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「宗教みたい」だといわれる。

いくら互いによくなることを言葉等の媒体で相手に呈示しても、”私の考え方を伝える”その時点で「宗教だ」と言われても無理はない気がしてきました。悲しいことに。

嗚呼。正直私はもっと皆さん、個々人の考え方を持っていても良いような気がしております。

願わくば、互いに自分の考え方を持ったうえで干渉し、相手から受け取るモノ(情報)を意図的でも無意識の範疇でも自分と相手が共に影響※されあう関わり方、過ごし方を生涯を謳歌するレベルに望む。

会話であった場合、”話す”こと選択した時点で”話す相手に影響される”ことを自身が選択したことになる。また、それを認知したうえで発言するとまたひとつ行動に責任を持てるようになる副次的効果もありますが。

※(私が思う)影響とは、情報※をうけとることである。(正しい表現か懸念)

※(ここでいう)情報とは、行動するための因子である。また、因子の定義は個人による。(正しい表現か懸念。語彙力の闇深さを嘆きたい)

正直こういう注釈って読んでいけばわかると思うんだよね。たまに”君の言う〇〇の意味が分からなーいww”っていう奴いるけどせっかちすぎな。もうちょっと心の余裕持って相手の話に耳を傾けると自分のためにもいろいろ楽だと思うよ。


 脱線してしまいました。わたしは、そんなかたとコミュニケーションを取れる日を願っております(悲痛な嘆き)


チャンチャン

ここで終わるとただの嘆きになるので、ところどころを詳細に論理展開しようと思います。


影響というものは、不可逆的で影響されたらそれっきりであります。記憶を改変させたり消去しない限り影響された事実は消えません。従って、例えばコミュニケーションで誹謗中傷を受け取ったとすると”誹謗中傷を受け取った”という影響された事実があるので、相手がいくら謝ろうとも自身についた深い傷は癒えることがないのである。(トラウマ

相手を許す許さないの問題ではなく、もう既にそうであるので自分でもどうしようもできないモノ。悲しいですね。

このような考え方であると、嫌いな人とはあまり影響されたくないので”適切な距離感”というのを自ずと会得できると思います。(私事に誘いはしないけどグループメンバーだったり、見たくもないのでブロックしたり)


 因みに、何事においてもそうでありますが考え方や知識を自分なりにも持てていない人は超高確率で無条件にその物事に詳しい人の考え方と知識を信じます。

※”高確率”で信じると若干ごまかしています。もっと議論、思考の余地あり。

具体例として適切であると信じたいですが、知識において例えばわからないことがあるとインターネットなどで情報を得ます。そしてもちろんわからないことなので無条件にそれを”信じます”。

”ニンジンを縦に切る”とそのサイトに書いてあればほかの切り方を知らなかったりするのでその通りに行う。

もちろんそれでは正しいのか誤りなのか判断する情報がなく危険なので別のサイトの情報等をみて見比べます(クロスチェック)

そして、”無条件に信じる”はコミュニケーションにおいても例外ではないです。

さらに言えば会話においては否定すると相手が不快になったり、体力の使う詳しい説明を求められたりする可能性など様々な選択圧が働いて無難に肯定しがちです。表上では肯定すると面倒ではなさそうです。信じると肯定は別物なので自分が持つ考えというのは忘れずにいたい。

人間は根っからの適応主義なのですね!(性善説)

それを根拠づけるかの如く、実を云うとこの”無条件に信じる”というのは子どもがそうだと思います。

子どもは考え方を持つほどの影響をあまり受けていないので、親にどんな理不尽なふるまい方をされても、子どもはそれを無条件に理にかなっているもの(?)とします。子どもは親から反発するという選択に行き着くことはなく様々な痛みを辛いと結論づけることができません。

「子どもは親を幸せにするために生まれてくる」とほざかれているのはこのためだと推測します。親でなくても良いのです。

従って、”子どもへのふるまい方は十分に気を付ける。”と社会でよく言われている(?)定言命法を以上のことから論理的に導き出せる。





あとがき

どうも。ムロサンです……

初投稿です。まだ書き残したことがありそうでむずむずしますがなんとか言語化できてよかったです。説明してほしいことがあれば気兼ねなくコメントしてくださると私も気づけて大変嬉しゅうございます。今後とも上記のような論理展開と哲学と人間関係と世間体の証明とメンヘラポエマー嘆きを複合させつつ続けていけたらなと思います。すなわち自由にやります。

大前提で、「宗教」と言われることにネガティブな価値観とポジティブな価値観が私には存在していません。

では、何故わざわざ顕在化してまでnoteに書くかというと私が”宗教は怖いものだ”という価値観を受け取っているから。現在私は怖いか怖くないかの結論には至っておりません。ただ、私が宗教のことについて最初に受けっとった価値観がそれであったのも大きく、その価値観を無条件に無自覚で信じきってしまっているところもあるかもしれません。(可用性ヒューリスティック)

これはその物事において考え始めるスタート地点に(悪い)偏りが生じるので一刻もはやく脱っしたいですね。

(これは宗教以外のことにおいてもそうなので、別途記事を用意されたし)







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