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感情に名前をつける方法を知った日

別に、誰かが悪いとかじゃないの。ただ、誰かにとって、生きる力みたいになってるものが、誰かにとっては、便座カバーみたいなものかもしれない。

坂元裕二脚本「最高の離婚」フジテレビ

「そうそう、そういう感じ」
「ああ、この気持ちってそういうことだったんだ」
「この人が言った言葉、私の中のモヤモヤと似てる」
名前のない感情に名前がついたときほど、腑に落ちる瞬間はない。

私は日本語を日常的に話せるし、英単語もいくつか知ってて簡単な文法なら言える。だけど、自分の感情を言葉にできないことのほうが多い。”例えるなら”と思いつく例えもほとんどない。この感覚はこれに似てる、ってどうやって思いつくのだろう。

ビジネスで何かを説明するとき「野球で例えるなら」「サッカーで例えるなら」とスポーツの例えをよく耳にする。でも、私は野球もサッカーもよく知らない。例えられた方が分かりにくい。

エステで美容の話を聞いたとき「皮膚はオブラートよりも薄くて」と言われて「オブラートって?」となった。例えが例えられていない。全然分からない。「あ、ボンタンアメの周りのやつだ」と、帰り道に思い出した。


「花束みたいな恋をした」のタイトルに惹かれて、動画配信サイトで見た。日常の一部を切り取ったみたいな話に、自分事のようにも、他人事のようにも感じた。結末も私の好みだった。多分、また1年後ぐらいに見たくなるやつ。

そのあと知ったのは、「花束みたいな恋をした」の脚本家が「カルテット」「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」「問題のあるレストラン」と同じ人で、あの台詞を言った「最高の離婚」の人。私の好きな言葉を言った人たちが出てるドラマばかりで、納得した。

「ああ、そうか。私の好きな言葉は坂元裕二さんが作っているんだ」


初めて私の感情を言葉にしてくれたのは少女漫画で、そのあとは小説で、大人になってドラマの言葉に耳を傾けるようになった。ただぼんやりと見ていると、「あのときのモヤモヤはこれだ」と響く言葉があった。それが「最高の離婚」だった。

別に、誰かが悪いとかじゃないの。ただ、誰かにとって、生きる力みたいになってるものが、誰かにとっては、便座カバーみたいなものかもしれない。

坂元裕二脚本「最高の離婚」フジテレビ

「そう、そうなの、誰も悪くない。悪いとかじゃない。」って腑に落ちた。
次の台詞も良かった。真木さんが淡々と喋るのも良かった。

別の場所で生まれて、別の道を歩いて育った他人だから。

坂元裕二脚本「最高の離婚」フジテレビ

「考え方が違う」と表現するのは簡単で分かりやすいけど、そこに伴った感情は見えない。いやいや、こんな解説はいらない。

ただどこにでもある、誰の日常にもある小さなバラバラの素材がくっついてできた言葉で、ハッとするときがある。話は重いのに爽やかに流れていく感じ。知っている日本語で、使ったことのある単語しかない。スポーツにも例えられていない。一瞬で「わかる言葉」。

あの衝撃をいつまでも忘れられなくて、残っている。ずっと心の奥にあって、時々「あの感情だ」って出てくる。そういう言葉。

私は言葉が好きなんだなぁと思いながら。
「脚本家 坂元裕二」という本も買って読んでいるほど、影響を受けている。

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