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備忘録(読書感想文『ありがとね、ありがとね、ありがとね』③

歌集の構成は、18章で、
①息子さん達との歌
②学習教室をはじめとする、様々な場所での子供たちの歌
③身の回りの風景の歌

④愛犬やお父様が他界した時の歌
⑤同窓会での歌
となっている。
主軸は、7章分ある①で、②~⑤は、その合間合間にちりばめられている。

ここでは①と③での歌を主に取り上げる。それ以外の歌は、ぜひ、お問い合わせを

息子さん達との歌

1 歌集の最初の歌

環状線を走る
特急列車のような
息子の反抗期
止まらない
終わらない
 (1 反抗期)

ひまわり氏には2人の息子さんがいて、長男さんが荒れていた時期があり、父親は同居していなかった。

この歌は「1 反抗期」の一番最初の歌である。
縮みあがる命の、小刻みな震えがそこにはあった。

環状線には、スタートラインもなければ、ゴールラインもない。ただ回るだけ。そんな環状線に特急列車が走るわけがない。だが、長男さんはそのような変貌を遂げてしまった。遠心力で吹っ飛びやしないかという想像までさせるから、読み手にリアルな震えを伝わらせてくる。

本人にとっては直線だが、実際は、同じところを回っている。そんな暴走。

特急列車を「息子」と呼ぶから、この歌を詠っている人は「母親」なのだな、と読み手は理解する。

震えの次に、母親。そんな伝わり方だった。

包んでもいない、戦ってもいない。震えながら「息子」と声なき声で歌う、命。

その場でひまわり氏は母親ではなく、むき出しのただの小さな命でしかなかった。

だが、この歌で、ひまわり氏は、自分が遭遇した長男さんの脅威を「こんな感じだった。こんな怖い目に遭った」ということを読み手に伝えたかったわけではない。

そんな風に伝わるのは、吐き出す故の、避けきれない結果論。
だが、真の目的は、自分の縮みあがった命をほぐすために、自分の為に、歌ったのだろう。

まず、自分の為に。そこから、歌を。

歌集のあとがきによれば、「つかの間でも逃れたいという思いから」歌会に初参加されたそうで、ヘヴィさから考えると、この歌が初めて書いた歌ではないかもしれない。

それでも、歌会に参加するという小さな勇気から始まり、この歌に至るまでの言葉なき道のりは、大変なものだっただろう。

前述したが、ひまわり氏は【「」量】が多い。
多いということは、基本的に、相手に対して、聞き耳を立て、興味を持ち、その関係性の中に自分を見出すことに、感応しやすいアンテナをお持ちということだ。

そういう特性のある人が、自分の為にまず詠わなければならない、その道のり。

自分の震えを正視するところから本当の意味で歌いはじめたのだ。

読み手の胸を締め付けるものではあるが、詩歌を詠う人にとっては、まずはここからなのだ、ここからでいいのだ。そんなことを思わせる。

その後、観音様(と歌でも描写されていた)のような次男さんの助けもあって「1 反抗期」の最後の歌は、

制服を着る
学校に行く
友達が来る
フツーが
嬉しい
 (1 反抗期)

で締めくくられる。

「フツー」が「普通」でないのは、まだ、ありふれたことが、どっしりと根を張っている訳ではなく、不安定さがあったからかもしれない。

それでも、その軽くて儚い「フツー」は、深呼吸ぐらいはさせてくれるものであったのだろう。

辛うじて相手を「息子」と呼ぶのがやっとの、ギリギリのところから、「母親」を、微かに取り戻したのだ。何も描写されていないのに、朝に鳴く小鳥の声までも聞こえるのは、きっとそのせい。

2 歌集の最後の歌

後に次男さんは、夢を追い一人暮らしを始め、彼女も出来たりしている。長男さんも、経済的な不安定さはあるように見受けられたが、暴走はしていない。穏やかさを取り戻し、自立した。

その反抗期から青年期にかけての息子さん達への歌を追いかけて読んでいると、「息子さん達を愛している」という感情からの歌「息子さん達に愛されたい(慕われたい)」という感情からの歌とふたつあるような気がした。で、後者の感情が満たされた時の歌って、すべての母親が持つ感情かもしれないが、歌として、その感情を立たせているのって、ひまわり氏の歌の世界の特徴かもしれない。

息子さん達からの愛情を実感した、ひまわり氏の歌は、とてもキラキラしている。

思いもかけず
息子からの
誕生日プレゼント
「今まで生きてきた中で一番幸せ」が
また更新された
  (10 オカン、ウハウハやろ)

「ありがとね、ありがとね、ありがとね」
で 始まるメッセージ
一生忘れない
忘れたくない
今年の母の日  
(18 ありがとね、ありがとね、ありがとね)

私自身は、小さな喜びをチマチマと詠うことはあるが、大きな喜びの感情を詠った記憶がない。
詠ったとしても、ベタになるので、恥ずかしく、文章で書いても、歌にできない。

それに比べてどうだろう。この堂々とした歌いっぷり。
【「」質】の歌のせいか、温もりもあるし。
この二首に共感する母親は、沢山いるのではないか。

青年期の息子さん達からの、真っ直ぐな母親への愛情表現、それが嬉しくてたまらなさそう。
胸いっぱいで、実際は涙ぐんだかもしれないが、歌には湿っぽさ抜きで喜びを表現していて、まぶしい。

暴力的な反抗期を乗り越えたからこその喜びの歌なのかもしれないが、暴力的な反抗期がなかった、いや、反抗期すらなかった母親達でも、個々の思い思いの場面を想起させる歌にもなっているのではないか。

自分の身に起った、個人的な出来事をリアルに綴られている歌が特徴的な歌集だが、共感したり、励まされたりする人は多いのではないかと思う。

息子さん達の人生も、ひまわり氏の人生も、この歌集後も続いているだろう。
いろんな出来事が過去になり、目の前のことに必死になるしかないのが普通。

歌集のタイトル歌を一番最後にして締めくくっているのは、長男さんから贈られた、その大好きになった言葉を、そこから派生して、多くの人々に支えられてきたという気づきを、母の日が来るたびに、思い出しては刻み込む為なのかも。

印象的な息子さんからのメッセージを、より印象的に配置することで。

その後の人生の為の仕掛けを、知らず知らずのうちに組み込む行為だったのかもしれない。

身の回りの風景

1 それでいいのか?


お遊戯会では
全員が白雪姫
今どきの
幼稚園の
不気味さ
 (3 今どきの)

運動会も
参観日も
入校許可証が要る
こんな時代に
誰がした
 (3 今どきの)

今でも全員が白雪姫なのだろうか。
私にもそれはまだ「不気味さ」と思えるが。

歌集にはなかったが、『五行歌』の歌誌の方で、徒競走で競争をさせずに全員が一等賞になる運動会の歌も確か歌われていたと思う。
それも私にはまだ「不気味さ」に思えるが。

前者の歌は、共感する違和感がまだある。
が、後者はどうか。

もはや、抵抗なく、はっきりと、入校許可証がないと、ダメだよな不安だよな、と思う自分がいる。
入校許可証が必要である煩わしさ、その必要になった世の中に対しての苛立ちより、順応する方を受け入れている自分を感じる。
良くも悪くも浸食されている自分を感じる。

歳を取る程に、世相や世俗の歌は、古びてしまうように見えて、未来に向かって「それでいいのか?」と問いかけてくる。

いいのかなぁと、思ったり。
本質は変わってないよと、言い返したり。

好みは分かれると思うけど、五行歌は生々しく歌うこともできるので、普遍的なところまで煮詰めなくても、その時の濃い思考や感情を、そのままパッケージングする。

頭ではわかっていたけれど、歳を重ねて、ようやく実感として分かりだした。

例え流れに逆らえなくても、
詩歌は「想いの記録・記憶」としても大切だと、と思わせてもらった。

2 捻じれ

「」のないひまわり氏の歌は、どこか「捻じれ」を思わせる。
表と裏、白と黒、一首に二重性を感じる歌はよく見かけるが、ひまわり氏の一首は、はっきりとした二重性を感じるわけではない。
細長い紙がクルリと緩く捻じれているような印象。

帝は
羨ましがるだろう
宇宙へ向かう
ロケットがある
現代を
 (3 今どきの)

この帝は『竹取物語』に登場する帝。皮肉の中にも、ロマンティックさがあって、好き。
昔話と現代のロケットを同じ土俵に立たせる「捻じれ」。

花瓶にさした
向日葵は
方向が
分からず
途方にくれている
 (7 トマトの情熱)

俯いているのだろうか。
自分だけの向日葵にしたのに、本質の無邪気さが失われている「捻じれ」。

人には
不愛想なのに
犬には
話しかける
隣のご主人 
(13 失敗作のチョコレート)

こういう人って、本当は人が好きだし、人に愛想よく話しかけたいのだ。
だが、人は社交辞令だったり、逆にあからさまなリアクションだったりで、「隣のご主人」ほどにもなると、犬の方がよっぽど、ストレートに話しかけやすいと気づくし、人に不愛想でも許されるのだ。

人より犬の方が好き、ではなく、犬を人に見立てて話しかけている「捻じれ」。

生まれるとこ間違いましてん
顔を歪めながら
翌日には融けてゆく
なにわの
雪だるま
 (7 トマトの情熱)

数年に一回ぐらいの割合で、小さな雪だるまが作れるほどに、なにわにも雪が降る。だがそこまでの寒さは持続しない。
写実なのか、擬人化なのか。
そんな土地で生まれちゃう雪だるまという「捻じれ」。

「捻じれ」。……歌としては、そのまんまを歌っている。一皮をめくりきらない。だがチラ見せをしてくる。

ひまわり氏の歌を通して視る、ひまわり氏の身の回りの景色は、ストレートな【「」質】の歌より、どこか捻じれている。

対照的だ。


最後に


歌集は、多面体だ。歌人の色んな側面を見せてくる。ひまわり氏のこの『ありがとね…』にしたってそうだ。

だが、そんな多面体の歌集の読後感の中で私が印象に残ったことが、

①括弧「」が多い
②歌の体温が他の歌人さんの歌より少し高い

ということは、前述した。
つまり、歌に甲乙をつけている訳ではないが、人との関わりの中の方に、がっつりとエネルギーを込める方が、この方は気持ちよく作歌してるのではないか。

捻じれの歌も、どうしても見つけちゃうから、歌わずにはいられないんだろうけど。

歌集を上梓して、7年。
そのエネルギーは、どんな人に向かっているだろう。

もちろん、真っ先に考えられるのは、介護している母親だろう。
多分それは、単純に考えれば、辛かったり苦しかったりしても「愛するエネルギー」を満たすだろう。

表裏一体。では「愛されたがる(慕われたいと強く願う)エネルギー」はどうだろう。

今でも何気ない息子さん達とのやり取りで、満たしているのだろうか。
愛犬が他界した歌もあったけど、新しいペットとか飼っているだろうか。
学習教室で今も子供たちに慕われているだろうか。
7年分、お年を召している訳だけど、そんなことは関係なく、成就しているかどうかは別として、他人を特別に想ったりしていないだろうか。巡りあってはいないだろうか。

そんなことをふと思った。
余計なお世話です(笑)すいません。

ただ、再び命が縮こまっていないことを、
歌集の感謝の代わりに強く強く祈った。

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