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日本的民主制を民主主義にズラすための戦略的投票行動について

 衆議院選挙の投票日が近づいている中で、今一度民主主義というものについて考えてみたい。これは曲がりなりにも大学で政治学を専攻していた私の一つの民主主義論だ。
 こんな論立をするからには、私は現状の日本の民主制に対して当然不満を抱いているわけだが、それを言ったところでしょうがないじゃないかという声も聞こえてきそうなものである。確かに今更民主主義についての空理空論を並べ立てたところで、少なくとも短期的には、どうにもならないだろう。だからこそ私は目前に差し迫る選挙において活用できる、民主制を民主主義へとズラすための実践的投票行動を提出したい。この方法の対象になるのは、現況の政権に反対するものばかりではない。私が問題にしたいのは、あくまでも力学的な問題であり個々の思想や重視する政策の問題ではないからだ。そう言った意味ではこの議論で問題にするのは、野党についても含まれる。私が対象としている読者は、現状の政治について、全く不満のないような人を除く全ての人たちだ。

 まず、構成を明らかにしよう。第一節では民主主義と民主制という、ややもすると混同され、あるいは大部分重複したものとして考えられる二つの概念が全く別のものであるということを明らかにしたい。これらの二つが別々のものだとして、やはり距離の遠い近いという風な表現はできる。そこで、さまざまな国々の民主制をざっくりとイギリス型とドイツ型の二つの種類に分割して捉えるのが第二節だ。これら二つの分類は極端な理念型に過ぎないず、実際の多くの国はそれらの中間だろうと言ってしまえばそれまでではあるが、民主主義との距離を論ずる上では十分に価値がある。第三節では、第二節で論じた類型を軸に日本の民主制を位置付ける。そうすることによって、今後より民主主義的な制度に改革していくための方向性が見えてくるはずだ。ここまでで、一応制度論は語り終えたとして、では単純に制度を変えるという段になった時、一有権者ではあまりに無力だ。では制度を変更すべきだという議論はひとまず置いておいて、一番確実かつ明確に政治にコミットする選挙において、どう行動したら良いかを、第三節までに散りばめられているヒントを紐解きながら第四節で論じたい。

原理論1: なぜ民主制は必ずしも民主主義的ではないのか

 すでにして問いが答えを含んでいる問いを問おう。民主主義と民主制はどのように違うのだろうか。こういう言い方をすれば、その違いは明確にわかるだろう。民主主義は思想で、民主制は制度だ。しかし私たちは実際にどの程度これらの違いを明確に切り分けて考えているだろうか。ややもすると「選挙という民主主義の結果云々」
という風に、本来民主制という言葉が正しい文脈で民主主義を、意図的か否かはさておいて、使用されるケースは少なくないように思う。
 しかしやはり私たちはこの二つを厳密に分けて捉えておくべきだ。なぜならば民主制の国家において、権威主義や全体主義の政権が誕生した例は枚挙にいとまがないからだ。理想としての民主主義をもとに民主制が構築されたからと言って、民主制の教条を墨守してさえいれば民主主義だというわけではない。というよりも、厳密な意味で民主主義を達成した民主制はこれまでなかったし、これからの将来も存在しないと言ってしまって良いだろう。民主主義の成立についてはさまざまな議論があるだろうが、古代ギリシアや古代ローマでは奴隷制があり、イギリスではそうした理念があったわけではなく数世紀かけてある種偶然に民主制と呼べるような制度が成立しただけで、民主主義という理念が明確な形で打ち出されたのは18世紀末のフランスであったといえよう。厳密に言えばもっと複雑なのだが、思い切ってざっくりと述べてしまおう。フランス革命自体ももともとは課税をめぐる貴族や富裕層の運動だったが、最終的には生産手段を持たない貧民まで動員される全国民的な運動へと発展していった。つまり国王や聖職者、貴族など一部の国民のみならず、さらに言えばブルジョワでなくても、国のあらゆる人間の意見が政治に反映されて然るべきだ!というのが民主主義だ。さらにさらに押し進めていうと、どうなるか。第二次対戦後に文部省が小中学生向けに作成した『民主主義』という教科書には次のように記されている。

 くり返して言うと、民主主義は、決して単なる政治上の制度ではなくて、あらゆる人間生活の中にしみこんでゆかなければならないところの、一つの精神なのである。それは人間を尊重する精神であり、自己と同様に他人の自由を重んじる気持ちであり、好意と友愛と責任感とをもって万事を貫く態度である。この精神が人の心にひろくしみわたっているところ、そこに民主主義がある。
文部省『民主主義』より

私は大学一年のゼミでこの本を読んで打ち震えた。民主主義とは精神だったのだ!当たり前のようなこのことがいかに感動的なことか、お分かりいただけるだろうか。民主主義は制度ではなく、精神であり、それは政治の場のみならず、家庭や、職場にもあって然るべき、他者を尊重する精神だった!
 しかし現実の意思決定の場たる政治において、民主主義のためにどんな制度が作られたとて、行為する上では取捨選択をしなくてはならない。ある人の意見は置いておいて別の人の意見を採用する。あい矛盾するような二つの意見も同時に満たすような決定のできる制度を構築するのは不可能と言っていいだろう。多数決なんてその最たるものだ、極端な例を挙げれば51:49の比率で人々の意見があるとすると、49の側の意見は黙殺されることとなってしまう。

 しかしながら、だからと言ってここまでやれば民主的だろうとでも言うような擬制としての民主制に甘んじ、民主主義の実現を諦めていいのだろうか。民主主義という理念はあまりに高邁であり、それを達成するのは不可能、控えめに言っても困難な道のりだ。しかし諦めて仕舞えば簡単に民主制は独裁主義へと堕落する。私たちは諦めてはいけない!私たちは制度を、たとえ漸進的にであれ、民主主義の方へと変えていくことができる。丸山眞男は民主主義を永久革命として捉えたが、まさにその通りなのだ!民主主義への終わりなき過程、私たちが進むべきなのはその道だ!

原理論2: 二つの民主制について

 たとえどんな民主制も民主主義を達成することはできないとしても、さまざまな国が民主制を取り入れている以上、そこには自ずから高邁な理念への距離の短長があるのはいうまでもない。であればさまざまな国の制度を分析し、その位置づけを探ることは、現状の制度を改善していく上でも有用だということは言うまでもないだろう。
 私はここでレイプハルトの『民主主義対民主主義』の枠組みを借用しようと思う。レイプハルトは民主制を二つの類型に分けた。一つはイギリスのような多数決としての選挙を行い、議会で多数派を握った政権が内閣を組織し、なんでも自由に政策を執り行う多数決型の民主制だ。もう一方は、ドイツのような各政党を支持する国民の構成比率とほとんど同じ比率で各政党が議席を有し、それぞれの政党が対立しつつも協調して政策を導出するコンセンサス型の民主制だ。この代表例とされる二つの国についてはそれぞれ過去に論じたこともあるが、改めてどういった制度が採用されているのか確認しよう。
 まずはイギリスの多数決型の民主制だ。まずイギリスにおいては小選挙区制で選挙が行われている。小選挙区制とは、比較的小さな選挙区で選挙戦が争われ、それぞれの選挙区から1名ずつ代表が選出される選挙制度である。デュベルジェによると、小選挙区制においては物理的に人気が高い第一党とそれに反対する第二党のどちらかの候補が当選しやすくなり、そうすることでさらに有権者の側も当選しやすい政党のうちでより自分の信条に近い側の政党に投票することで、結果的に二大政党制が導かれやすくなる。これがいわゆるデュベルジェの法則というやつだ。またこの小選挙区制においては、各選挙区でどのような支持者の構成比になっていても、結果的にその選挙区で多数派になった政党が議席を獲得することになるので、与党は実際の支持率よりも多い議席の比率を獲得することができる。そうして議会で過半数を獲得した与党は、首相はもとより、行政上のポストのことごとくを独占し、議会と内閣が一体となって政策を実行していく(議院内閣制)。これがイギリス議会が「男を女にし、女を男にすること以外のすべてをなしうる」と言われるほど強大な権限を持つ所以である。こうしてみると、イギリスの民主制とは選挙を多数決の機会と捉え、その結果多数派だったものが自由に政策を執行できる制度だといっていいだろう。
 ではそれに対してドイツの民主制とはどのような制度なのだろうか。ドイツでは小選挙区比例代表併用制という選挙制度のもとで選挙が行われている。これは日本の小選挙区比例代表並立制と似た名前だが、内容としては全くの別物だ。小選挙区比例代表並立制とは、その名の通り一定の議席を小選挙区制で、残りを比例代表制で議員を選出する制度であり、日本の衆議院選挙では仮に小選挙区制で落選しても、各党の作成した名簿の上位者から順に比例制の分の議席が割り当てられるなど、小選挙区制+各党の受からせたい候補を当選させる制度となっている。その一方でドイツの小選挙区比例代表併用制とは、比例代表制をより強化した制度である。各政党の獲得議席比率は比例代表制の投票によって決定され、そこでそれぞれの政党から誰が選出されるかを、拘束名簿方式ではなく、国民の小選挙区制による投票で決定する、という制度なのである。このようにドイツの選挙制度は基本的には比例代表制をより国民の意見が反映されるようにした制度と考えていい。そして比例代表制においては、ほとんど国民の政党支持の比率の通りに各政党の議席比率が決定され、第一党であっても単独で過半数の議席を占めることが基本的にはないという特徴がある。そうするとドイツにおける選挙とは、多数決ではなく、ひとまず国民の意見の多様性をそのまま議会に持ち込んで、議会においてさまざまな議論をし、対立や協調を行うことで政策を捻出する民主制なのである。
 ひとまず選挙制度に焦点を当てながら二つの民主制を外観してみた。レイプハルトはこの二つのタイプの民主制を、さまざまな要素で比較検討していたが、ここではそのの議論は置いておこう。私たちが考えるべきなのはどちらがより民主主義に近いのか、ということだ。そして第一節で導いた民主主義の定義からすれば、おそらくそれはドイツのコンセンサス型の民主制だといっていいだろう。イギリスの多数決型の民主制は、選挙という多数決によってその時点で政策を決定して、効率的に執行する制度だ。そういう意味では必ずしも悪いものとは言えないが、政策決定の効率性ばかり重視していては独裁制が最も優れた政体ということになってしまう。多数決型の民主制ではあまりに簡単に少数派の意見が切り捨てられてしまうのだ。それに対してドイツのコンセンサス型の民主制では、国民の意見の比率とほぼおんなじ比率で各党に議席が配分され、議会において多様な利害を調整しながら政策が決定、執行される。さらに詳説は以前記した記事に譲るが、ドイツでは地方やコーポラティズムの団体、連立に入らなかった野党などにも拒否権を行使する機会が設けられているため、議会でいくつかの政党が連立を組んで多数派を形成しても、それによって少数派の利害が完全に無視されることのないような制度設計が徹底されている。確かにこうしたコンセンサス型の民主制では、多数決型の民主制よりも決定にかかるコストは大きいが、コストだけをみるなら独裁制が一番いいことになってしまうわけで、あくまでも民主主義という自己と他者を共に尊重する理念の達成を目指すならば、それはかけるべきコストであろう。

原理論3: 機能不全に陥る民主制(日本の場合)

 点を二つ結べば線になる。イギリスとドイツの民主制を結ぶ数直線の上に、日本の民主制を位置付けてみよう。考えるまでもなく、どちらかと言えば日本はイギリスに近い民主制、つまり多数決型の民主制だろう。日本は議院内閣制の国であ(これはドイツもであるが)、1994年の選挙制度改革で大選挙区制からより小選挙区比例代表並立制を導入して二大政党制による政策討議の実現を図った。そして実際半分以上の政策は野党との調整のもとでの全会一致で行われるのではなく、いわゆる強行採決によって行われている。(これ自体は悪いことではなく、むしろ多数決型の民主制であれば当たり前だ。)このように間違いなく日本は多数決型の民主制を採用している国なのである。
 しかしイギリスとは違う点もいくつかある。そしてそれはイギリスの民主制が民主主義の制度として機能してきた核心的部分の欠損として現れている。そう、日本では二大政党制が成立していないということである。イギリスの制度が曲がりなりにも民主主義的だと言えていたのは二大政党制による政策討議が実現していたからであった。仮に与党の政策が失敗したり、あるいは与党が不祥事を起こしたりした時、二大政党制であればもう一方の政党が選挙によって多数派になり、与党の拙かった点を修正した政策を実現することになる。しかし二大政党制が成立していなければ、どんなに与党の政策が失策であっても、どんなに大きな不祥事があっても、それに成り代わる政党がなく、結局はもとの政党が政権を握り続けるということになりかねない。こういう意味では、日本の民主制はイギリスの民主制よりもさらに民主主義からは遠い位置にあるといっていいだろう。
 ではなぜ日本では小選挙区制の導入にもかかわらず二大政党制が成立しなかったのだろうか。それは以前イギリスの二大政党制に関する記事でも記したが、デュベルジェの法則が機能しないような条件があるからだ。一つは地域政党の存在である。これはわかりやすく、地域の利害に根ざした政党があれば、その地域ではその政党が選出されやすくなり、結果議席を圧迫することになる。そしてもう一つに、地方政治などで違う選挙制度がとられていることである。違う選挙制度の元では当然デュベルジェの法則は働かず、二大政党以外の政党が議席を持つようになり、そこを足掛かりに少数政党が活動を持続的に行え、またそうした存在によって国政でも二大政党以外の政党に投票されることも出てくる。こうした条件が、地方政治や国政の比例代表制として特に後者が、日本の政治には存在していたため、二大政党制が実現しなかったのだ。もちろんこれだけではなぜ自民党が単独過半数以上を占めることができているのかは説明できてはいない。それには例えば大選挙区制の地方政治や比例代表制で強い組織政党の公明党との選挙協力などの要因が考えられるが、その詳細はひとまずおいておこう。とにかく日本では二大政党制が成立しないため、政権交代がほとんど起こらず、日本の民主制は野党支持者の意見がほとんど黙殺されてしまうような機能不全に陥ってしまっているのである。これは自民党が悪いとか、そういう話ではなく、制度の欠陥として考えるべきことだ。野党の立憲民主党は、以前から政権交代可能な政党を目指しており、そうした文脈の中で擬似的な二大政党制を目指すべく野党間の選挙協力を唱えている。これは二大政党制の元での競合のための取り組みだ。しかし仮にその野党連合が政権を取ったところで、持続的に政権交代が繰り返されるようにならなければ、今の与党支持者の意見が黙殺されることになる。そしてもし持続的に二大政党制が実現したとしても、あくまでイギリス並みになったというだけで、より民主主義に近いドイツ的なコンセンサス型の民主制には程遠い。それでは民主主義的な民主制とはとても言えないのだ。

方法論: 賢い有権者の投票行動(国政編)

 さて、ここまでで日本の制度的欠陥は見えてきたことだろう。しかし制度を変えるべきだといったところで、その実現可能性は現状極めて低い。なぜなら与党にとってはそれこそ自分たちを不利な状況に陥らせるだけであるし、めぼしい野党も二大政党制の実現を目指している以上、コンセンサス型の民主主義への改革の道は遠い。
 しかしながら、だからと言って私たちはこうした政治的な状況を指を加えてみていることしかできないかと言えば、そんなこともない。もちろん困難な道ではあるが、この節では私たち一有権者が取ることのできる、より民主主義的な民主制の実現の手立てを提出したい。
 冒頭でも述べたが、再度この手立てを利用することのできる対象を述べておきたい。まずは現状の野党勢力の積極的な支持者である。しかし彼らには必ずしもこの手法は適切ではないかもしれない。彼らはシンプルに自分の支持する政党に投票すれば良いと言えば良い。だから彼らはこの手法の一番の対象者ではない。だが、そんな彼らを一応この手法の対象として挙げているのは野党を支持する左派が、あくまでも彼らの利害や独善的・全体主義的は正義感によってではなく、私と同様に全き他者を尊重するという民主主義の理念を抱いているという一縷の信頼にかけてである。次に消極的な野党の支持者である。基本的に与党の政策には反対であるが、かと言って野党の提示する政策の中にも怪しいものがあるため政権を取られたら怖さがあるという人たちだ。彼らにはおそらくこの手法は有効に働くことだろう。さらに無党派層だ。与党にも野党にも賛成できない人たち。誰にも投票しなければ賛成できない与党に与することになり、かと言って野党に投票して政権を取られるのも困る。おそらくはそんな彼らにとって一番有用な投票行動になるだろう。そして、消極的な与党支持者である。与党の政策には基本的には賛成だが、与党が政権を握ったままでは一部自分の希望する政策の実現可能性がほとんどないという人や、政策には賛成だが不祥事が起きていることが気になるという人たち。かと言って野党の政策には基本的に反対で政権を取らせたくない人たち。私はこの手法の一番の対象者としてこうした人々のことを念頭に置いている。残るは積極的な与党支持者であるが、まぁ彼らには私の民主主義の理念からは大きく外れるものの、彼らの利害には一致するであろう与党に投票すれば良かろう。
 さて、ではどういう投票戦略を取ればいいだろうか。それを述べる前に前提条件を整理しておこう。我々が目指すのはイギリス的な多数決型の民主制の完成ではない、その先にあるドイツ的なコンセンサス型の民主制だ。しかし、現実的に制度自体の改善は見込めないため、あくまでも現行の制度の中で、コンセンサス型の民主制の方へとズラしていくほかない。そのための具体的な投票行動を模索しているのである。ではコンセンサス型の民主制とは、どのような民主制であったのか、それは選挙を多数決のための制度ではなく、多様な意見を反映させる制度として運用し、議会で議論が行われるようにしなくてはならない。そのためには議会で単独過半数の議席を獲得する政党が出現しないようにする必要がある。なぜならば、単独で過半数を獲得する政党が与党になれば、彼らが議会と内閣を一挙に掌握し、自由に政策を取ることができるようになってしまうからだ。仮に連立を組んだとしても、バンドワゴン的な連立政権では基本的には大政党の意見通りになってしまい、実質的な連立政権内での政策議論は行われなくなってしまう。となれば我々が目指すのはどの政党にも単独過半数を取らせず、なおかつ出来るだけ多くの政党の連立によって政権が成り立つようにすることだ。
 こうした条件を挙げていけば、自ずと取るべき投票行動が見えてくる。来る衆議院選挙では小選挙区と比例代表でそれぞれ票を投じることになるが、それぞれについて考えていこう。まずは小選挙区だ。世論調査などを見ていると積極的か消極的かはさておき、4割弱が与党自民党を支持していることになる。第二党である立憲民主党の支持率が一割に満たないことを考えれば大多数の議席を自民党が取ることになるだろう。となれば野党支持者はもちろん、消極的な与党支持者も野党に票を投じたところで自民党は間違いなく第一党になるだろう。消極的な与党支持者の望む政策の多くは実現可能性は高いし、それまで実現不可能に近かった政策も可能になりうるのだから、そこは安心して第二党勢力の野党に投票してほしい。重要なのはどの政党に投票するかではなく、どの政党に投票すれば自分の望む政策や政権の運営の実現可能性が高まるかであり、そのことが結果として民主主義への道を近づけるなら万々歳だ。どうしても左派に投票したくないのであれば中道右派の政党などに投票するのもありだ。とりあえず票が分散すればするほど、どの政党も単独過半数を占める可能性は低まり、議会で議論が巻き起こる可能性はぐんと上がる。(とはいえ小選挙区ではその投票が死票になる可能性も高いので、日本の状況からすれば政権獲得可能性が低い第二党の勢力に投票するのが無難ではある。)
 そして次は比例代表だ。衆議院選挙の議席のおよそ4割が比例選出であり、死票がないことを考えると、コンセンサス型民主制の実現のためには比例の投票はものすごく重要である。一応は小選挙区では第二当勢力の野党への投票を提案したが、この記事が対象とする有権者も望ましい結果も野党第二党勢力が政権を握ることでは決してない。そういう意味では比例代表では与党の第一党でも野党の第二党でもない勢力に投票し、議席をなるべく分散させることが望ましい。そしてその際は、自分の考えに最も近い第三党以下の政党に投票することだ。そうすることによって第一党の過半数割れ、並びにいくつもの政党による連立政権の実現により、政策討議する議会の成立可能性は高まる。これが私の提案する、民主主義のための具体的な投票行動である。

終わりに

 こうした議論はかなりの単純化をしているために、いくつかの留保が必要であることは言うまでもない。最後に二つだけ留保点を述べておこう。まずは理想の制度として、ドイツのコンセンサス型の民主制を挙げたが、ここには危険もなくはない。というのはナチスドイツがこのコンセンサス型民主制の国から誕生したからだ。戦間期のドイツでもワイマール憲法という世界で初めて社会権を規定した最も民主的な憲法下で政治が行われていた。しかし政治的な停滞を迎え、そこに変化を生む可能性としてNSDAPが台頭し、第一党として政権を掌握した。こうした反体制政党の台頭の原因をジョヴァンニ・サルトーリは分極多党制の議論の中で分析しているが、このドイツの例や第四共和政下のフランスの場合は、しっかりした下部組織を持つ組織政党のために他の政党と妥協ができなかったということが政治の停滞の大きな要因だった。日本の政党のほとんどは全国民の利益を代表する(ことになっている)大衆政党なのでそこまで妥協可能性は低くはないと思われるが、現状を見ていると少し怪しい気もする。あくまでこの戦略は政党間の妥協・協調可能性を前提にしていることを留保しておきたい。そして、分局多党制が不安定になるのは、卵が先か鶏が先かの議論のようで恐縮だが、現行の体制自体を否定する反システム政党の存在が大きく影響することも併せて強調しておきたい。
 第二に、繰り返しではあるが、私はここの政策や思想の優劣については、特段判断するつもりはないということだ。私が支持しない、むしろ否定的に考えている政策であれ、ある人の思想の下では支持する政策ではあり、それを尊重することは民主主義の理念にかなっている。あくまで私は民主主義という基準を持ち出して云々したに過ぎず、民主主義自体に否定的である人がいれば愚かだと思いつつも、それはそれでその存在は許容する。だからこの議論は与党憎しでも、野党憎しでもなく、あくまでも民主主義という理念だけを基準に力学的な記述を心がけたつもりであると留保しておく。その他の基準を持ち出せば多少投票行動に違いは出てくるだろう。

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