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琴古主

 午前零時の中華料理店「蓬莱」は、すでに閉店をむかえた。最後に残った私が出入り扉、窓の施錠もした。それなのに、どうして。窓の席に少年が座っているのだろうか。隠れていたのか。それはない。戸締りをしたあとにモップがけをしたが、人が隠れている気配すらなかった。もし隠れていたとしても、冷蔵庫の中を確認している短い間に、音もなく席に着くのは不可能だ。「霊」の一文字が頭をかすめる。とっさに厨房のかげに隠れた。どうせCG、と小馬鹿に観ていたいつかの心霊特番の投稿動画に似た状況が、現実、今、自分の身におこっている。背筋の骨が冷える。足がすくむなんて、生まれて初めてだ。今朝、店の神棚をクイックルワイパーなんかで掃除したせいだろうか。滑るように床を移動し、戸棚から塩が入った壺を取り出す。「霊には塩が効く」これも特番で聞いた覚えがある。
 シンクのかげから少年を覗き見る。席に座ったままの少年は、私に気づいていないのか、見向きもせず、目線をまっすぐにどこかを見つめている。少年は店長の親戚でもなければ、常連客の子供でもない。まったく見知らぬ子供であるうえに、その容貌はどこか人間離れしたところがある。
 白熱電球の明かりをうける髪は冬毛のウサギのように真っ白だった。伏し目がちの目蓋から翡翠のようなアイスグリーンが覗いている。首詰めの白いシルクのチャイナ服が、なおさら少年を現実から隔絶させていた。そして、膝には……。
 そのとき、はっと息をのんだ。私の琴が少年の膝の上にある。牡丹の螺鈿は間違えない。二階の部屋に置いたはずなのに。いつのまに盗んだ。
 少年は凶器らしいものは持っている気配はない。白樺の細枝のようなあの体躯なら、飛びかかれば琴を取り返せる。つま先に力を込めて、飛び出そうとしたとき。頭のつむじあたりに何かがかすった。すかさず、床に伏せた。顔を上げると、宙に白い円盤が浮いていて、それが皿だとわかるに数秒を要した。皿はふわふわと少年の席に接近し、コトリと卓上に着地した。皿には、青椒肉絲(ちんじゃおろーすー)の残りがのっている。少年はケースから箸を取り、ちびりちびりと青椒肉絲を口に運ぶ。黙々と箸と咀嚼に集中する様子に、不覚にも、冷えたままじゃ美味しくないんじゃないか、と思うほど拍子抜けしてしまった。少年はペロリと青椒肉絲を平らげた。水差しをコップに傾けると、一杯の水を口に含み、やがて空気に溶けるように消えた。
 おそるおそる、席に近づき手をかざす。けれど、指の間は空気が抜けるだけだ。卓上にはソースがこびりついた皿と、半分以上の水が残るコップが。椅子には螺鈿細工が散りばめられた琴がひとつ、夜の浜辺に打つ寄せられた海ほたるのようなあやしい輝きを放っていた。

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