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論理学を論破する。(矛盾)

呆れる話しでございますが論理学を論破して矛盾を指摘するということ自体に矛盾が生じています。そして今から論理学で論理学は正しいと論理展開しようと思いますがそれができないので、従って論理学からは論理学に対して何も言うことはできません。読了お疲れ様でした。


なぜわからないか。それは帰納法の根本的な問題である、思考実験のヘンペルのカラス。カラスは黒しかいないと証明することが不可能のように。

母が出してくれる晩御飯が今までずっとカレーだったとしても、今日の晩御飯が「カレーである」か「カレーでないか」なんて(別の晩御飯の可能性がある以上)今までの晩御飯からはわからないように。

あの職業分野は(”全員”でも”ほとんど”でも)ガラの悪い人たちで構成されているというのが「正しい」のか「正しくない」かなんてそうでない人の可能性がある以上わからないように。

生き物をしていて「生き物とはなにか」をわからないように。

私が今まで論理的(主観)に書いてきた啓発の内容が「正しい」のか「正しくない」かなんて私が考える論理からはわからないように。

同様に、今まで生涯やってきた事が「正しかった」のか「正しくなかった」かなんて、死ぬまでわからないように。(おそらく死んでもわからない)

そして、もうどうしようもない事になりますが、同様の由で論という行為が「正しい」か「正しくない」なんて私たちがよくする論というルールの中から解することができない。(わからない)

論理ではない別のモノで判断する必要がある。

追記(2020/09/28)

なけなしにもう1つ例をあげます。言葉の意味を知ろうと相手に頼む時「〇〇ってどういう意味?」と聞きます。この文には意味という言葉が入っています。

しかし「【意味】ってどういう意味?」と尋ねることはない。できません。だから、皆さんは意味という言葉の意味を知らないで使っているはずです。そういう論理になるはずです。

だけどそんなことは起きていない。皆さんは【意味】という言葉を正しく使うことができています。勿論、「意味を知る」のと「言葉を使う」のは言葉が違う限り別物なのですが。何故我々は使えているのか考えると、1つの要因に過ぎませんが意味という言葉を誰かに向けて記したり使うことである決まった法則の反応が返ってきていることを知れている(体感できている)からです。そうです、本当は意味は知らなくても用いることはできます。(≠鶏が先か、卵が先か)。

そして勿論、他者がその言葉を使っている所からもどういう"意味"か帰納的に(法則性が)わかることもできるとおもいます。

因みに、一応何故↑上で「【意味】ってどういう意味」と聞くことが不可能と記したかというと、"意味"という言葉を知らないのでその言葉を使っても知りたいことがわからないからです。

わたしはこれを「体験を通して学ぶ」と呼びたいかもしれません。意味を理解せず用いるという"運動"を行うことで性質を理解していく。それを体験としか形容することができない気がします。つまり言語という論理からだけでは理解することができない。

これが論理学の敗北。つまり論理学からでは論理学そのものを否定も評価も論破もできません。その状態自体がもう敗北です。(そう考えると論破したかもしれない)


̶こ̶の̶論̶理̶学̶(̶学̶問̶)̶か̶ら̶論̶理̶学̶(̶学̶問̶)̶を̶評̶価̶で̶き̶な̶い̶と̶い̶う̶も̶の̶に̶至̶っ̶て̶し̶ま̶っ̶た̶の̶は̶、̶論̶理̶学̶の̶論̶理̶的̶推̶論̶に̶お̶け̶る̶「̶帰̶納̶法̶」̶か̶ら̶導̶き̶出̶し̶た̶”̶答̶え̶"̶(̶帰̶納̶は̶結̶論̶で̶は̶な̶く̶法̶則̶が̶わ̶か̶る̶)̶で̶あ̶る̶の̶で̶、̶仮̶に̶別̶の̶論̶理̶的̶推̶論̶で̶あ̶る̶「̶演̶繹̶」̶と̶い̶う̶の̶を̶用̶い̶る̶の̶な̶ら̶ば̶「̶○̶○̶が̶△̶△̶で̶あ̶っ̶た̶の̶で̶人̶生̶は̶幸̶せ̶で̶し̶た̶」̶「̶論̶理̶学̶で̶実̶際̶人̶類̶が̶幸̶せ̶に̶な̶っ̶て̶い̶る̶の̶だ̶か̶ら̶正̶し̶い̶」̶と̶(̶三̶段̶論̶法̶で̶)̶結̶論̶付̶け̶る̶こ̶と̶は̶可̶能̶で̶あ̶る̶。̶

私は帰納法ではなく演繹的方法で"論理学はわからない"と判断した気がする。(泣き)

※ただし演繹は前提が正しくなければいけない。例えば後者の「論理学で実際人類が幸せになっているのだから正しい」という言い分は、「本当に論理学の力が影響しているのか」「人類とは全ての人を指すのか。そうであれば本当にすべての人は幸せなのだろうか」と疑う。



恐らく、目の前の危機を疑う正常性バイアスもそうであると考える。(バイアス全てそうな気がする)

災害から身を守る非常用道具の準備を推奨されても、会社の非常ベルがなっても、テレビで非難が必要な災害の告知を受け取ったとしても、動きません。

その理由はこのサイトによれば”疑う”ことで行動が束縛されているとのことです。https://no-mark.jp/liveescape/brainpower/bias.html (そしてその”疑う”理由は、避難訓練やイタズラ、誤報等の”似非(?)”を経験しているからとのこと。)

これも論理によって論理(?)を定義づけることができません。

ここまで来ると論理というものはなんのためにあるのかと疑い始めてしまう所存です。行動を促進させるための手段?

<h1>+余談</h1>

<p>私が中高生の頃の保険か体育かのなにかの授業にて、一人でも災害から救うためについて考えたことがあります。<br>

そこでやはり被災に備えることが重要ってなるのですが、では”被災したことがない人が非常用道具の準備を行うためにはどうすれば良いか”
というところまで考えてしまっていました。<br>
当時はわからなくてわからなくて他者にも聞いてみましたが、ある人からはどうあがいても災害を経験しないと無理ですよと言われました。<br>
かなしいですね。<br>
しかし、今の私なら答えられます。学校の先生が生徒たちに巧みなスキルで話を聞いてもらうよう促すが如く、被災に備えたい人に
なにか行動をかきたてられる因子を提供できれば良いと考えています。<br>
(因みに人はそれを「宗教だ」とか「洗脳だ」と言ったりもします。「貴方のおかげで心を動かされた」
とも言います。
人は誰かに影響してなんぼだということを私が嘆いている初投稿の記事もあるので良ければ。↓</p>

追記(09/21 ):一定の概念の中で何か新しい概念を見つける、創造する行為はデザインをする行為だと思えます。例えば文字の置き方で機能が異なるプログラミングであったり、色や線の使い方等で表現出来る絵であったりあらゆるもの全て一定のルールの中で創造できる。だからプログラミングを実施するとき文字の置き方や文字そのものを学ばなければいけない。

一定のルールを学ぶというのは容易なものではなく1つの知識ではどうにかなら物も多く、現在主流となっている学ぶ方法としては「チュートリアル」をこなすという学び方がよく見受けられ気がします。

物をデザインする際に車輪の再開発をするような行為は避けられている。用いる側に立てば既に作られた有用なもの(便利なものとか)を開発する行為は一般的に宜しくないとされる。

チュートリアル通りにものをこなしてデザインする行為。それは正に車輪の再開発する行為でありとても億劫に思える。これらは学びに着目したがそれに限らず

従って、論理的に導き出したこの論も先人の方と被っていることがあるだろうし、誰かの論と被ることもあるであろう。そんな"嫌な"状態を避けるには別の概念でクリエイティブするしかない。勿論概念自体をクリエイティブできれば万々歳です。しかし上記に書いた通りクリエイティブは一定の概念でしか行えないので、そのルールから逸脱する方法を考えましょう。(いや、考えても無理かもしれない)

クリエイティブを行える概念の中でも特に強力なのが論理学や哲学なのですがそれらを用いずに"何かを導きだす"というのはほぼ不可能なのかもしれませんね。


余談ですが私が実際に様々なチュートリアルを実施してこのネガティブな気持ちをどうにかできそうなので別途記事をあげ論理を展開したい。私のメモ記述として「○○開発者にならない限り○○消費者になり学習のインプット範囲にフィルターをかける」と書いときます。


ところで、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの論理哲学論考をみるべきです。
形而上学や倫理学などの哲学という仮想のものを考える無意味さを説いています。
なのでこの本を読んでも何もおきないし、論理哲学論考をみるべきではありません。



あとがき

どうも。オモムロデス……

二回目です。また後書きが長くなりそうでございます。上記に書いてきたことを自力で気づけてしまう頃になると、体系的に根っからそういうものだと理解できてしまうので、なんだか、もう、いろいろ不安定に思えてきたり自分が不安定になったりと自分という実態を保とうとすることすら億劫になってきますが、天上にいる哲学者等の彼らのようにはならないぞっと腕の見せ所でございます。

因みに私は本文前半にて、わかり易く「正しい」か「正しくない」かと記述しましたが、何も二元論であることに決して限らないと感じます。そして、今「わかり易い」と記述しましたが、何も”読者全てにわかり易い表現ができている”とは私自身思えていないので、その旨を伝えるコメントや補足をを求めるコメント等々してくださると私も気づくことができて大変嬉しゅうございます。良かったら連絡取りあいましょう。

最後に、そんなわからないがいっぱいある全てにどこまで耐えることができるでしょうか。願わくば、わからないことがいっぱいで心が不安定になってしまうことを最低でも認知している人、そして互いにそれを労おうと人を愛でる(慈しむ)ことができる、そんな方々と寄り添いあいたいと思っていることを嘆くムロサンでございマス……

また、「わからないことは当たり前。重要なのはわからないことに取り組む姿勢」の記事を上げたいと思います。タイトル通りなのですけれどこれではわからない方向けに論理展開する記事になりますね。

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