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『部品メーカー残酷物語』第十四話

第十四話「セールス実習 その4『ハイヒールで三時間……(^_^;)』」

 後堂さんの車で営業所まで戻ってくると、私は自分の鞄を取りにオフィスに行き自分の席に向かった。

「竜胆(りんどう)さん!」
「? はい」

 ちょっと高めの可愛い声で私に話し掛けてくれたのは、二人いる事務員のうちの若い方の女性だった。
 後で分かったことだが、彼女が卒業した短大が私の実家とさほど離れていなかったこともあり、彼女とはすぐに打ち解けることができた。薄化粧に少しソバカスが残る彼女のことを、この物語では「ソバカスちゃん」と呼びたい。

「これ、竜胆さんの名刺とセールスバッグね」
「あーっ ありがとうございます。ええと……セールス鞄って結構大きいんですね!」 

 ソバカスちゃんが私のデスクの上に置いたセールス鞄は、おそらく手提げ鞄としては私がそれまで見た物の中で最大だった。軽く持ち上げようとしたがなかなか重い。本革の香りを漂わせたその鞄は何も入っていないのに結構な重量で、これから始まる三ヶ月間のセールス実習の重みのようなものを私に感じさせた。

「持てますか?」
「あっ はい。大丈夫だと思います」
「でも、カタログとか入れるでしょう?」
「! そっそうですね……(汗)」

 ソバカスちゃんは、ニッコリと笑ってカタログの場所を教えてくれた。私は取り敢えず全車種三部づつのカタログを鞄に入れた。その上に価格表、限定車や特別仕様車の小冊子、自動車保険の案内を入れたら鞄はもうパンパンに膨れ上がり、両手で持ち上げるのがやっとだった。どう見てもこの鞄を持ってさっき後堂さんに教えられた担当エリアを歩き回るのはちょっと厳しい。

「一部づつでいいじゃないの?」
 後堂さんがそうアドバイスしてくれた。
「そっ そうですか?」
「話を聞いてくれる人がいたら、その顧客が興味を持ってくれた車種のカタログを名刺と一緒に渡す。そうしたら一旦営業所に戻って来てカタログを補充してからまた外回りに出ればいい」
「それでは、一日に何度も営業所に戻って来ることになりませんか?」
 私はそう返したが、後堂さんはニヤニヤして答えてくれない。ソバカスちゃんも笑顔のままその場を離れて行った。
 ここは先輩を信じて従う方が良いだろう。そう思った私は少々不満ながらも一車種につき一部のカタログを置いて、残り全て元の場所に戻した。するとまあ重いことには重いのだが、なんとか片手で持ち歩けるほどになった。

「これならなんとか……」
「じゃあ、行っといで!」
「ハイ! 行って来ます」

 私は、後堂さんに渡された地図を見て取り敢えず営業所に近いところから、虱(シラミ)潰しに一軒々々回って行くことにした。
 時間は昼前。十一時過ぎだった。

 ……約三時間後……

 私は公園のベンチに座り、ハイヒールを脱いで自分の足をマッサージしていた。「お客様にちょっとでも良い見た目を……」などと思い普段やらない化粧をした上にハイヒールを履いて来たのは完全な間違いだった。
 元々下手な化粧は、流れた汗でドロドロ。足は履き慣れないハイヒールで長く歩き回ったせいで爪先が痛くてこれ以上歩けなくなってしまった。
 私は疲れで浮腫(むく)んでしまった脹脛(ふくらはぎ)を、重いセールス鞄を持ち続けてフラフラになった手で揉みながら、この三時間余りのセールス活動を思い出していた。

 三時間で、一体何軒のチャイムを鳴らしたか数えていないが、返事があったのはわずか十軒ほど。インターフォン越しに「〇〇自動車です」と言った途端に相手が黙ってしまったのが九軒。玄関まで出て来てくれたのはわずか一軒だった。それも私がセールスマンだと分かった瞬間に、相手はすぐにドアを閉じてしまい、喋る時間はこれっぽっちも貰えなかった。

 これで全てに合点がいった。
 ハイヒールなんて疲れるだけで全くの無駄。化粧だって外回りの時は程々で大丈夫。
 そもそも話を聞いてくれる人に出会うだけでも難しく、カタログを渡せるかどうかはその先だ。当然ながらカタログは一部づつあれば十分で、もし運良くカタログを渡せたとしたら、その日はラッキーだと思って営業所に戻って祝杯を挙げても良いのかもしれない。
 最初自分が抱いていた理由の無い自信のようなモノは、いとも簡単に打ち砕かれ、私はセールス実習の初日、外回りを初めてわずか三時間あまりで完全に打ちのめされ、ガックリと首を項垂(うなだ)れ大きな溜息をついた。

 まだ定時まで時間はあったが、再度担当エリアを回る元気は残っていない。そんなことより頭を使うべきだろう。なんとか歩ける程度まで足が回復してから、私は今後の対策を考えながら営業所に戻って行った。

 営業所に着いたのは定時の約一時間前。
 営業所に残っていたのはチビヤクザの営業所長と二人の女性事務員だけだった。私が部屋に入ると三人は「お疲れ様!」と元気良く声を掛けてくれたが、私は小さな声で「只今戻りました」と答えるのが精一杯だった。
 すぐにソバカスちゃんが、お茶を入れた湯飲みを私のデスクまで持って来てくれて「お疲れ様です。どうでしたか?」と声を掛けてくれたが、それに上手く答える言葉を私は持ち合わせていなかった。自分のこの気持ちをなんとも表現出来ないことが悔しい。私は苦笑いをしながら、心の中で「分かってください。疲れ過ぎちゃってこれ以上喋りたく無いんです……」と視線で合図を送ると、ソバカスちゃんは理解してくれたらしく、軽く頷き笑顔で自分の席に戻って行った。

 けれどもチビヤクザの方は容赦が無い。
「竜胆君!」
「はい!」
 私は重い体に鞭打って立ち上がり、所長のデスクによろよろしながら歩を進めた。
 やっとの思いでチビヤクザの元に辿り着いた私に、灰色の薄いA4サイズのノートを渡しながら彼は言った。
「これは一ヶ月分の日報ノートだ。毎日記入して休みの前日に提出してくれるか?」
「日報? ですか……」
「そうや。中を見れば大体分かるやろう。書き方は後堂君に聞いてくれ。それより竜胆君、休みは何曜日に取る?」

 今朝のブリーフィングで、休みについては営業所の所長と相談して決めるようにと説明を受けていた。確かにセールス実習中の休日は営業所に合わさなくてならないので仕方がない。
 自動車販売会社の役目は、顧客への〇〇自動車の販売である。顧客はもちろん仕事を持ち、その多くが会社員で休みは日曜日である。ちなみにこの当時、土日休みの週休二日制を採用した企業はまだまだ少なく、東証一部上場のいわゆる優良大企業だけだった。ちなみに〇〇グループの中で完全週休二日制の企業は本体の〇〇自動車と日本○装だけで、その他のグループ企業は月に一度か二度、土曜日休みが取れるだけだった。私が入社した当社は、一ヶ月に一度だけの土曜日休みがあり、その週だけ土曜日日曜日と二日連続休みが取れた。
 ところが自動車販売会社の休みと言うのはそうはいかない。顧客が自動車の購入のために動くのは、基本的にその顧客の休日と決まっている。つまり我々セールスマンは顧客の休みである土曜日もしくは、日曜日には必ず出勤して対応する必要がある。現代の読者諸君は信じられないかもしれないが、ゴールデンウェークや夏季長期休暇は一年の中でも一番の書き入れ時で現代のように営業所を閉めるなんて考えられない。また平日も交代で誰かが営業所にいるので、当時の自動車販売店は年末年始を除いては基本年中無休体制だったのだ。ただその代わりに他の人と重ならないようにではあるが平日のどこかで休みを取ることが出来る。
 そこで各セールスマンが、どの日を休みとするのかは当然ながら上司である営業所の所長と相談で決めることになるのだ。
 多分ではあるが、私のようなセールス研修生なら「自分が入社した会社と同じ分の休みがもらえる、いやもらいたい」っと普通はそう考えると思うが、実際は全くそうでは無かった。

「ええっと……」
 と、私が回答に困っているとチビヤクザ所長はこう言った。
「休みは、後堂君に合わせた方がいいぞ」
「あぁ ハイ。 ……そう……ですよね」
 後堂さんの休みをどうやって確認すれば良いのか分からない私は戸惑った。そんな私にチビヤクザ所長は壁に掛かったホワイトボードの出勤表を指差した。
 見ると出勤表には、各セールスマンがいつ出勤する予定なのか分かるようになっていた。見ると現代で言う横並びの「行」にはカレンダーになっていて二ヶ月分の日付が並んで書かれていて、縦並びの「列」にはチビヤクザを筆頭にセールスマン達の名前が並ぶ。もちろん一番下には私の名前が付け足してある。
 どうやらこの表は、各自自分が休む日に「休」と書かれたマグネットの札を貼り付ける仕組みになっているらしい。
 この自動車販売会社の休みのルールがどうなっているのか詳しいことは私にはわからない。しかしこの表を見ると、誰一人二日連続で休みを取る人がいないと分かる。こんな表を見せられた後、しかもチビヤクザからは後堂さんと休みを合わせろと指示を受けた上で、自分だけ自社の休みに合わせて「月に一度は二日連続の休みが欲しい」などと言えるはずもない。
 私は仕方なく、後堂さんの休みの日に合わせ自分の表に「休」の札を置いて行った。セールス実習生である私は自分の休みでさえ自分で決めることは出来ないのだ。

 日報には、何を書けば良いのか分からない。しばらくして後堂さんも戻って来たので尋ねて見たが「適当でいいよ〜」と流されてしまいアドバイスは貰えなかった。「適当で言い訳ないでしょう!」と正直思ったが、日報だから毎日書かなくてはならないので、長々書いても続かない。私は大まかな訪問軒数と全く相手にしてもらえなかったことを短く書いてノートを閉じた。問題があれば後日チビヤクザ所長から嗄(しゃが)れた声でご指導いただけるに違いない。

 そうしていると続々とセールスマン達が外回りから戻って来た。何十年も経った今でも全員の顔を思い出せるのだが、残念ながら名前は覚えていない。
 その時点で初対面だった私は、忙しそうに契約書類の作成や報告書を書いている彼らの側に行き、一人々々に頭を下げて挨拶をした。
 彼らの間では私のことが既に噂になっているらしく、全員がニヤニヤ顔で挨拶を返してくれた。「初日で飛び込みの外回り、したんだって?」と信じられないと言う表情の人もいた。それもそのはず、チビヤクザ所長が最初に言ったように、女性のセールス研修生すら初めてで、しかも飛び込みの外回り営業など、女性にやらせた事がなかったからだ。

 取り敢えず全員に挨拶を終える頃には、バラバラと各自が退社して行った。結局最後に残ったのは私と所長と後堂さんだった。
「帰ろうか?」
 そう後堂さんに言ってもらってようやくセールス実習の初日を終わることが出来た。所長に「お先に失礼します」と言ってから、後堂さんの後を追い、営業所の裏口を通って外に出た。
「じゃあ明日」
「今日はありがとうございました」
 私は後堂さんの後姿に頭を下げて、今日一日のことを感謝した。
 頭(こうべ)をあげると後堂さんは自分の車に乗り込んだ後だった。私は振り返ってバスの停留所に向かった。何もかも初めてのことで頭の中が混乱していた。しばらくして〇〇駅行きのバスが来た。なんとも不便な場所に本社を造ったなとも思ったが、そんなことはもうどうでも良かった。早く帰ってお風呂に入りタコ部屋のベッドに横になりたかった。

(続く)

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