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『部品メーカー残酷物語』第十六話

第十六話「セールス実習 その6『心の一番外の壁……』」

 三日目から私は初日と同様それなりに化粧をしてジャケットにスカートとミドルヒールに身を包み、黒いビニールのバッグを持って本社営業所に出社した。
 チビヤクザ所長にチロっと作り笑いの挨拶すると、彼は何となく満足したようで目が「まあOKだ」と言っている。次に私は後堂さんと軽く打ち合わせをしてすぐに「行ってきます」と言いあの重いセールスカバンを持って部屋を出て展示室の方へ移った。ちなみにチビヤクザは私がこのまま外回りに出たと思っているだろうが実はそうではない。外へ出る自動ドアに背を向けて展示会場の奥に向かい扉を開けて中に入ると地下へ降りる階段がある。昨日、瓶底メガネさんに連れて来てもらったところだ。
 私は地階への階段を降りて倉庫の扉を開けた。そこで黒いビニールバッグからTシャツとジーンズ、スニーカーと肩掛け鞄を取り出して着替え始めた。

 外回り専用のラフな格好に着替えた私は階段を使わずに廊下を奥まで進んでエレベーターに乗り一階に上がる。ここからマンションを出れば営業所の誰にも気づかれずに外へ出ることが出来るのだ。もちろん最も会いたくないチビヤクザに見つかることはないだろう。

 私はとりあえず目の前にあるバス停のベンチに腰掛けてこの日のターゲットエリアを考える。近づいて来たバスの運転手は私が乗るものだと思ったのか停止して乗車口を開けてくれたが、私が乗らないと分かるとすぐに扉を閉めて出発して行った。
 今日は、初日に行ったエリアを除いた営業所に近い場所を回る。時計に目をやると午前九時前。時間はたっぷりある。

 自分に言い聞かせる。
 全力でやる。
 一台でも多くの〇〇自動車を売ってやる。
 そしてチビヤクザに偉そうな顔をさせない。
 人事の取締役も、マッチョも芋洗も「ザマーミロ」と鼻で笑ってやる。
 そしてさっさと三ヶ月のセールス実習を終わらせてデザイナーとしての職場へ行き、デザイナーの仕事をするんだ。
 まだ会った事のない未来の同僚達よ、もうちょっと待ってておくれ……。

 目的エリアに移動して、端から順番にインターフォンのボタンを押していく。二回押して少し待っても誰も出て来なければ、昨日の鰻のチラシに名刺をホッチキスで止めて郵便受けに入れておく。千軒も入れれば一人くらいは電話を掛けてくれるかもしれない。
 そんな感じで三十軒ほど回ってみてわかった。一軒ごとチラシに名刺をホッチキスで止めていたら効率が悪い。ふと見ると神社がある。小走りで神社の社殿に近付きお賽銭も入れず二礼二拍手一礼でご挨拶をしてから「ちょっとばかり縁をお借りします!」と大きな声でお願いする。
 私はなるべく参拝者の邪魔にならないように縁の端に移動すると持って来たチラシの束をおいた。次いで名刺を取り出して一枚一枚ホッチキスで止めていく。こうして一度にまとめて配るチラシを用意しておけば後は配るだけだ。参拝のおっさんがこっちをチラ見して来るが無視だ。私は神様にちゃんと断ってから場所を借りたんだ。
 気付いたら、まずホッチキスの芯がなくなってしまった。予備を持ってくれば良かった。このペースだと最初にもらった名刺もすぐになくなってしまう。営業に戻ったらソバカスちゃんに頼んでホッチキスの芯と名刺をもらおう。

 私は出来たチラシと名刺のセットを持ってまたインターフォンを押しに戻る。こうしているうちに数軒、インターフォン越しで話をすることが出来たが、正直言って全く相手にしてもらえない。いずれも女性で主婦だと思われるが、なんとなくイライラしている様子だ。こんな時は「失礼しました」と言って身を引く。

 名刺付きのチラシが無くなったので一旦休憩。スーパーに入って三個一パック百円の野菜ジュースと一個百円のおにぎりを買う。クーラーの効いたベンチを選んでエネルギー補充。野菜ジュースは一個だけ出して残り二個は肩掛けバッグにしまう。一食133円だ。

 ちなみにこの時点で消費税はまだ導入されていない。
 この後1989年4月1日、自民党の竹下内閣によって3%の消費税が導入される。当時の総理大臣竹下登はリクルート事件の発覚もあり支持率が落ちていたところ、最後っ屁のように消費税を導入して結果支持率は10%を切る。その約二ヶ月後の6月3日に内閣総辞職して官邸を去った。長期政権を築いた中曽根康弘の後を継いだ竹下登だったが、二年弱の在職期間中はスキャンダルに塗れて最後に消費税導入して辞めていくと言う、良いところの全くなかった総理大臣だったと記憶している。また彼以降、短命の総理大臣が相次ぎ不安定な国家運営が続く。消費税は萎んでいくバブル景気にトドメを刺した上に、以降日本経済をデフレに叩き込んだ最大の要因の一つである。

 私は、一旦引き上げて体勢を立て直すことにした。
 この時代、携帯電話は大型且つ高級品でまだまだ一般的でなかったし、私はポケベルも持たされていなかった。営業所からみれば私はある意味野放し状態で一旦外回りに出れば、私の方から公衆電話で連絡しなければ、営業所から私に連絡を取る方法はなかった。まあ研修生に特に期待もしていないので管理も厳しくはしないと言うのが本音だったように思う。

 面倒臭いが一旦営業所に戻る。もちろんマンションの入り口から入ってエレベータで地階に降り、倉庫で着替えて階段を上がって営業所の展示室を通って私はセールスの部屋へ戻った。

「竜胆君! こっちこっち!(に来なさい)」
「ハイ!」
 副所長のゴリラが私を呼んだ。私は彼の席の前に行って「お疲れ様です」と軽く会釈をする。
「どう調子は?」
「うーん……相手にされていない感じですねぇ」
「今、外回ってたの?」
「はい。一軒々々チャイムを鳴らしていって……出てくれる人もいるんですけど、大概皆さん冷たいです」
「ふうん……まあ時間かなぁ」
「時間?」
 よく分からない。
「あとね、肩の力を抜いた方がいいよ」
「肩ですか?」
「うん。なんかお前、パッと見ただけでやる気満々なのが解っちゃうんだよ」
「やる気満々の方が良くないですか?」
「うーんっと、相手が自動車を買う気のある人ならまあいいんだけど、飛び込み営業で出会う相手はそうじゃない人がほとんどだろう」
「そう……ですね」
「そもそも突然チャイムを鳴らした相手が、特に興味のないものを売る気満々で玄関に立ってたらどう思う?」
「ちょっと構えちゃうと言うか、引いちゃいますよね」
「うん。人の心の一番外にある壁は結構高いんだよ。まずそこを越えることを考えた方が良いかもね。まあ焦らずに……」
 何か秘策でも教えてもらえるのかと思ったが、特に有効なアドバイスとも思えないボンヤリした言葉が返って来た。しかしこの営業所で1番の台数を売る副所長の言葉だけに、私は席に戻ってから日報のメモ欄に彼の言葉を書き留めた。

 それから、ソバカスちゃんの所に行って名刺の追加お願いし、ホッチキスの針を一箱もらった。
 しばらくして後堂さんや他のセールス担当が戻って来て昼飯に誘ってくれたが外でおにぎりを食べて来たので断った。
 私は手元にあった名刺を十枚ほど残してそれ以外を全て鰻のチラシにホッチキスで止めていった。そうしながら「心の壁」について考えたがよく分からなかった。人生経験の少ない私には「時間かな」と言う言葉についてもその時点ではまだ理解できていなかった。

(続く)

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