるのかその実情は当人すら知らない。中庸がウリの俺たちだ、分析研究の試料としては申し分ない。タムケルだって丸め込まれたのだろうが、何もかもが体制の言いなりでは面白くない。
大口を開けて飯を取り込むタムケルに視線を運べば、いつものように身体の肥大化と満腹中枢の崩壊が進んでいる。巨大な重力を獲得した中枢は、タムケル自身を押し潰し、取り巻きの指導員たちを次々と吸い寄せていく。空間が歪み始め、三日月ご自慢の顎が渦を巻きはじめる。発せられるがなり声はもうこちらには届かない。俺たちを取り巻く空間は引き伸ばされ、時間の進みが極端に遅くなっていく。食堂にいるおかっぱどもを巻き込み、否が応でも満腹中枢に引きずり込まれていく。途轍もない力を前にしても、時間の流れは緩やかで、どこか緊張感に欠ける。タムケルはまだ満ち足りない。
「ちょっとマズいんじゃないか」
ここにはいないはずの晴山が姿を見せる。
どうもバランスが悪い。
直ぐに来てほしい
俺は香澄にメッセージを送った。濃厚な気配に続いて、空を覆っていた雲が割れた。雷鳴のような音を轟かせながら、空を覆うとてつもなく大きい女が、仰向けになって飛んでいる。首を後ろに折り、口からジェット噴射を吐き出している。翼のように広げられた両腕、蟹股に広げられた足、そして、爪先をぴんと張り、空飛ぶ航空母艦といった様相だ。
広げられた両腿の空間を股座と呼ぶ。帝王切開の傷跡が残るその先に広がる股座は空間と呼ぶには未成熟な混沌。ゼロにはならない確率で突如として規律が生まれ、俺たちは時間と空間が誕生の瞬間を目にする。たった六〇兆個の星からなる宇宙。星々をつないでいくと、克丸という名の銀河が現れた。俺は両腕を広げる。そして、産み落とされた小宇宙を、ありったけの愛情を込めて抱き止めた。
「射撃は自衛官の基本だから、訓練はもっと多くあったほうがいいんだ」
タムケルは満腹中枢から懸命に音を発する。
「軍行と言ったって高々一〇キロじゃないか。装備を担いで歩くにしても、こんな平地で一体何の訓練になる。富士演習場の山岳コースとは訳が違う。夜間だろうが山中を地図と磁石だけで歩くんだ。野営テントを張って、塹壕を掘って」
タムケルはなおも食料を詰め続ける。さあタムケル、どんどん食べろ。細胞の肥大と分裂が進み、身体は収縮に抗う。
「おまえ、妙な培養肉でも食わせたろう」
晴山が疑いの目を向ける。
「タムケルの才能の開花だよ」
食堂には奇妙な二つの天体。タムケルが全てを飲み込むブラックホールであれば、香澄は僅かな確率で物質を吐き出すホワイトホール。食堂に集まったおかっぱどもは、渦巻く天体の波にのまれて歪んだ空に漂った。俺と晴山は克丸の巨大な質量で、何とか踏みとどまる。未成熟な流れは嵐のように吹き荒れ、その中に一滴の涙が煌めいた。
「嗚呼、瑞樹が呑まれていく」
「瑞樹はとてもいい子だった」
「好きだと言えばいいじゃないか」
「馬鹿言うな。女房の手前だぞ」
俺が声を潜めれば、晴山は鼻を鳴らす。
「俺が許すと思うのか?」
「ならばどうする?」
晴山はバックパック式の火炎放射器を背負っていた。
「陸上自衛隊は日本住血吸虫の殲滅作戦だってやるんだぜ」
「おまえCPCじゃなかったのか?」
銃口を空高く香澄に向け、着火させたゲル化ガソリンを圧縮ガスで解き放った。大きな火柱が立ち上がると、巨大な香澄は次第に炎に包まれていく。俺は目を剥く。克丸を抱えて、トケ・フラメンコを奏でる。弾けないギターを弾くんだぜ。見えないギターを弾くんだよ。燃え盛る香澄は克丸の譫言にあわせてバイレ・フラメンコを踏み出した。
フラメンコの語源には諸説ある。一説には、スペイン語で「炎」を意味する「フラマ」から派生した。また一説には、ジプシーたちが使う言葉として「フラメアンテ」という隠語があり、それがいつしか「フラメンコ」に変化した。それは「派手な」「気性の激しい」「無頼で気取った」といった性格を示すもので、香澄は光さえ吸い込まれた世界を照らし出すフラメンコ。そして、香澄は音楽の一瞬だけ先を踏む。俺は伴奏をしているようで、香澄が俺を伴(つ)れている。
タムケルは夜空を無尽蔵に舞うおかっぱどもが気に入らない。
「全体、気を付けっ」
おかっぱどもは強大な力を前になす術がない。
「皆、異常ないかっ」
「異常なしっ」
「皆、異常ないかっ」
「異常なしっ」
タムケルは成熟していない。俺は声を張り上げた。
「異常はあるっ」
巨大な香澄に対して、あいつはまったくバランスが悪い。
「そこぉっ、声が小さいっ」
タムケルは鬼軍曹の形相でフランクフルトを突き付けた。俺は放たれた力に、克丸の質量で持ちこたえる。
「異常はあるっ」
「もっと食べろ、タムケル。おまえはまだまだ熟していない」
高圧縮されたタムケルの中心には、物質同士の異常接近による特異点が形成される。
「いいぞ、タムケル」
あいつの周辺に事象の地平線が見えてきた。その時、晴山の背負っていたボンベの圧縮ガスが切れた。一本の炎で香澄とつながれていた晴山は、その反動で弾き飛ばされ、成熟しつつある流れに飲まれた。俺はそれを見送る。
「あそこを越えたら、物体という物体はもちろん、光すら脱出できない」
晴山は泣いていた。
「瑞樹は呑まれた」
晴山は地平線の向こうで引き伸ばされる。
「見ろよ」
空には香澄からタムケルへ一方向の流れが出来上がっている。おかっぱどもはタムケルに飲まれていく。規律が生まれ、世界が成熟しつつある。
「俺たちはどうなるんだ?」
適切な言葉を探していれば母艦から声がする。絵本を読み聞かせる母の声。
「たべたものは、きれいなどろになってでてきた。そうして、どこまでもひろがっていった。どこまでも どこまでも、やがてみどりのだいちになり、ずうっとむかしにもどってしまった」 ※『みみずのオッサン』長新太
克丸がキャッキャと声を上げた。それはとても素晴らしいことだと思う。克丸が望む世界には帰り道が必要だ。
タムケルに飛び込んだものたちを、出口から拾い上げてほしい
俺は香澄にメッセージを送る。成熟しはじめたシステムを見渡す。香澄とタムケルが生み出す天の川には嫉妬する。おかっぱどもは大きな流れの先で事象の地平線を踏み越える。緩やかに引き延ばされながらタムケルの満腹中枢へ向かう。最小単位まで分解されたものは、きれいなどろになってでるだろう。そうして、どこまでもひろがっていく。どこまでも。どこまでも。鮮やかな彼の地で土になりな。おまえたちを肥やしにオオキンケイギクは咲き誇る。まだ若く、体の柔らかいツユムシが跳ねる。
タムケルは極限まで凝集し、もうその姿を拝むことはできない。光も呑まれた空で香澄は大きく頬笑んだ。俺たちはもう離れることはない。どこまで行っても、空を見上げれば香澄がいる。克丸の手を取り歩いている。
「克丸、弟と妹が欲しいみたいよ」
「いいお兄ちゃんになると思うよ」
香澄はタムケルの出口とつながった。ゆっくりと広がる両腿。股座に生まれる新たな双子の銀河。たった六〇兆個の星からなる晴山と瑞樹。俺と克丸は夜空に両手を伸ばし、産み落とされる二つの命を抱きしめた。
「可愛いね」克丸は言う。
「可愛いな」俺は言う。
「あの子楽しみにしていたのに」香澄は言う。
俺は首を傾げる。
「この前帰ってきた時、鉄道博物館に行くって約束したじゃない?」
そうだった。俺たちは大人しく訓練を積めばいい。このファシリティでは面倒を起こさない輩が何より重宝される。来月にはまたわずかな給料が振り込まれるだろう。そうしたら再び外出届をだそうか。人生ってのは交通費を稼ぐことなんだよ。