見出し画像

休職日記 #33:未来の自分へのメッセージ

休職し始めて2ヶ月が経とうとしている。
だが、自分自身、今の状態が正確に把握できていないと感じている。
2ヶ月前と比べて、今の私はどうなのだろうか?
私自身の感覚では、悪化しているようにも思うし、改善しているようにも思う。実際、ある面では回復していて、ある面では悪化しているのだろうし、そういうものなのだろうとは思うが、そのどちらもあまり手応えがない。

もう少し具体的に書いてみる。
自己認識ができないくらい混乱しているとも言えるし、それに対して焦りや不安がある。それに焦点を当てれば悪化しているという風に感じる。
逆に、自己認識をしようと今の自分の状態を知ろうとすること自体は回復に向けた重要なステップだし、こうして日々の考えた内容を日記という形なりで継続できていることは、明らかに回復に向けたプロセスだとも思う。

こうして書き出してみても、やはり手応えを感じないというか、それが本質ではないような気がする。
何かもっと深いところに本当の何かがあるような気がする。でも、それが何なのかはわからないし、それに向き合うこと自体に対しての不安感もなくはない。

一日一日を無駄にしてしまっているような気がしてならない。休職していることに対して常に罪悪感がつきまとっているし、せめて休職していることに意義を感じたいと思っている自分がいる。
果たして、今の自分はきちんと心身を休めることができているのだろうか?
何故こんな思考に至るのだろうか?
こんな思考に至るのは、実際には休めていないことへの証左なのではないか?
反芻する思考をしたところで、そこに出口はなさそうなことくらい、これまでの経験で知っている。
だから、不具合を起こしたプログラムのデバッグをするかのように、コーピングリストを上から試していって、どこかに軟着陸させる。
それが「目に見える不具合が見えなくなったからヨシ!(現場猫)」という付け焼き刃な対応だということをどこかで理解していても、これ以上の深入りは何となく危うい雰囲気を感じてしまう。
でも、きっとそこで立ち止まってしまうことが、これまで何も解決してこなかった原因だと薄々気が付いている。

こうした感情の持って行きどころがわからなくて、日記として吐き出しておけば、きっと未来の私が見返した時に何となく察してくれることを期待している。今の私が2ヶ月前の日記を読み直して、その頃の自分の感情や思考を察するように。

過去になってしまった自分に対しては声をかけることはできないけれど、今の自分が未来の自分に対して言葉を託すことはできる。
未来の私よ、どうか今の私の苦悩を忘れないでいてほしい。この苦悩が解消しているかどうかはわからないけれど。解消しているならばよかったと思うし、解消していないならば、その時はまた未来の自分に言葉を託そう。私が生きている限り、未来の自分に言葉を託すことができる。
それを「希望」と呼んでもいいんじゃないか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?