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あっかんべぇ

芥川龍之介『藪の中』は、藪に残された死骸=金沢武弘殺しの吟味。登場する7人の証言は、白状(盗人・多襄丸)・懺悔(武弘の妻・真砂)・物語(他5人ー巫女の口を借りた死人・武弘の談も含む)と題される。

7人7様の思惑が絡まるが、今生の損得が無い死人が喋る事ほど真実に近かろう。

藪、と言えば?

…藪から棒、…藪入り(江戸時代かっ!)、いやいや、咄嗟に浮かぶのは「藪医者」―診断・治療の下手な医者。あわせて、辞書には「野巫医」という言葉がある。

野巫医、とは

野巫(やぶ)とは、田舎の巫医 (ふい) 。一つの術にしか通じていない者のこと。物知らずで学行の劣っている禅の修行者にたとえてもいう。巫医=巫女 (みこ) と医者。

あらーっ、やられた~?! 

死人に口なしーこれは武弘の言葉ではない、巫女の言葉だ。

藪医者➡野巫医は、自分勝手な発想の展開に過ぎないのだが、「今生の損得が無い死人が喋る事ほど真実に近かろう」なんて、単純すぎた。

ああ、芥川さん、あっかんべぇ してますね。

えへん、龍之介。

冒頭の画像はー、松田奈緒子『えへん、龍之介。』の扉。

関東大震災で、江戸っ子の芥川の中にある明治の東京、自分の基盤のようなものがガラガラと崩壊。確かなものなど何もない。ただ、人は前に進むしかない、苦しかろうが、つらかろうが、 そして空に消えてゆくーという芥川の心理描写が強烈で、大好きな一冊。

『ピアノ』

自身が舞台レパートリーのひとつにしている、関東大震災による瓦礫の中のピアノが、野ざらしになろうと自身の音を保ち続ける姿を描いた珠玉の短編。こういう感動作は表現し甲斐がある。諸行無常の中に「確かなもの」を見出した刹那の感動が表現の真実だ。

『藪の中』は〈確かなものなど無い〉という現実だ。構成の妙から、ファンタジーや感傷に流したくはない。

では、

物語ではない、「白状(盗人・多襄丸)」「懺悔(妻・真砂)」に食いつくか?! 

多襄丸は、数々の盗み・殺しで名の知れた盗人。しかし「下手人」とは書いてない。

真砂とは、もともと細かい砂の意。…浜の真砂は、数がきわめて多いことのたとえだ。死にきれずに清水寺で懺悔するこの人を、一般人の代表として捉えるのは曲解だろうか。



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