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春の陽射しとアジのたたき

すりおろす手がビビっている。生姜はみるみる小さくなって、指があのギザギザに触れる寸前だった。ここまでおろす必要はないのだが、ついついどこまでいけるかと不毛なスリルを味わってしまう。

刺身にするには小さいし、丸ごと唐揚げにするには、ちと大きい。
そんな中途半端な大きさのアジを1センチほどの短冊に切って皿に盛る。細かく刻んだネギと大葉、そしてすりたての生姜。この薬味たちをたっぷりと散らせば、アジのたたきの完成だ。


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ざっくり混ぜ合わせたアジのたたきを醤油につけると、脂が小皿に広がった。もうそれだけで心が弾む。待ちきれない。炊きたての白米にアジをのせ、小皿に散らばった薬味も急いでのせると、大きく口に放りこんだ。わたしは天井を仰ぐ。

集合時間のすこし前に港に着くと、すでに受付と着替えを済ませた仲間たちが船に乗り込んでいた。釣り人は支度が早いが、今日は特にそう感じる。

真冬の釣りが身に堪えるようになってから、春の待ち遠しさが増えた。寒暖差はあるものの、春のやわらかな陽射しを感じて小さな扉を開くと、年末に掃除して仕舞っておいた竿やリールに風を通す。LINEが鳴った。同じようにうずうずしてる仲間からだった。OK!と短く返事をしてカレンダーに魚のマークを書きこむ。ざっと見渡すと「啓蟄」という文字が見えて、口元がゆるんだ。

船はゆっくりと港を出ると徐々にスピードを上げていった。遠くに幕張のビル群が見える。夜が明ける。一日がはじまる。地球の回るスピードを確認する。時の流れは容赦ないなと、改めておもう。海の上で朝陽が昇ってゆく姿を拝めるのは釣り人の特権かもしれない。

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ほとんどの人は、竿のセッティングや仕掛けの取付を、船が出発する前に終わらせている。そういうルールがあるわけではない。船が走ると船体が揺れたり弾んだり波しぶきがかかったりで準備どころではないし、なによりポイント (釣る場所) に着いたらすぐ釣りたいのだ。魚の群れはずっとそこにはいてくれない。食い気も魚の気分次第。タイミングを逃さないためにも準備は大事だ。もっと大げさに言えば、前日の準備から釣りは始まってると思う。

エンジンの音が弱まった。そろそろ船長の合図があるはず。針に、付けエサとなる青イソメをつける。ひらがなの「し」の形をした針に、イソメをまっすぐに付けないといけないのだけど、体がぬるぬるしている上によく動くので、不器用なわたしはいつも素早く付けられない。適当にやりたくなるが、このエサ付けをきちんとやらないと、水中でクルクルと回って魚が食いつかないらしい。イソメのアップライトスピンは海の中で観客を魅了しないようだ。

「はい。どーぞー。水深20メーター」

船長の合図で、みんな一斉に仕掛けを落とす。コマセ (撒き餌) を詰めたビシが海底にトンッと着いた。余分にでた糸を巻き取りさらに仕掛けを巻く。竿をスッと振り上げコマセを撒いて、1メートルほど仕掛けを上げる。コマセを撒いたときにできる煙幕に仕掛けを忍ばせて、しばし待つ。

周りのみんながポツポツとアジを上げている。
「お。食い気は良さそうだ。すぐ来るだろう」
なんて呑気に思いながら、空になったビシにコマセを詰めては落とし、詰めては落としを繰り返している。

周りのみんなが相変わらずアジを上げている。
「うん。食い気は良さそうだね。来てね。お願い」
なんて節操もなく声に出し、空になったビシにコマセを詰めては落とし、詰めては落としを繰り返し、水面を見つめた。

水面を見つめるのも飽きたので顔を上げる。深呼吸なんかもしてみる。いい天気だ。風の塔の青と白のストライプが映える。ウミネコが鳴く。仲間が笑っている。小腹が空いたのでコンビニで買っておいたおにぎりを食べる。おいしい。なんてほっとする時間だろうか。

その時、わたしの竿に強めの反応があった。慌てて竿を合わせて巻き上げる。もう少しで引きあがるという時に竿が軽くなった。
あの、「あ……」って感じ、「やっちゃった!」って感じ、周りの「あぁぁー」って感じも含めて釣りの醍醐味だという事をここで強く言っておきたい。

アジは口が弱いから、勢いよく竿を立てたり糸を巻いたりすると口切れをおこしてしまう。というのをすっかり忘れていた。今度はサンドイッチを食べて気合を入れなおすと、みんなには追い付かないが釣れはじめた。

人ふたりと猫にひき。我が家にはじゅうぶんなお土産である。


当たり待つ ただひたすらに待ちわびて
追わずによそ見 訪ねくる君

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