見出し画像

【古都奈良への旅/のんびり記事④】~世界もココロもグラデーションでできている~476

こんにちは
八彩理絵子(やいろりえこ)です。

奈良の癒され旅、1日コース
前回、1日コースの午後1『慈光院』についてご紹介しました。

さて今回は『薬師寺』です。

<薬師寺>

~法相宗大本山~

薬師寺は天武天皇が皇后鵜野讃良皇女(うののさらら後の持統天皇)の病気平癒を祈って発願されました。しかし、天武天皇は薬師寺の完成を待たずに崩御され、持統天皇が即位し新都藤原京に薬師が造営されました。その後和同三年(710)の平城還都に伴い、養老二年(718)、平城京右京に移されました。

当時の薬師寺は、天平時代までは天下の四大寺の一つとされ、金堂・東西両塔・大講堂など主要なお堂は裳階がつけられ、その壮麗な姿は「竜宮造り」と呼ばれていました。

しかし、度重なる災害によって諸堂が灰燻に帰し、特に、享禄元年(1528)
の兵火は激しく、金堂、西塔、大講堂などが焼失しました。その中で唯一建時から現存するのが東塔【国宝】です。

昭和42年(1967)高田好胤(たかだこういん)管主により、お写経勧による白鳳伽藍の復興が発願され、金堂、西塔、中門、廻廊、大講堂、食堂を再建。白鳳伽藍の壮麗な美しさがよみがえりました


南門

薬師寺「南門」は、薬師寺の金堂や東西塔が位置する「白鳳伽藍」の南端に設けられた薬師寺の山門です。南門の北側すぐにはそれ以上の規模を持つ真新しい「中門」が建っており、南側から見ると門が二重に建つ形となっています。

空も迫力!!

中門

薬師寺「中門」は、薬師寺「白鳳伽藍」の南端に設けられた「南門」の北側すぐの位置にそびえ立つ立派な門で、薬師寺境内では最大級の門となっています。

現在の中門は、昭和59年(1984年)に再建されたものであり、同じく再建された東西の回廊と一続きとなった美しい佇まいを見せる存在となっています。建築様式としては、東大寺転害門などでも見られる三角形の棟が三つ設けられた「三棟造」と呼ばれるものとなっており、重厚感を感じさせるものにもなっています。


ちょっ!ちょっと怖い

二天王像


二天王像は、いわゆる仁王像とは異なり、重厚な鎧などを身に着けた「武装」したお姿が特徴的な存在となっており、その造立にあたっては中国西安にある「大雁塔」の門垣にある線彫の仁王像や、法隆寺の橘夫人念持仏厨子扉絵などが参考にされたということです。境内の南側で参拝者をお迎えする存在として一度見れば忘れることがないような大変強い印象を与える像となっています。


金堂

奈良時代仏教彫刻の最高傑作の一つとされる薬師三尊像(国宝)を祀る。上層は写経が納められた納経蔵となっている。

薬師三尊像(国宝・白鳳時代)

・中尊は薬師如来
    254.7センチメートル

・左脇侍(向かって右)に日光菩薩(にっこうぼさつ)
 317.3センチメートル
・右脇侍に月光菩薩(がっこうぼさつ)
 315.3センチメートル

独自の古典様式を完成した7 - 8世紀の作品のなかでも最高傑作の一つとして古来名高いものである。


東塔(国宝・白鳳時代)

国宝。現在寺に残る建築のうち、奈良時代(天平年間)に遡る唯一のもの。総高34.1メートル(相輪含む)。日本に現存する江戸時代以前に作られた仏塔としては6番目の高さを誇る。屋根の出が6か所にあり、一見六重の塔に見えるが、下から1・3・5番目の屋根は裳階(もこし)である。

構造的には三重の塔である。仏塔建築としては他に類例のない意匠を示す。塔の先端部の相輪にある青銅製の水煙(すいえん)には飛天像が透かし彫りされており、奈良時代の高い工芸技術を現代に伝えている。

特徴的な姿から、この塔を評してしばしば「凍れる音楽」という表現が用いられる。なお、明治時代に本寺を訪れたアーネスト・フェノロサが、この塔を指して「凍れる音楽」と表現したと説明されることが多いが、複数の文献が「凍れる音楽」をフェノロサの言葉とするのは誤りだと指摘している


西塔

屋根の勾配をゆるくし、また、青に塗った連子窓を設ける点は、創建当時の形式によります。内陣には、中村晋也氏による釈迦八相像のうち、成道(じょうどう)・転法輪(てんぽうりん)・涅槃(ねはん)・文舎利(ぶんしゃり)の果相四組が祭られています。

振り返ってみた

大講堂

多くの学僧が仏教の教学を学んだ古代の伽藍では、金堂よりも講堂が大規模でした。平成15年(2003)に再建され伝統工芸による復元建築としては史上最大級です。本尊は弥勒(やろく)三尊像(・重要文化財・奈良時代)、後堂には仏足石と仏足跡歌碑(共に国宝・奈良時代)を安置し、仏足石の両脇には中村晋也氏による釈迦十大弟子が祀られています。


鐘楼

除夜の鐘を参拝者が撞くことができます。新たな年に向け祈りを捧げる大晦日恒例の行事で、多い年は2千人の参拝者が撞いているそうです。

鐘楼の横でお餅を焼いていて、撞き終えた方から頂けるそうです。鐘を撞いてからお餅を頂くので金持ち(鐘餅)になると大いに喜ばれているそうです。

ご利益ありそう😆

玄奘三蔵院伽藍(げんじょうさんぞういんがらん)

法相宗の始祖である玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)の頂骨を真身舎利(しんじんしゃり)として安置した、玄奘塔を中心とする伽藍である。

 


玄奘三蔵院

岩槻の慈恩寺から玄奘三蔵の分骨をしてお祀りしてある。薬師寺は玄奘三蔵を始祖とする法相宗の寺で、遺徳を顕彰するために岩槻の慈恩寺から玄奘三蔵の分骨された。 その後、1991年に境内北側に玄奘三蔵院を建立され、平山郁夫画伯により、玄奘三蔵求法の旅をたどる「大唐西域壁画」が 大唐西域壁画殿にお祀りしてある。

玄奘三蔵は、孫悟空などの物語で知られていますが、中国唐代に活躍した実在の僧侶です。唐代の訳経僧・鳩摩羅什と共に二大訳聖、あるいは真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とも呼ばれます。

629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教研究を行って645年に経典657部や仏像などを持って帰還しました。持ち帰った経典や論疏657部の中から75部1335巻を翻訳しました。なかでもよく知られているのが『般若心経』の翻訳です。翻訳作業で従来の誤りを正し、法相宗の開祖となりました。また、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著したことでも知られています。

玄奘三蔵の求法の旅の目的は「唯識」の教えを究めることでした。その教えは玄奘三蔵の弟子である慈恩大師により、「法相宗」として大成し、飛鳥時代の道昭僧都などにより日本に伝来しました。

明の時代(14〜17世紀)に書かれた『西遊記』は、玄奘三蔵の命がけのシルクロードの旅を素材とした物語です。 『西遊記』の三蔵法師は玄奘三蔵がモデル。 思想家であり冒険家でもあった玄奘三蔵の伝記を読み解いていくと、今も新たな発見がありそうです。


今日は『薬師寺』についてご紹介しました。

薬師寺という名が表しているように、まさに病気平癒を祈って発願されたのですね。

また『西遊記』のモデルが玄奘三蔵であったことなども興味深いです。


今日はここまでになります。
ここまで読んでいただき
ありがとうございました。


大切なお時間をありがとうございました。

この記事が参加している募集

一度は行きたいあの場所

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?