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Chapter-0 ゲイバー文化九州上陸の背景。 すべては博多駅の移転から。人の流れが途絶えた街に、ゲイバー誕生。

1963年、終戦からの戦後復興に伴う経済成長の真っ只中。東京オリンピック前年というまさにイケイケの時代です。

九州の玄関口である博多駅について「戦後は輸送量の増大などによりホームの不足や駅前広場の混雑、踏切による交通障害などの問題が顕在化し、土地区画整理事業に伴い東南約600mへの移転を計画。」との記録があります。博多駅は祇園から、当時田んぼだらけだった今の場所に移転しました。

それまでの福岡市は、商業の中心地である天神から中洲、川端、呉服町、祇園町(当時の博多駅前)まで、全体が大都市でした。

中洲の玉屋(現在のGate’sビル)、呉服町の大丸(現在は天神に移転)など百貨店が点在し、現在の博多リバレインや博多座、ホテルオークラなどがある場所には巨大な下川端商店街。博多駅までがひとつづきの一大商業エリアだったのです。

現在の地図に当時の旧博多駅を描き加えてみると、天神から駅前(当時)までが一大商業地帯だったことが見えてきます


ところが博多駅の移転により、人の流れが繁華街である天神地区と、ビジネス街である新・博多駅周辺に二分化。その間をつないでいた川端町や祇園町への人の流れが、めっきり減ってしまいました。

そんな、人通りが激減した祇園町の飲み屋街や横丁には、大量の居抜き空き物件ができました。


そこへ、8番館がオープンします。人通りの減ってしまった街にお店を出すなんて、普通に考えれば高リスクです。

しかし今のようにLGBTなどという言葉もなく、ゲイへの偏見の強かった時代に、人目を避けてお店に行きたい人たちにとっては、むしろ好都合だったのではないでしょうか。

1973年の住宅地図に、8番館の名前が見えます。現在大きなビジネスビルやホテル、パチンコ店などが並ぶこのエリアに小さな飲食店や商店がひしめき合っています
祇園町の小さなバーが軒を連ねていたエリアと路地の、現在の様子。大きなビルの立ち並ぶビジネス街となり、当時の面影はありません


また、以前からハッテン場というものは存在していました。公園だったり公衆トイレだったり映画館だったり、さまざまな場所に。

そんな場所がこの辺りにあったため、もともと祇園町はゲイが集まる文化圏だったことが、ゲイバーオープンの後押しになったのかも知れません。

おかあさんは、それ以前は祇園町から徒歩圏内の中洲の深夜喫茶ヴィレッジで働いていました。そこへ、多くのゲイがおかあさん会いたさに集まり始めたことが、8番館オープンへの流れを作ったそうです。

もしかしたら、ヴィレッジ時代の常連客の、近隣のハッテン場での情報交換が、ゲイスタッフが二人も働いている喫茶ヴィレッジに、ゲイのお客さんを集めたのかも知れません。

おかあさんの水商売のキャリアは中洲から


また、8番館オープンに続いてできたゲイバーの多くが、祇園町の8番館周辺に店を構えたことにも、そうした背景があったのではないでしょうか。インターネットなどない時代、ハッテン場での情報交換は、本当に貴重だったのです。

その後、8番館が住吉に移転した理由も、おかあさんによると「住吉に福助って旅館(ハッテン場)ができたんです。旅館の近くならゲイの人が集まりやすいと思って」。
やはりハッテン場ありきなのですね。

住吉2丁目のお店で(提供/コウさん)

8番館が住吉に移転して間もなく、他のゲイバーも住吉に次々と移転し、新規出店するゲイバーも、住吉に集中し始めました。1980年代になると、「第二の祇園町」だった住吉が、祇園町を凌ぐほどの、一大ゲイタウンになります。

2000年頃には、オフィスビルが連立する祇園町にゲイバーはなくなり、住吉、春吉、清川、渡辺通の路地裏という現在のエリアにすべてが移転・出店したようです。

今では住吉、春吉、清川、渡辺通りに多くのゲイバーが点在しています。

九州初のゲイバー8番館は、居を移しながら、徐々に大きく育つゲイタウンの、いつも中心的存在でした。
次回は、いよいよおかあさんの登場です。
では、また来週。

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