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ちくわ

  柴犬、ボルゾイ、パグ、チワワ、チワワ、ミニチュアピンシャー、チワワ。

 母方の実家で歴代飼われていた犬の種類だ。チワワの数が多い気もするが、だいたいそんなところだったはずだ。
他にも猫や鳥、フェレットや小型のワニまでその種類は多岐に渡ったが、その中でもとりわけ犬を好んで家族に迎えていたように思う。
 元気だった頃の祖父が大の犬好きだったのが大きかったのだろう。
 そんな理由で母の実家はいつも賑やかだったし、犬臭かった。
 記憶では物心ついた頃から祖母の自宅に行くと、いつも数種類の犬に出迎えられていた。
 そんな歴代の飼い犬たちの中でも特に思い入れのある犬がいる。

 柴犬のクロ。
 クロは名前の通り、黒い毛並みに少しだけ茶色い毛が混じった雄の犬で、誰にでも腹を見せるような、人懐っこい性格をしていた。
 他の小型犬たちと違って体も大きく、彼の寝床は玄関を出たすぐ脇にある小さな駐車場の敷地内にあった。ベニヤ板とトタンを組み合わせて作った簡素な寝床。
 その奥にいつも丸まって寝ていて、僕や兄が顔を見せると決まって嬉しそうに尻尾を振りながら、外に飛び出してきた。
 

 ある夏の日のこと。
 いつものように家族連れ立って実家に遊びに行くと、いつもは真っ先に小屋から飛び出し出迎えてくれるクロの姿がない。
 クロは特に紐で小屋に繋がれている訳ではなく、放し飼いの状態だった。
 今の時代では考えられないが、昭和の時代ではよく見られる光景であり、それが普通だった。
 そのためクロは常に自由の身で、気が向いた時に小屋を抜け出し町内をパトロールする。
 気に入った家を回り、そこで気が済むまで撫でられたあと小屋に帰る、というのが彼の日常だった。
 人懐こく、噛みついたりすることもないため、いつも身に着けている首輪さえあれば野良犬として扱われることはない。
 それどころか町内では「クロちゃん、クロちゃん」と可愛がられ毎日の訪問を心待ちにする住民も多かった。

 その時も大方その辺の民家の縁側で、腹を見せワシャワシャと撫でられているのだろう、と思い気に留めなかった。
 リビングに入り、キッチンで麦茶を用意する祖母の背中に兄が声をかける。
「おばあちゃん。クロ、またどっか行ってるんか?」

 その瞬間、祖母の手が止まった。

「クロ死んだ」

 一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
『クロ』と『死んだ』という言葉がうまく繋がらなかったからだ。
(クロシンダ?クロシンダ?って何?)
K-1の選手か?
そんなことを考えていた。
「えぇ!クロ死んじゃったって……なんで!?」と母が声をあげる。その声でやっと格闘家の話なんかではなく、愛犬の逝去を祖母が伝えているのだと理解した。

 祖母の話によると、クロが死んだのは一週間ほど前のことらしい。
 その日いつものように町内に出かけたクロは夕方小屋に戻った。
 祖母が小屋に夕飯を運んだとき、クロは小屋の奥で丸まっていた。
 
 そのクロの鼻先に、なぜか乾いた「ちくわ」が一つ転がっている。
 
 当時、クロを可愛がっていた近所の住民の中に「原田の婆さん」なる人物がいた。
 ニコニコと笑い、枯れ枝のように痩せた体を限界まで前傾させた姿勢は、いつも僕にボーリングの投球フォームを彷彿させた。
 記憶では九十を超えていたように思う。
 一人暮らしの原田の婆さんは特にクロを可愛がり、毎日のように軒先に上がり込むクロにちくわを与えていた。
 今クロの鼻先にあるちくわも原田の婆さんが与えたものだろう。そう考えた祖母は気に留めることなくリビングに戻った。

 その日の夜半、駐車場から聞こえるクロの悲痛な鳴き声に目を覚ました祖母が不審に思い犬小屋を覗くと、クロが苦しそうな声を上げ、荒い呼吸で小刻みに震えているのを見つけた。
 これはいけない、と救急で動物病院に連絡したが、医師が様子を見る頃には既に手遅れだった。結局クロはそのまま息を引き取った。医者によると重度の食中毒だったという。


「ちくわや。ちくわに当たったんや」苦々しく祖母が呟く。

 そこまで聞いて僕は、自分の中に怒りと腹立たしさがふつふつと沸き出す感覚を覚えた。クロが死んだのは十中八九原田の婆さんが与えたちくわのせいだ。

 夕飯まではまだ時間がある。原田の婆さんの家はすぐ近く、路地を抜けた先のボロ家だ。一言文句を言ってやろう、と思った。
「あんたが可愛がってたクロは、あんたのちくわのせいで死んだ」と。

 勢いに任せ玄関に向かいサンダルを履く。後ろから「どこ行くのあんた!」という母の声を聞いたが「サティ!」とだけ答えた。
(サティは当時良く通っていた駅前の商業施設で小さなゲームセンターが併設してある)

 サティには行かない。クロの仇の元へ行くだけだ。

 家を飛び出て、ものの数秒で原田の婆さんの家に着いた。原田の婆さんとは顔見知りだ。可愛がって貰った記憶もある。しかしそれとこれとは話は別だ。クロを殺された怒りと「仇討ち」という正義感に任せてインターホンを何度も押す。

 はぁい、というか細い声と同時にガチャリとドアが開き、枯れ枝みたいな婆さんが顔を出した。

「あらぁ……あなた……ヒロちゃん?」
 僕が話し出す前に婆さんが口を開く。

 婆さんは目を細めながら僕の手を両手で握り「久しぶりやねぇ……大きくなって……」としわの深い顔をさらにしわくちゃにして笑った。

 その瞬間、あれだけ胸の中に渦巻いていた怒りや腹立たしさが嘘みたいに霧散して消えた。さっきまでの勢いはどこにもなく、残ったのは戸惑いだけだった。 

「あ……あの……」
 僕が言葉を絞り出そうとしていると、

「あぁ……そういえばねぇ……クロちゃん、最近見てないんやわぁ……どないしたんね?」

クロちゃん、という言葉を耳にした瞬間に、僕は何も言えなくなった。文句どころか何一つ言葉が浮かばなかった。

 その時に見た、婆さんの背中越しの薄暗い簡素な部屋は、今でもはっきりと覚えている。
 まるでクロの住む犬小屋みたいだった。
 一人暮らしの寂しさや侘びしさが室内に充満し、壁や床に染み付き、抱えきれずに玄関から溢れ出ているような、そんな悲しい部屋だった。
 
 この人は毎日遊びに来るクロのことを、どれだけ心待ちにしていたのだろう。クロが自分のせいで死んでしまったと知ったら、どれだけ自分を責めるだろう――。



 「クロは……」
 絞り出した僕のかすれた声に婆さんが顔を上げる。
「クロは……今、ちょっと調子悪くて……」

 それが精一杯だった。
 婆さんは「そう……」とだけ言い、また顔を伏せる。

「あっ、クロちゃんにあげたいものがあって……待ってて」
 そう言いながら婆さんがパタンとドアを閉めた。
 無視して、もう帰ろうか、と悩んでいると、またすぐにドアが開き婆さんが顔を出した。そのまま僕の手にビニール袋を握らせる。
 中身を見るとそれは袋詰めされた、たくさんの「ちくわ」だった。

「クロちゃん、ちくわ好きやから」

 包装された袋には小さく数字が並んでいて、それらはとうに過ぎ去った日付を記していた。
 その時僕はなんとなく(あぁ、もう駄目なんだ)と思った。

「お婆ちゃん、これ、賞味期限切れてる」
 そう告げたが、婆さんは言葉の意味がまるで分かっていない、ぼんやりとした顔で僕を見ていた。

 結局その後僕は玄関に上がり、冷蔵庫の中身を一つ一つ確認し、いくつかあった賞味期限切れの食材を処分した。

 牛乳、卵、ちくわ、揚げ物、ちくわ、ちくわ。

 言うまでもなく、このちくわはクロのためのものだろう。
「賞味期限、ちゃんと見て。こんなん、食べたらあかんよ……死んでまうで」
 死んでしまう、そう口にした時僕はなぜだか涙が出そうになった。
 それが婆さんに対しての憐れみや同情だったのか、クロの死を思っての悲しみだったのか分からない。
 けれどあの瞬間に僕は確かに「死ぬということ」を初めて意識した。意識したことで思い知らされ、どうしようもなく胸が締め付けられた。

 冷蔵庫の中身を片付けたあと再び玄関を出る。婆さんの表情は西日でうまく見えなかった。ただ去り際に後ろから小さく「ありがとうね」という声を聞いた。

 家を出て、夕暮れの路地を自宅に向かい一人歩く。
立ち並ぶ路地のレンガの隙間から夕日で染まるサティが見える。
 サティを眺めていると、急に途方もないやるせなさが込み上げた。
 ビニールに入った賞味期限切れのちくわは、袋ごと自販機のゴミ箱へ突っ込んだ。

 婆さんがもう二度とクロにあげることが出来ないちくわ。
 クロがもう二度と食べることが出来ないちくわ。
 婆さんとクロを繋ぎ、残酷に引き離したちくわ。


 それからしばらくした後、原田の婆さんのボロ屋は取り壊され更地になり、駅前のサティは真新しい別の商業施設になった。
 クロが毎日パトロールしていた町並みはすっかり変わり、放し飼いの犬なんてものはほとんど見なくなった。
 
 原田の婆さんが親族に迎え入れられたのか、それともあの悲しい部屋で一人寂しく最期を迎えたのかは、僕には分からない。

今でもたまに、ふとした瞬間あの日の赤く染まったサティを思い出す。

 尻尾を振りながら駆け寄ってくるクロと、しわくちゃな笑顔の婆さんと、賞味期限の切れたちくわを巡る、僕の思い出話だ。



 


 









 







 


 


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