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死して生きる者たち : パスカル・キニャール『落馬する人々』について

 パスカル・キニャールの『落馬する人々』を読んだ。キニャールは『ローマのテラス』でアカデミー・フランセーズ賞をとった現代フランスを代表する作家の一人で、彼が現在も書き続けている<最後の王国>というシリーズの中に『落馬する人々』は収められている。
 日本においても白水社がパスカル・キニャール・コレクションを刊行しており、<最後の王国>シリーズの邦訳も進んでいる。私はこれまで『ローマのテラス』やバロックの音楽家サント=コロンブを題材にし映画化もして話題となった『世界のすべての朝は』、<最後の王国>シリーズでゴンクール賞をとった『さまよえる影たち』、つづく『いにしえの光』を読んできたが、キニャールを読むのは久しぶりの体験で、とても面白く読んだ。
 <最後の王国>シリーズは、マークソンの『ウィトゲンシュタインの愛人』や『これは小説ではない』を思わせるような、さまざまな歴史上の人物たち(偉人から庶民まで)のエピソードの切り貼りで構成された小説であり、そこにはエマニュエル・レヴィナスに師事しアンリ・ベルクソンを研究したキニャールの思想がかなり直接的に表現されている。『さまよえる影たち』や『いにしえの光』を再読してみれば、また新たな発見もあるかもしれない。それはさておいても、この『落馬する人々』について、本稿では紹介していきたい。

落馬すること

 <最後の王国>シリーズではこれまで読んできたかぎりで言えば、表題と関係のあるエピソードの切り貼りから成っている。『さまよえる影たち』では影について、『いにしえの光』では時間についてというように。それで『落馬する人々』ではもちろん落馬についてなのだが、これがなかなか変わったテーマのように私には思われた。影や時間ならまあよくあると言えばよくあるテーマだが、落馬とはいったいどういうことなのか…?

 『落馬する人々』のなかで最初に登場する落馬のエピソードは、ジョルジュ・サンドの父の落馬である。

 アランフェスでの軍務からの帰途、アストゥリアスの王子フェリディナンド七世は、ジョルジュ・サンドの父に立派な馬を贈った。馬は見事な毛並みをしていた。若駒で、いわば荒馬だった。名をレオパルドと言った。
 1808年9月17日金曜日、デュブレ家で四重奏を演奏するために、ジョルジュ・サンドの父は愛馬レオパルドに跨がり、ノアンからラ・シャトルへと向かった。デュブレ家で夕食を取り、ヴァイオリンのパートを完璧にこなし、11時に暇を乞うたギャロップです橋を渡った馬は、暗がりのなかで小石の残土に躓き、危うく転倒しそうになってよろめき、身を起こしたときの激しさで騎士を落馬させ、3メートルほど後ろの地面に騎士の身体は投げつけられた。その衝撃で、騎士の頚椎が折れた。ジョルジュ・サンドの父は31歳だった。彼の身体は旅籠のテーブルの上に安置された。そして、深い闇の中、視界を照らすランタンひとつを先導にして、テーブル上の死者はノアンまで運ばれた。人々は眠っていた4歳の子供を起こし、父が落馬したことを告げた。

ここで、落馬は死と結びつけられる。死であればずいぶんとわかりやすいテーマだ。しかしならば単純に死というテーマで本を描けばよかったのではないか?
 重要なのは落馬=死ではない、ということだ。実際に本の中では落馬して生き延びた人々、パウロやアベラールたちのエピソードが次々語られる。そしてペテロは落馬を経ることで回心をし、アベラールは落馬を機に自伝を記し始める。ようするに落馬とは、それまで平凡に生きてきた人間の前に突如として現れた臨死体験であり、それまでの生からの断絶なのだ。

捕食者たちの文明

 キニャールは「フランス・キュルチュール」のインタビューで次のように語っている。

 わたしは『落馬する人々』の中で、落下して起き上がった人々について書きました。不思議なことに、それを書くことによって、私自身がその犠牲となったものを擁護することになりました。鬱病の事です。二度とその面を見たくないと思うものの肩を持つのも変な話ですが、人生や家族、パートナー、家庭、あるいは祖国を本当に変えたいと願うとき、人は振出しに戻る必要があるのです。
生きなおすためには、もう一度誕生を経験しなければなりません。つまり、精神分析家たちが「原初の苦しみ」と呼ぶものをです。起源に体験した衝撃、すなわち筋肉の衰弱、方向感覚の喪失、完全な依存、裸の状態、沈黙、空腹、死――誕生の瞬間に味わった恐怖にはこういった状態が伴うわけですが、それらすべてをもう一度経験する必要があるのです。これこそ現代人が鬱病と呼ぶものにほかなりません。わたしの主張はいたって単純なものです。原初の苦しみと鬱病は同じである、ということなのですから。(…)あらゆる変化は零度へのリセットを前提としています。鬱病を治すのはしたがって医者でもなければ精神分析家や神父、抗鬱剤、薬物でもありません。鬱病そのものなのです。

 もう一度生きなおすこと、そのために必要なのが落馬という臨死体験である。そしてキニャールはそれを精神分析家の言う「原初の苦しみ」と結びつけ、人間の始原への眼差しを向けている。

 人間の始源と死、キニャールはそこで狩猟を身につけていった先祖たちについて語り始める。はじめの頃、草食動物だった人間は動物と自分たちを区別しなかった。しかし初めは手のひらほどの大きさの動物を、だんだんと自分たちより大きな動物をも数人で狩るようになっていった。人間たちは死肉を喰らうことをハゲワシから学んだ。捕食者たる人間にとって、死とは獲物という対象の死であり、それは自分の中に飲み込まれるべき者であった。さらにキニャールはこのことを人間文明の言葉とも結びつける。

死にかけのシラミがみせるような恐るべき緩慢さで、ヒトは大地を覆っていった。道具を使う唯一の動物であり、あらゆる種類の肉や漿果、猟獣、魚、鳥を住み処に持ち帰る唯一の動物であり、また、母たちや、子や妻や娘、老人たちの耳元で囁くための言葉や冒険譚をいろりまで持ち帰る唯一の動物であった人間にとって、道のりが長かったのは当然のこと、さらに語りの反復や噛み下し、後戻りなどによって倍の長さに間延びし、あるいはまた、伝聞や物語、筋の通った循環的な夢物語へと変化するにつれてさらに倍の長さに伸びてゆくその旅は、畢竟ゆっくりとしたものでしかありえなかった。
 みずから狩った獲物を持ち帰る人間は、みずからの「経験」を持ち帰る者でもあった。彼は言葉によって物語の担い手でもあったが、それはわが身を死の危険に晒し続けることによって得られた物語だった。
これが「経験」という言葉に秘められた意味、すなわち死から逃れるという意味である。

つまり、キニャールによれば人間文明の狩猟と言葉は同時発生的な者であり、ともに自らに差し迫り揺るがす死を忘却するためのものであったのだ。

往古への回帰、孤独者として

 だからこそ落馬なのだ!落馬は突如として否応なく、自分もまた死する肉塊だということを想起させる。その刹那、集団的な言語や、言語によって整理された時間の意識から引き離され、狩猟以前の、もっと言えば歴史以前の時間、往古の時間が立ち現れる。往古とはなにか。これは『いにしえの光』で展開されたキニャールのテーマでもあったが、ここでも再び繰り返される。
 往古とはなにか。キニャールは次のように論じている。

「真の往古」とは、起源にある未知だ。
 この泉には、時間の内部にある過去の空間、可視的なその空間に固有な爆発が宿っている。
 それが生のままの創造性、荒々しく、自由で、物質的な創造性である。
 「かつて」.(別の時)を持たない「一回限り」、これが往古である。
 だが、「本当に新しいもの」は未知なのだろうか。
 「真の未来」とは、時間が持つ複数の「別の時」のうちのひとつにすぎないのだろうか。
単に過去をもたらしただけではなく、かつて実現されなかったあらゆる可能性までをもその支配下に置くことができたのは、じつに往古以外にはありえず、往古はみずからが作り出す時間の縁に向かって波を打ちつける。

これはほとんどアウグスティヌスのいう永遠の時間だ。アウグスティヌスの『告白』で展開される時間論にも少し目を向けてみよう。アウグスティヌスは神が創造主であるなら、万物を創造する前には何をしていたのかという議論に答えていう。

 このようにあなたは、すべての時間を造りたもうた方ですから、もしあなたが天地を創造なさる以前に何らかの時間があったら、「あなたは御業に手をつけずにいた」などと、どうしていうことができましょう。まさに時間そのものを、あなたはお造りになったのですから、時間をお造りになる前に、時間が過ぎるなどということはありようはずがありません。だが、天地の存在する以前には時間もそんざいしなかったとするとか、「そのときあなたは何をしていたか」などと、どうしてたずねるのでしょうか。時間がなかったところには、「そのとき」などもなかったのです。
 あなたは時間に先だちますが、時間において時間に先だつのではありません。さもなければ、あなたが「すべての時間に先だつ」ことは、できないはずです。そうではなくて、あなたがすべての過ぎさった時間に先だつのは、常に現在である永遠の高さによるのです。それによってあなたはすべての来たるべき時間を追いこしておられます。じっさい、それらの時間はいまは未来ですが、やってくると過去となるでしょう。しかしあなたは同一の者にましまし、その年は欠けることがありません。あなたの年は、来ることも往くこともありません。ところが私たちの年は、すべての年が来るために、ある年は来たり、ある年は往くのです。

こうして読み比べてみれば、アウグスティヌスの「永遠」とキニャールの「往古」とが非常に似通っているのがわかるはずだ。つまり落馬する人々が見る往古とは、歴史以前の神の時間たる永遠なのであり、その刹那にこそ言語による区別以前の一者を目の当たりにする。

 さらにキニャールはこの落馬し、死と直面するこの時間にこそ希望を見出している。どのような希望か。個人という主体が社会状況の中で、戦争に代表される社会的悪に巻き込まれてしまうことへの反抗という希望である。キニャールは語る。

 社会的祝祭そのものである戦争を人間の力で止めることは不可能だ。だが、われわれの内で声を上げる死者たちからなる反独裁戦線に加わることなら、わたしたちにもできる。
 殉職者というよりは犠牲者たち。
 英雄というよりは死傷者たち。
 群れや隊列輪や組んだ(戦闘隊形に従った)軍隊ではなくて、不定住者や孤独な人たち。

死んでいく時、人は必ず孤独になる。そしてその死にはしばしば社会的な要請で否応なく巻き込まれてしまう。社会的な言語で語られる物語はそうした孤独な個人の死を、美しく飾り立てることで隠蔽する。落馬=自己の瀕死な身体の状態を強烈に意識することが、人々を死へと駆り立てる欺瞞にNO!を突きつける力があることをキニャールは信じているのである。

終わりに

 最後の方はやや急足で、論立てとしてまとめきれてない感はある。まさに序・破・急といった感じだ。ただこの書物の要点はある程度抑えることができたと思う。まぁ何かあればまた書き直すこととしよう。
 動物と人間、社会と個人、言語と脱自体験、戦争と平和、さまざまな二項対立が絡まり合い織りなされた『落馬する人々』、それに<最後の王国>シリーズは統一的な内容の把握が難しいため、人によっては読みにくい、退屈な本にも思えるかもしれない。けれどそんなこと期待せずここのエピソードを楽しむのも一つの読み方だ。キニャールは他にも『世界のすべての朝は』などのかなりかっちりとした物語も書いている。興味を持っていただけたら是非ともキニャールを手に取って欲しい。

紹介した本

〇パスカル・キニャール『落馬する人々』
キニャール<最後の王国>シリーズ第7作目。シリーズではあるけれど、物語が続いているわけではないのでどこから読んでもOK!


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