有限なもののうちに折り込まれた無限なものについての覚書
エマニュエル・レヴィナスの著作において、有限な他者の中に無限を見出すという着想は驚くべきもののように思われる。
六面体のプラスチック容器を用意して、その容器の容量を上回るだけの水をそこに注ぎ込むことはできない。ましてや無限の水がそこに注がれることなどありうるだろうか。これがありうるとするならば、もはや容器さえ無限となって、そのとき容器にはもはや枠があってはならない。しかし枠がなければ、容器は認識できないだろう。有限の中の無限、枠がありその中にそれをはるかに超出するものが収まっていること。これを理解するためには思考の跳躍が不可欠となる。
レヴィナスの議論においては、「存在」と「存在者」の区別が厳格になされている。そしてそのいずれもがなおざりにはされていない。
一なるものとしての「存在」を唱えたエレア派のパルメニデスの議論の影響は凄まじく、人も鳥も蛸も、ただ「ある」を除いた生成消滅するものは全て、その存在を抹消された。これで凡ゆる哲学の問題は終止符を打たれたかに思われた。
しかしさまざまな対抗者も同時に現れた。ヘラクレイトス、ピュタゴラス学派、多元論者。一方で弟子たちは師の理論を弁護した。ゼノン。
ゼノンとヘラクレイトスとの類似について。
「『矢が飛んでいるとしよう』というゼノンの短い呼びかけの言葉のうちには、やがて必然的な仕方で顕在化されなければならないところの『矢の飛翔』ということと『飛翔する矢』というものの乖離・分離が潜在的に含まれていたのである。飛ばない矢と矢のない飛翔、分割可能で終了した運動と分割不可能で動体を欠いている運動、一つの線と一つの運動といったものへの両極分離は、そのことの当然の帰結であるにすぎない。
第三逆理『矢』を定式化したとき、ゼノンはまさにこの事実を踏まえていたのだ。そして人がひとたび矢のイメージを現前させるや、それはもはや梃子でも動かないものになってしまっている。それがイメージとして現前し現在化しているかぎり、動きのイメージはこれと共存しえないからだ。そして動きのイメージがあるとき、矢のイメージはあらぬ。しかも『動き』だけからでも、また『矢』だけからでも、『飛矢』を構成することは決してできない。」山川偉也『ゼノン 4つの逆理』pp75-76-
この点においては、パルメニデスと反対のことを主張したとされるヘラクレイトスに奇妙なまでに接近している。
ピュタゴラス学派に対抗するゼノンの断片。
「もし多があるなら、それらはある数だけあり、それより多くも少なくもないのでなければならない。だがある数だけあるのであるなら、それは有限であることになろう。
もし多があるなら[もし多であるなら]、有るものは無限である。なぜなら、有るものの間には常に他のものがあり、それらの間にもまたふたたび他のものがある。このようにして有るものは無限であることになる。」日下部吉信編『初期ギリシア自然哲学者断片集』pp500-501
このピュタゴラス学派への反駁を、別の意味に読み替えること。
日下部吉信はディオゲネス・ラエルディオスの分類をもとに、古代ギリシア思想に構造的な自然概念の系譜と主観性の系譜とに大別した。そしてピュタゴラスの哲学に、主観性の源流を正当にも見てとった。そしてその後裔としてのプラトン哲学が2000年以上西洋哲学史を決定づけてきたのである。
デカルト=カントの哲学の方向づけとしての主体。
「客観によって我々の感性に与えられているところの表象が、こんどは悟性概念によって必然的に連結せられ、この必然的連結が普遍妥当的なものとして規定されるならば、対象はかかる関係によって規定せられ、その判断は客観的なものとなるのである。」
ただしカントは同時に物自体について言及していることに注意する必要がある。
カント『判断力批判』とは別の崇高さについて。
「カントにおいて、崇高なものが大きさとかかわるとすれば、逆に、リオタールにあっては、崇高なものは精神の能動的な働きを摺り抜けつつ、しかも精神に対して『驚異』として到来するような微小なものに宿る。つまり、崇高なものは『最小のものから作動する』、あるいは『窮乏に専念する』。」小田部胤久『美学』P198
極小の無限としてのモナド。
「さらに、どの実体も、世界の全体のようなもの、神の鏡ないしは宇宙全体の鏡のようなもので、ちょうどみる者の位置にそくしておなじ都市もさまざまに表されるように、各実体は自分なりのしかたで宇宙を表現する[映しだす]のである。したがって、宇宙はある意味で実体の数だけくり返され、神の栄光は、そのわざがまったく異なって表されるに応じて増幅される。」
ライプニッツ『形而上学叙説 ライプニッツ-アルノー往復書簡』P26
「個体的観念、すなわちモナドは、逆数が分子と分母を交換する数であるかぎり、まさに神の逆数である。つまり2あるいは2/1は、逆数として1/2をもつ。そして神はといえば、その定式は♾/1であるが、逆数としてモナド、すなわち1/♾をもつ。」ドゥルーズ 『襞:ライプニッツとバロック』pp85-86
ライプニッツは『形而上学叙説』に関するアルノーとの書簡の中でつぎのように記している。
「神の計画と原初的諸法則をめぐって上に述べたことから、この宇宙は一定の原初的ないしは原理的な概念を持ち、個々の出来事はその概念の一連の結果にほかならない、ということも判断できるかと思います。ただしここでも、自由や偶然性は保持され、確実性は自由に抵触はしません。出来事の確実性はその一部が自由な行為に基礎づけられたものだからです。さて、この宇宙の各個体的実体は、その概念のもとで自身がかかわる宇宙を表現します。そしてアダム創造の神の決心だけではなく、任意の個体的実体の神の決心もまた、そのほかのいっさいについての決心をその仮定のうちに含んでいます。なぜなら、完足的な概念、そこからその実体に帰属可能なものすべてだけではなく、それ以上にあらゆることがむすびついているのですから、宇宙のいっさいまでもが演繹されるような、この完足概念をもつのが、個体的実体の本性だからです。厳密に話を進めるには、神がこのアダム創造を決心したためにそれ以外のすべてをも決心したのではない、アダムについての決心もほかの個についての決心も、ともに世界のすべてについての決心の帰結であって、世界の原初的概念を規定する根本的計画の帰結なのだ、といわなければなりません。そのさい、奇跡も例外とはされないで、あらゆるものにあてはまる一般的で破られることのない秩序が確立されます。いわゆる自然法則のような個別的原則がいつもまもられるとはかぎらないとしても、奇跡が神の根本計画に適合していることは疑いありません。」ライプニッツ『形而上学叙説 ライプニッツ-アルノー往復書簡』pp166-167
ライプニッツは神の視点=仮定的必然性と個体的実体=モナド=偶然性との視差から風景を認識しようとしている。
「ニーチェとマラルメは骰子の一擲を発する一つの<思考-世界>の啓示を、われわれに呼び覚ました。しかし彼らの場合は、あらゆる原理を失ってしまった、原理なき世界が問題であった。だからこそ骰子とは<偶然>を肯定し、偶然のすべてを考える力であり、これは原理などではなく、あらゆる原理を欠いているのである。」ドゥルーズ 『襞:ライプニッツとバロック』P117
ヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』では夢の意識と目覚めの意識との弁証法としての夢からの覚醒がひとつのキーワードとなっている。ボードレールをはじめとする遊歩者たちは今まさに絶頂を迎えている19世紀末のパリの街に、ローマの瓦礫と化した街を見てとる。
ベンヤミンは『パサージュ論』の概要である「パリ-一九世紀の首都」のフランス語草稿をパリ・コミューンの革命家ブランキについて論じて終わっている。革命家ブランキはトーロー要塞に幽閉される中で『天体による永遠』と題された宇宙論を記した。
「すべての天体はオリジナルなまたは原型の化合物の、反復体である。新しい原型が形成される可能性はないであろう。その数は、必然的に底をつく-もっとも、事物は未だかつて始原の時を持ったことはないのだが。このことは、定まった数のオリジナルな化合物が永遠に存続して、もはや物質と同じように、増加もしなければ減少もしないことを意味する。それは始まることも終わることもできない事物の終焉の日まで、今と同じようであるし、あるだろう。過去も未来も不変の、現在の原型の永遠性。時間的、空間的に原型の無限の繰り返しでないような天体は一つもないのだ。これが現実である。」オーギュスト・ブランキ『天体による永遠』pp106-107
ここにはこれまでとはまた別の無限が描かれたいる。とはいえ本質的にはなにも変わらない。
有限なものの組み合わせの数は、如何にそれが膨大といえど、必然的に有限でしかあり得ない。もっというと最も基本的な要素はどんな組み合わせでもなにひとつ変わらない。そのことに気がついた醒めたものは、そこで組み合わせ遊びをやめてしまうかもしれない。しかしなお何か別のものを期待する多くの人々は、相変わらずガラス玉を並び替え続けるだろう。
その幼児期にfort-daの糸巻き遊びを覚えた子供は、とうとうそれをやめることがなかった。
ジャック・ラカンは転移に関するセミネールで次のような挿話を引いている。
「ゼウクシスとパラシオスに関するあの古い寓話において、ゼウクシスの優れた点は鳥を惹きつけるほどの葡萄を描いたことです。ここで強調すべきは、この葡萄が完璧な葡萄であったということではなくて、鳥の目を欺いたということです。その証拠は彼の相手、パラシオスがゼウクシスに勝ったことです。つまり、パラシオスは壁の上に覆いを描き、その覆いがあまりに本物らしかったのでゼウクシスは彼の方を向いて『さあ、見せてくれたまえ、君がこの向こう側に描いたものを』と言うほどだったのです。これによって、ゼウクシスが騙したのは目だったということが示されます。勝ったのは目を騙したものではなく、眼差しを騙したものでした。」ジャック=アラン・ミレール編『精神分析の四基本概念 上』pp222-223
「愛撫は探し求め、掘り起こす。これは暴露[=幕を剥ぐこと]の志向性ではなく、探究の志向性-≪不可視のもの≫への歩み-である。ある意味で、愛撫は愛を表出しているが、愛を語ることができずに苦しんでいる。愛撫はこの表出そのものに飢えており、しかもこの飢えはたえず増大していく。したがって、愛撫は、その終着点より遠くにおもむき、存在者の彼方をーたとえそれが未来の存在者だったとしてもー目指す[=思念する]。というのも、存在者[=存在しつつある者]であるかぎりで、未来の存在者もすでに存在の扉を叩いているからである。充足された場合であっても、愛撫に活力を与える欲望は、いまだないものによって、いわば養分を補給されて再生し、決して犯されることのない≪女性的なもの≫の処女性に私たちを連れ戻す。愛撫が敵対的な自由を支配しようとしたり、それを自分の対象物にしたり、そこから同意を取りつけようとしたりするということではない。自由による同意や抵抗を超えたところで、愛撫はいまだないものを、『無以下のもの』を探し求める。いまだないもの、『無以下のもの』は未来の彼方に閉じこめられてまどろんでおり、つまりは可能事とはまったく別の仕方でー可能事は予期に差し出されるからーまどろんでいる。愛撫のなかに入りこんでくる冒涜は、こうした不在の次元がもつ独自性と正しく対応している。抽象的な無の空虚とは異なる不在である。存在に準拠した不在ではあるが、自分なりのやり方で存在に準拠する不在である。あたかも未来のさまざまな『不在』は、すべてが画一的に同一の水準にあって、それゆえ未来ではないかのようだ。予期は、さまざまな可能事をつかむ。愛撫が探究するものは、なんらかの見通しや≪つかめるもの≫の光のなかに位置づけられることはない。これ以上ないほど柔和なものであり、愛撫の相関者である肉感性、≪愛された女性≫は、生理学者の事物的身体とも、『私はできる』の固有身体とも同じではないし、みずからの現出に立ち会うことーないしは顔ーであるような表出としての身体とも同じではない。愛撫はある面では依然として感性的な関わりだが、愛撫のうちで身体はすでに自分の形態それ自体を脱いで裸になり、エロス的な裸性として差し出されている。柔和さという肉感性においては、身体は存在者の身分を捨て去っているのである。」エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限』pp462-463
夜の帳が下りると、私と彼女は襞のある衣服を取り去り互いに裸体を夜気に曝け出すものの、カーテンから差し込む月灯では朧げな輪郭しかわからない。早くも私のペニスは赤々と血走って、隆起している。私たちはその輪郭を、生の最も秘せられた部分を愛撫しあう。剥ぎ取られた衣服は、くしゃくしゃのままベッドの下に転がってあり、二人の重みに沈んだベッドのシーツも放射状の襞を形づくっていた。
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