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好きな人とAVを鑑賞した夜の話

 ──どうして、こうなってしまったんだろう。

 6畳のワンルームに響く、女の甲高い喘ぎ声。肉と肉がぶつかりあう、重くて湿っぽい音。それらの合間を縫うようにして漏れ聞こえる、男の荒い呻き。

 テレビ画面のなかで蛇のごとく絡み合う彼らは、「観られる側」としてこの状況をどう思うのだろう? そんな他愛もない問いが脳裏に浮かぶ程度には、室内は溢れんばかりの倦怠感で満ち満ちていた。

 ちゃぶ台を囲んで画面を眺める、僕ら3名の男性陣。そして、傍らのベッドに腰掛けている紅一点──イガラシさん。室内の空気がよく冷えているのは、何もエアコンのせいだけではないのだと思う。

「へぇ……アダルトビデオって、こういう感じなんだね」

 抑揚のない声で、彼女はぽつりと呟いた。

***

 ことの始まりは、僕の何気ない質問からだった。

 百貨店からの帰り道、ついでとばかりに立ち寄った「映像研究会」の部室にて。

「おれたち二十歳になったわけだけど、やりたいことってあったりする?」

 ──と漏らしたところ、その場にいたナナオとヤナギが揃って「飲酒喫煙」と答えた。「いや、なんというか、そういうんじゃなくて」自分の尋ね方があまりにも漠然としていたことを反省しつつ、僕は説明を付け加える。

 地元を離れ、都内の大学に進学してはや1年。勉学の調子はそれなりに順調で、一人暮らしも板についた自覚がある。めでたく二十歳を迎え、一応のところオトナにもなった。精神的余裕ができた今だからこそ、われわれは人生を今いちど見つめ直し、今後に活かすべきなのではないだろうか──?

「マジメかよ」「いや、クソマジメだな」

 呆れ顔を隠そうともせず、それでも「ほかに何かあるかなぁ」と話に付き合ってくれるあたり、彼らもまたマジメなのだと思わされる。類は友を呼ぶ。大学に入って、その格言の正しさを実感するようにもなった。

 額に手を当てながら、二人はひとしきり唸っていたが──突然、ナナオがカッと目を見開いた。

「気づいちまった!!」

 天啓でも降りたかのように、彼は荘厳な面持ちでつづけた。


「──オレ、店でアダルトビデオを借りたことが無いんだわ」


 その時、僕はどんな顔をしていたのだろう。ヤナギが「こいつ瀕死のセミを見るような目ェしてやがる」とか何とか言っていたから、つまりはそういうことなのだろう。

 ともあれ、だ。率直な感想としては「だからどうした」の一言に尽きる。というか、動画配信サービスが隆盛を誇るこのご時世において、なんでまた……。

「分かってねーな、アナログの手触りってもんがあるだろうがよ! あの18禁コーナーの奥へ行くことに、そこで一つ一つナマで吟味することに意味があるんだろうがよ!」

 テーブルをばんばんと叩きながらナナオが力説し、「分かるわ〜」とヤナギが合いの手を入れた。いや分からねぇよ、と抗議する僕をよそに、なおもナナオはまくし立てる。

「今や失われつつある、大学生男子にとっての『通過儀礼』! ちくしょう、ハタチまでには経験せねばと入学時に固く誓ったはずなのに……オレは今まで何を……」

 うなだれるナナオ。その肩をぽんと叩いて、ヤナギは静かに言った。

「今からでも、遅くはないさ」

「……そうだな」

 ナナオはひとつ溜息をつくと、僕の両肩をがっしりと掴んで、告げた。

「ロッカク、お前のおかげだよ、ありがとう」

「そりゃどうも……」

 曖昧に笑って、僕は天井を仰いだ。

 ──そんなこんなで、急遽「上映会」が催されることとなった。

 そして、さも当然のように僕も巻き込まれた。

「お前の部屋が大学から一番近い」という、ただそれだけの理由で、上映会場は僕のアパート自室に定められた。しかし、そもそもウチにはDVD・ブルーレイの再生機器がない。僕がそう告げるやいなや、彼らは部室を飛び出したかと思うと、数分後にはPS3の大箱を脇に抱えて戻ってきた。なんでも、そばのホビーショップから中古品を買ってきたらしい。

 ナナオとヤナギの提案はこうだった。
 学生街のレンタルショップで全員がAVを1本ずつ借りて、僕の部屋で鑑賞会を行う。すべて観終える頃にはいい時間になっているはずだから、そこから居酒屋へと移動して、成人祝いの飲み会へしゃれこもうというわけだ。

 いわく「R18兼R20突破記念会」。
 安直にもほどがあるネーミングはさておき──素直に白状すると、僕はちょっとばかり浮き立っていた。その高揚感は、上京するべく初めて新幹線に乗った瞬間に勝るとも劣らないものがあった。

「そんじゃ行きますかぁ、『上映会』」

 ナナオが威勢よく両膝を叩く。それを合図に、いざ学生街のレンタルビデオ店へと向かうべく席を立とうした矢先、

「……映画、観にいくの?」

 横から飛んできた声に、僕らは一斉に振り向いた。なんなら僕は、心臓が縮み上がったような気すらした。
 半開きになったドアの合間から、半身をのぞかせる一人の女子──イガラシさん。こざっぱりとした白のTシャツ、七分丈のジーンズという出で立ちは、いつもながらに涼やかだった。

「ええと、その……映画じゃなくて映像研究というか」

 自分でも嫌になるほどしどろもどろになりながら、僕はタイミングの悪さを呪っていた。サークル同期のイガラシさんとは、ふだんからよく好きな映画について語り合う仲だった。連れ立って近場のミニシアターや都心の映画館へ足を運ぶことも珍しくはない。

 いつもであれば「一緒に見ない?」とでも気軽に誘うところだが、今回ばかりはそうもいかない。なんせAVである。彼女にどう思われるかという不安はもちろんのこと、単純に気恥ずかしいというのが大きかった。おそらくは、他の二人も同じだろうと踏んでいたのだけれど──

「これからAVを借りに行くってわけ」
 あっけらかんと白状するヤナギだった。

「俺の発案でね、これからロッカクんちへ行くんだわ」
 そう付け加えて、ナナオがにかっと笑う。

 瞬く間に頬が熱くなるのが分かった。あまりにも二人が爽やかに言うものだから、言いよどんだ自分が逆にいかがわしく思えてくる。

「……ああ、そういうことね」

 イガラシさんが薄い苦笑を浮かべる。そこはかとなく表情に滲む、落胆。そこに、僕自身への失望までもが含まれているような気すらして、きゅうと胸が締まった。

「……ほら、さっさと行こう」

 背筋につたう汗の心地悪さを感じながら、僕は二人を急き立てる。百貨店の手提げ袋を後ろ手に「おつかれ」と言い置いて、彼女のそばを足早に通り過ぎようとしたところで、

「──ねえ、ロッカクくん」

 僕の腕を静かに掴み、彼女は言った。

「『研究』、わたしも付いていっていい?」

***

 ──どうして、こうなってしまったんだろう。

 溜息を噛み殺しつつ、己に問う。

 今にして思えば、レンタルビデオ店で品定めをしていた時がテンションのピークだったように思う。むず痒い羞恥心を覚えつつも、思い思いにタイトルを見繕っては、互いに「趣味が分かるもんだな」と肘で突っつき合った。イガラシさんはといえば、肌色成分の多い陳列棚を見回しては「すごいもんだね」と真顔でつぶやいていた。

 上映会が始まって最初のうちも、まだ良かった。ナナオとヤナギが「女優があまりにも演技くさい」だの「男優の声が粘っこすぎる」だのツッコミを入れるのを、ただ笑っていればよかったのだ。

 でも、それも長くは続かなかった。1時間も愚直に眺めていれば、さすがに飽きもする。ただ、それとは別に、場の空気がじわじわと沈んでいく感覚があった。初めはその正体がわからなかったものの、やがて僕は気付いた。たぶん、ナナオとヤナギも勘付いていただろう。

 空気の傾きの先が、イガラシさんへと収束していることに。

「上映」が始まってからというもの、彼女は一言たりとも発していなかった。彫像よろしく微動だにせず、ただじっと画面の向こう側を食い入るように見つめている。

 ──いや、

 睨みつけていた。
 ・・・・・・・

 果たして、イガラシさんがようやく口を開いたのは、2本目のAVを観終えた直後のことだった。

「……ごめん、ちょっと眠くなっちゃった。横になるね」

 僕が頷くと、彼女は僕のベッドに寝転んだ。「気にしないで、楽しんでね」そう言い置いて、ゆっくりとこちらに背を向けた。そうして僕らは──楽しめたかどうかはさておき──そのまま残りの1本を粛々と鑑賞した。とはいえ、もはやAVの内容には誰も触れず、やれカメラアングルの重要性だの撮影機材の高価さだのと話題はあさっての方向へ飛んでしまっていたけれど。

 ひどく緩慢な90分がようやく過ぎて、テレビが思い出したようにチャプター選択画面を映し出す。僕はあぐらを解いて、のろのろとPS3の電源を落とした。嬌声が染みこんだ鼓膜に、イガラシさんの健やかな寝息がやけに響いた。

 上映開始からおよそ5時間近く。出窓へと目を移せば、すでに紺色の闇がガラスを覆っている。起こすべきだろうか、と迷ったところで、腰ポケットのスマホがぶるりと震えた。

 画面に表示されていたのは、LINEのプッシュ通知だった。映研のグループトークではなく、ナナオが即席で立ち上げたものらしい。参加者はナナオとヤナギ、そして僕の3人だけである。

nanao :そのまま寝かしとこうぜ
やなぎん:って俺と奈々尾で話してたんよ
六 角 :いや、このあと飲み会だろ?
nanao :いやいやどー考えても五十嵐さん優先でしょ
やなぎん:これはチャンスだと思うわけ
nanao :俺たちは一足先に帰るからさ
やなぎん:今夜きっちりキメちゃいなよ

 何を、とは訊かなかった。それが答えだった。

『がんばれよ』とナナオの口が動き、ヤナギが無言で親指を立てた。

 玄関口で二人を見送り、部屋に戻る。イガラシさんが目覚める気配は、一向にない。壁に背中を預けると同時、肺の奥から押し出されるようにして溜息が漏れた。

 ──大丈夫だろうか。

 ベッドに横たわるイガラシさんの背中をぼんやり眺めながら、そう思った。

 ただただ、イガラシさんのことが心配だった。思い起こされるのは、あの真剣な眼差しだ。男性向けのファンタジーを嫌悪するでもなく、かといって楽しむでもなく──強いて言うなら、ひどく無理をしているように見えたから。

 気を回してくれたナナオとヤナギには悪いが、彼女が起きたところで「キメる」気になんて到底なれそうもなかった。ついでに言えば、僕もまた「上映会」を完走してそこそこに疲れていた。

 まぶたの重みに耐えかねて、目を閉じた。薄闇に漂う、イガラシさんの後ろ姿。それもやがて消え、代わりとばかりに浮かび上がってきたのは別の人影だ。

 カーテンから差し込む夕陽。照らし出される制服シャツとチェックのスカート。ベッドに寝転がる「彼女」は首だけをこちらに向けて、微笑まじりに告げた。

「いくじなし」と。

***

 高校の頃、付き合っていた女子がいた。

 彼女は僕を「大人びているから好き」と言い、僕はそう評してくれる彼女を好ましく思った。お互い、大人になることに貪欲だった。言い換えれば、僕らはその一点においてのみ繋がっていた。

 ──二十歳になったら、やりたいことは?

 何度か、彼女とそんな話をした覚えがある。

 ──二十歳までに、やりたいことは?

 幾度も、彼女と語り合った記憶がある。

 僕らにとっては、果てしなく遠く思えるハタチの自分を想像するよりも、手の届く範囲でどれだけ手っ取り早く大人になれるかが重要だった。

 その点、恋愛はすこぶる優秀な手段だった。さながら人生の階段を三段飛ばしで駆け上がるような、期待と高揚感に満ちていた。デートと称して狭い田舎町を飽きるほどに巡り、じりじりと合意を積み重ねる──その営みが楽しくて仕方なかった。

 順調すぎるほどに順調だった。彼女の家に招かれたのは、付き合って半年も経った頃のことだ。彼女が18歳を迎える誕生日、僕は手ぶらで玄関を上がった。

「親、遅くまで帰ってこないから」

 栗色の長い髪を掻き上げながら、彼女はあっさりと告げた。抜き打ちの校則指導で没収されたというピアス、その穴が耳朶に小さく残っていた。

 彼女の部屋に入ってしばらくは、何を話したのかも憶えていない。

 記憶に残っているのは、唇を重ねた場面からだ。それ自体はすでに、初めてのことではなかった。次なる初めてを日常にするための、予行演習とでもいうべきもの。

 けれども、僕は次に進めなかった。

 制服シャツのボタンにかけた指を離して──僕は覚えず口を動かしていた。

「やっぱ、まだ早いよ」

 気持ちが追い付かなかったのか、あるいは逆に先走りすぎていたのか。たぶん、両方だ。

 受験をひかえた、高3の春。
 ゼロではない妊娠の可能性。
 脳裏に浮かぶ責任の二文字。

 感情を理性で制御できる程度には大人になっていて、欲望を臆病で塗り潰してしまうくらいにはまだ子供だった。

「もう少し、大人になってから──」

 そこから先は、続かなかった。
 彼女が放り投げた未開封のコンドームが、僕の胸に当たって、ぺちんと情けない音を立てた。

 あはっ、と彼女は口の端を歪めて、言った。

「──いくじなし」

 それきり、だった。

 その日を境に、彼女は僕から離れていった。付け加えれば、一部の女子から分かりやすく避けられるようにもなった。「ヘタレじゃん」と密やかに語られていたのを知るのに、さほど時間はかからなかったように思う。

 あれほど面倒に思えた受験勉強も、その頃にはもう苦に感じなくなっていた。言い訳があることが救いだった。彼女と顔を合わせないために、体よく地元を離れるために、志望校欄を東京の有名大学でずらりと埋め尽くした。

 そうして、僕は地元を離れた。

 彼女が母親になったという噂を耳にしたのは、去年の冬のことだ。

「早いよな、いやーなんか感慨深いわ」

 スマホから流れてくる高校時代のクラスメイトの声を聞き流しつつ、遠く離れた彼女のことをぼんやりと想った。

 ──二十歳までに、やりたいことは?

 記憶は薄く、もはや遠い。それもある意味、当然かと思う。山のごとく会話を積み上げはすれど、突き詰めれば僕らは「ヤりたい」としか言っていなかったのだから。

 むしろ鮮明に蘇るのは、片手で数えられるほどしか交わさなかった、そんなやり取りの断片ばかりだった。

 ──二十歳になったら、やりたいことは?

 “とりあえずビール、って言ってみたいな”

 “やっすい居酒屋にろっくんと二人で行ってさ”

 “その頃にはもう家族になってるのかもね、なんてね”

***

 ──猫の鳴き声で、目が覚めた。

 それが勘違いだと、寝ぼけ眼を擦ってからすぐに気付いた。

 真っ先に視界に飛び込んできたのは、イガラシさんの後ろ姿だった。いつの間に起きていたのか、ちゃぶ台に頬杖をついて、じっとテレビを眺めている。肩越しに見える画面には、またもやAVが流れていた。登場する女優の容姿を見るに、「上映会」で最後に再生した一本だ。

 推察するに、どうやらイガラシさんはその「見逃し」を取り戻そうとしている最中らしかった。音量が格段に下げられているのは、寝落ちた僕を気遣ってのことか。声をかけるのも気が引けて、僕は無言でテレビを見つめる。

 その作品は、僕が選んだ一本だった。キワモノめいたシチュエーションを何も含まず、シンプルに女優へフォーカスした「普通」のやつだ。女優選びにしても、なるべくイガラシさんからかけ離れた容姿になるよう注意を払った。

 だから、黒髪ではなく茶髪を選んだ。
 髪型はショートではなく、ロングを。
 清楚系ではなく、少しギャル寄りに。

 今にして、思う。
 レンタルビデオ店でAVを選ぶ際、僕はもう少し吟味するべきだったのだ。

 イガラシさんを好きになったのは、きっと、高校時代の「彼女」をそっくり反転させたような存在だったからだ。そこからさらに裏返せばどうなるか、容易に想像はついたはずだった。もっと言うなら、女子校生モノなんて除外するべきだったのだ、絶対に。

 最初に観たときは何の感慨も湧かなかったはずなのに──いったん意識してしまうと、もう逃れられなかった。目を閉じるべきだと頭では分かっているのに、そうできない自分がいた。

 画面の向こう、制服のふたりが一糸まとわぬ姿になるのに長くはかからなかった。この一日ですっかり見慣れた反復運動が、また始まる。ただそれだけのことだというのに、どうしてこんなにも虚しいのだろう。

 前触れもなく、視界が滲んだ。あっ、と思ったときには既に遅かった。なお悪いことに、鼻をすする音が思いのほか大きく響いてしまっていた。

 イガラシさんが、はっとしたようにこちらを振り向いた。

 瞬間、僕は思わず息を呑んでいた。それは、泣き顔を見られる気恥ずかしさよりも、単純な驚きからだった。

 目を赤くした彼女──その両頬に、幾筋もの涙の跡が見てとれたからだ。


「──どうしたの?」


 ほとんど同時に、潤んだ声が重なった。それが無性におかしくて、僕らはどちらからともなく吹き出した。余計に涙をこぼしながら、互いに突っ込んだ。「なに、ホントにどうしたの」「そっちこそ」──。

 揃ってティッシュで鼻をかみ、どうにか一息ついたところで──気づけば、口を開いている自分がいた。

 高校時代に付き合った彼女のこと、あの春の夕暮れの記憶、それから今の大学を目指したことについて、寄り道と迷子を繰り返しながら、ぽつぽつと白状していった。

 バカみたいでしょ、と自嘲ぎみに締めくくった僕に、つらかったね、とイガラシさんは言った。

 しばしの間を空けて、イガラシさんが言葉を継ぎ足していく。

「──わたし、いま付き合ってる人がいてね」

 小学校の頃から好きだった、という。
 相手は、幼馴染の女の子だった。
 お互い無事に大学へ進学したのを機に、イガラシさんのほうから想いを伝え、相手もそれを受け入れてくれた。

「ほんとうに嬉しかった。陳腐だけど、生きててよかったって、心の底からそう思えたんだよ」

 中学や高校で、告白しようと思ったことは何度となくあったらしい。それでも自制したのは「もっと大人になってから」という思いが強かったから──そうイガラシさんは語る。

 優しいね、と相手は言った。
 そういうところが好きなんだよ、とも。

 中高ではできなかったことを、したかった。もはや「デート」という言葉にわざわざ冗談めいたニュアンスを入れ込む必要もなかったし、その先を我慢する必要もなかった。ごく自然に、イガラシさんたちは次へと進んだ。それもやがて日常に溶け込んだ頃──

 より具体的に言うなら数日前に、イガラシさんは彼女から告げられた。

 いわく、「優しすぎる」と。

 その矛先は、たとえばキスの仕方であり、愛撫の力加減であり、大雑把に言うなら「取り扱い方」についてだった。ひとしきりの改善点を述べ立てた後で、彼女はイガラシさんに助言をした。

「いっかいAVでも見てみたら? ああ、女性向けじゃなくて……ガチガチの、男性向けのやつとかさ」

 ──だから、イガラシさんは『上映会』に参加した。

 文字通り「研究」をするために、意気込んであの場に臨んだ。

 けれども、観れば観るほど、自分には無理だという思いは強くなるばかりだった。

「あんなに荒々しく、乱暴にしたくなくて……でも、あのコはそれを望んでるわけで……じゃあどうしたらいいんだろうって」

 ぐるぐると考えを巡らせているうち、いつの間にか泣いていたのだと、彼女は申し訳無さそうにはにかんだ。

「──こんなふうに悩むなんて、子供の頃は思いもしなかったのにね」

 イガラシさんの視線は、壁掛け時計に注がれていた。午前0時──きのうが終わり、きょうが始まった。

 どうしようか、と一瞬迷って、まあいいか、と自分を納得させた。

「……こんなところで渡すのもなんだけど、これ」

 隠す暇もなく、帰宅してからちゃぶ台の下にそのまま置いていたそれを、僕はイガラシさんに差し出した。

「誕生日、おめでとう」

 イガラシさんが目を丸くする。そんな表情は、初めて見たかもしれなかった。一瞬の沈黙の後で、

「うそ!? えっ、ありがとう!」

 ぱあっと、笑みが弾けた。

「開けてみてもいい?」
「どうぞどうぞ」

 お決まりのやり取りを済ませ、彼女は箱からそっと「それ」を取り出した。

「あっ、きれい」

 僕が贈ったのは、ペアのグラスだった。店員いわく、カクテル用のやつらしい。イガラシさんがカクテルを飲むかどうかは分からなかったが、あっても困ることはないだろうと思ったのだ。

「彼女さんと、よかったら」

「うん……ありがとう」

 イガラシさんは2つのグラスを室内灯にかざしながら、おもむろに言った。

「ね、もう使ってみてもいい?」

***

 ──10分後。

 リモコンとティッシュしか乗っていなかったちゃぶ台は、今や飲み会と見紛うばかりの様相を呈していた。最寄りのコンビニへ二人で赴き、調達したビール缶が2つ。それから、ケーキの代わりとばかりに片っ端から買い物かごへ放り込んだ数々のツマミ類。

「本当にビールで良かったの?」

 開けた缶ビールをグラスに注ぎながら、僕は尋ねる。一応のところ、コンビニにはシャンパンらしき瓶も置いてあったのだけれど、彼女は「今日はいいよ」と首を横に振ったのだ。

「とりあえずビールかな、と思って」

 嬉しそうに微笑んで、彼女もまた自分のビールをグラスへと注いだ。

「うーん、大人っぽいね」
「まぁ一応は大人だしね」

 僕らは知らない。いつになったら、僕らは胸を張って大人と言えるのか。分からないし、想像もつかない。もしかしたら50年経っても同じ台詞を吐いているのかもしれないけれど。

 僕らは知っている。二十歳になったからといって、何かが劇的に変わったりはしないことを。今日の僕はおそらくナナオとヤナギに問われて「何もなかったよ」と答えては「何やってんだよ」と茶化されるに違いないし、イガラシさんはAVで得た教訓を胸に秘めたまま、恋人にまた「優しすぎる」とぼやかれるのだろう。

「……ではでは、成人を祝しまして」

 二人揃って掲げたグラスに、黄金色が揺らめいた。

 たぶん、最適ではない組み合わせ。カクテルグラスにビール。人生初の飲み相手に僕。早ければ、今夜には訂正されるはずのイレギュラー。注がれるべきはカクテルで、そばに居るべきは恋人のはずだ。

 それでいい、と思う。
 ただ、今だけは──
 この瞬間だけは、他ならぬ僕らのものだ。

 僕らは変わり続けていく。過去の記憶を足がかりにして、新しい想い出を積み重ねていく。喜怒哀楽を丸ごと飲み下して、ささやかでも前へ──ただひたすらに、前へ。

 きっと、この一杯は特別なものになる。
 僕にとっては、確実に。
 もし叶うならば、イガラシさんにとってもそうでありますようにと。

 光る器はゆっくりと重なり合い、いつかへと続く足音をきんと奏でた。


<了>

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蜂八 憲
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