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ラブが来る

なんで人は物語をラブストーリーにしたがるのだろう。

もちろん、そもそも流行りの物語にラブストーリーが多すぎるというのもある。

例えば百人一首は短歌が100首もあるのにそのうちの43首が恋の歌らしい。
日本人は1000年以上前から恋バナで盛り上がっていたのだ。

ただ、別に恋愛モノでもない映画や漫画でも、必ずといっていいほどラブストーリーの要素が組み込まれている。

それを「オ!あいつとあいつがくっつくんだ!」と楽しむことができる人はいいが、僕は「うわ…ラブが来た…」と思ってしまう。

単なる応援歌だと思って聞いてたら突然「君を愛してるよ~」とか言い出して「ラブかい!」となることもよくある。

とにかく、この世のラブの数に対してラブストーリーの数が飽和しているのではないか。

そんなに人は恋のために動いているのだろうか。



別に「リア充爆発しろ!」的なTwitter黎明期の価値観を持ち出したいわけではない。

そもそも社会は言うほど恋に満たされていない気がするのだ。

恋のために東京を沈めたりする異常者は別として、ほとんどの人のほとんどの行動は「自分のため」か「社会のため」に為されていると思う。

人生のうちで「たった1人の他人のため」に何かをしている時間なんて1割にも満たないはずだ。

「だからこそラブ欲を満たすためにラブストーリーが見たくなるんだろ」とも言えるが、みんな嘘の話で満たさないと気がすまないくらい恋したくてウズウズしているのだろうか。

もちろん、女芸人よろしく「誰かと付き合いた〜い♡」みたいな体をとる人はいる。

だが彼らは会話に参加しやすくするためにそういうスタンスでいるだけであって、本心から恋愛を求めているようには見えない。



ただ、これはずっと共学に通っていたのに男子校みたいな生活をしていた僕の偏見なのかもしれない。

多くの学生は、好きな人のために学ランを崩し、廊下を走って、合唱コンクールの練習をサボり、休み時間にバスケをしていた。
そのことに僕が気付けていないだけだという可能性もある。



文章にしてみると、そんな気がしてきた。



僕は自分が怒られたくないから第一ボタンを留め、
自分が怪我したくないから廊下を歩き、
自分が嫌われたくないから合唱コンクールを練習し、
自分が疲れたくないから休み時間に国語便覧を読んでいた。

だからこそ違和感を感じることも多かったが、そんな学生は皆恋をしていたと思うと合点がいく。

好きなあの人に注目されたい。
だから学ランの下にパーカーを着ていたのか。
だから廊下走りついでにガラスを割っていたのか。
だから合唱は嫌がる割に練習には来ていたのか。
だからやたらバッシュの音を鳴らしていたのか。

だからこんなにもラブストーリーが共感を呼ぶのか。




思えば、学校の枠を飛び出した社会には、恋を共通言語に持つ人々が溢れていた。

当たり前みたいにバチェラーを楽しむ民族が、服装だけで性癖を決めつける民族が、常識のごとくアクセサリーブランドを知っている民族が、もう避けられない場所までやって来ている。

来る。

ラブが来る。

ラブの嵐が吹き荒れる。

やっぱり社会は恋で満ち溢れていた。
浮気のボーダーすら分かっていない僕が生きていけるはずがない。
それでも、溶け込んでいくしかない。




百人一首の57首の中には、こんな歌も含まれている。

心にも あらでうき世に 
ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな
(これからの人生はつらいことの連続だろうけど、それでもなお生き長らえるのであれば、今日のこの月夜をきっと恋しく思い出すだろう)

これを詠んだ時の三条院は、病で失明寸前だったらしい。

だからこそ肉眼で見える最後の月夜を噛み締めてこの歌を詠んだのだそうだ。



恋に支配されたうき世の中で、僕は学ランを真面目に着ていたあの頃を何度も思い出すだろう。






国語便覧を読んで過ごした昼休みが、こんなところで生かされてしまった…


















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