推しが燃えたとて
宇佐見りん『推し、燃ゆ』(河出書房新社)
絶妙な風合いのピンクに浮かぶ女の子が可愛い。こういう可愛い本が文学賞を獲り、立派な賞名を冠して、なおも可愛い姿で書店に並ぶのは本当に良い。私の思春期を、ドストエフスキーの名訳(『罪と罰』の解説は本当に面白くてそれだけでも読みたい)で支えて下さった亀山郁夫氏の推薦にも心が躍った。氏いわく、ドストエフスキーが20代半ばで書いた初期作品のハチャメチャさとも重なり合う――そうかそうか、はちゃめちゃな人間の話はいつ読んだって素敵なものだからね、ということでわくわく臨んだ本作。
面白くサクサク読めた。でも、読後に残された感情の最前列は「疎外感」だったと思う。推すってこういうことなのか!という驚きはない。私の人生いつも、生粋の「推す人」たちに囲まれていたから。そう、これ、こういうことなんだよねという共感もない。好きな作家、アーティスト、漫画、無いとは言わない。でも彼らが燃えたくらいでは私、昼休みも潰れやしない。あるいは推しが苦慮の末に死を選んでも、数日ひぃひぃ泣いたのち、ぴよっと忘れて生きていくと思う。これを人はたぶん、推しと呼ばない。
私は、推せたことがない。さらに性質が悪いことに、ずっとそれがコンプレックスだ。好きなものを一心不乱に追いかけて、無駄にも思える程の時間やお金を費やせる人の盲目が、いつも羨ましかった。それは自分自身の外に「何か」を見いだしている行為で、私の中にある「何者かになりたい」エゴイスティックな衝動から一番遠いことのように思えたから。羨むくらいなら、まず少しでもピンときたものにリソースをつっこんでみたら良いんだけど、自分の生活より他人の創作物を優先することがどうしてもできない。
先日「映画を早送りで観る人たち」の出現……という記事をよんだ。
大学生の彼らは趣味や娯楽について、てっとり早く、短時間で、「何かをモノにしたい」「何かのエキスパートになりたい」と思っているという。彼らは、何かについてとても詳しいオタクに“憧れている”のだそうだ。ところが、彼らは「回り道」を嫌う。【中略】なぜなら、駄作を観ている時間は彼らにとって「無駄」だから。無駄な時間をすごすこと、つまり「コスパが悪い」ことを、とても恐れているから。
Netflixの早送り機能をしばしば活用している身には耳が痛い話だった。「この分野にちょっと詳しくなりたい」「これは有名だし抑えておかないと」という気持ちで見ているとどうしても、コスパ意識が頭をよぎる。なるべく短い時間で、なるべくたくさんのインプットを。でもそんな風に浅はかにインプットされたものを、推せる日はこない。
『推し、燃ゆ』はえげつない解像度で「推す人」を描く。同じく「推す人」には、胸に迫る話だろう。「推さない人」には、啓蒙の書になるかもしれない。でも「推せない」私には、呼ばれていないパーティの話みたいだった。自分自身よりも大切なものをその胸に抱きしめている、憧れの人たちが開く素敵で苦しいパーティ。私が呼ばれることはきっとこれからも無い。私がそう選んだからなんだけど、でもこうやってまざまざと彼らの生きざまを目の当たりにすると、やっぱり羨ましくなる日もある。
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