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是々

「壺を殺処分してください」
一瞬、耳を疑った。婦人は即座に紫の風呂敷を受付カウンターに広げると、本当に壺があらわれた。龍が描かれた青磁の壺は素人目でも、たいそうな値がつくように思われた。
「しかし、ここは保健所ですよ。犬猫の処分なら、お話をうかがわなくてはなりませんが、ゴミは受けつけかねます」
けれど、私が言い終わらぬうちに婦人は
「私にもどうしたら良いのかわからないんです」
と、声をあげた。鼻水がかった声は、いつしか涙声に変わる予感がして、とりあえず面談室に案内した。

ごめんなさい、急に取り乱して。お茶まで用意させてしまって、おいしかったです。
では、この壺をどうして殺してほしいのか、お話いたします。
一見、美しい青磁器の壺ですが「ゼゼ」という化け物が中にいます。漢字では「是々」と書いて……。馬鹿にしてません。私は本気です。信じてくれなくてもいいですから最後まで話を聞いてください。壺は私の家が代々受け継いできました。豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に、持ち帰ってきた品だと伝えられています。朝鮮では、この壺は蟲毒という呪術に使われていたそうです。その呪術はムカデや蛇に蛙といった生き物を壺の中で共食いさせて毒蟲を生成するものらしく、その毒蟲が壺に入ったまま渡ってきたのです。代々、壺と一緒にこの毒蟲を是々と名付け世話をしてまいりました。
壺を覗いてみても、暗くて姿は見えません。是々は自ら攻撃しません。餌を与えるため蓋を開けますが、逃げようともしません。小屋で暮らすのに慣れた犬のように壺に居ついています。是々は壺を鳴らして意思表示をします。好物の鼠を与えた日は、激しく陶器の内側を鳴らします。かまってほしい時は、人を引き付けるような綺麗な、例えるなら水琴窟の水の滴りような音色を鳴らしますし。きっとご先祖様もそんな様子がいじらしくて可愛がってきたのでしょう。壺と一緒に鳴き音の意味や好物が記された書物も伝わっていますから。
私の祖父も母も是々をたいそう可愛がっていました。祖父なんかは寝るときも枕元に置いて、是々とおしゃべりをしていたぐらい。けれど、私はどうにも是々を受け入れ難かった。姿がわからない生き物に愛着を抱けますか。それに壺ですよ。幼い頃、祖父に餌のやり方を膝の上で教えてもらうとき、祖父は目を細めて笑っていましたが、私はその行為が意味不明でしたし、そんな家族も是々も不気味でした。
親も何かにつけて是々を拠り所にしすぎていましたし、私にもそれを強要しました。拾った子猫を持ち帰ってきたときも
「うちには是々がいるから戻しなさい」
 と言われました。それこそ意味がわかりません。子供ながらに、柔らかい温もりよりも芯から冷たい壺が大事なのかと思いました。泣きわめいて、結局子猫は保健所に突き出されました。中学の時、失恋して気を落としていたときも
「大丈夫。あなたには是々がいるのだから」
 と、濡れた頬に壺を押し付けられ、背筋に虫が這ったような寒気を覚えました。
 是々はあなたの味方。さみしくなんかない。家を出ていく際もそうやって壺を押し付けられました。けれど、私はもう壺の蟲を心の支えにしなければならない、あまりにもむなしい生活を断ち切りたかった。先ほど、ゴミだとおっしゃいましたね。ここに来る前日に、隣町のゴミ捨て場に壺を置きました。けれど、どういうわけか今朝、家の扉の前に壺がありました。まるで、山に捨てられた犬が匂いを追って戻ってきたように。そのとき、もう頼るところは保健所しかないと思いました。
 お願いです。どうか是々を殺処分してください。

 婦人は椅子から立ち上がると、小走りで部屋を出ていった。忘れずにバッグも持って行ったから、きっと逃げたのだろう。机に置いてけぼりにされた壺を見た。青磁色の龍の瞳が寂しさをたたえているように感じた。
 そのとき、壺の内側から音が鳴り響いた。爪で陶器を叩いているのか。仏壇のお鈴よりも澄みきった音は空気を小刻みに震わせた。その音色は、じゃあね、と軽く手を振って去っていく飼い主の背中に呼びかける犬の遠吠えと似ていた。


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