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2024.6.6 伊計島

 3時間くらいしか寝ていないが、カーテンから漏れる陽光が眩しくて目が覚めたから、起きて、ずっと食べずに置いてあった土産物の博多ラーメンを湯がいて食べた。玉ねぎともやし、ニラ、キムチを一緒に炒めて、載せた。刻み玉ねぎも。
 それから再び寝た。
 それから再び目を覚ますととなりに嫁が寝ていた。朝早くに美容室へ出かけたのもあり、眠かったのだろう。髪が黒くなって、おまけにこけしのようなヘアスタイルになっていて、寝顔がかわいくて笑ってしまった。
 僕は僕で、起き出し、海へ。近頃は出来るだけ時間の在る時は海に行くようにしている。昨日は昨日で、日中嫁と庭仕事をしたので、土のエネルギーによる快い倦怠感を得られた。このところ時間割を決めて動くようにしていることで、海へ行ったり土に触れたりという時間を一定時間取れている実感もあり、思うのだが、やはり自然のパワーはすごい。身体に溜まった邪気を吸い取ってくれる、というのはどうやら本当らしい。決まって、快い倦怠が訪れるのだ。もちろん、日によってはそんな暇が無い時もあるのだが、出来るだけ自然に触れる時間を取るようにしている。以前は、一日をデザインするという視点がなかったので、一日は一個の時間だという感覚があった。しかし、時間割をたててみると、一日は幾つにも切り分けられ、一日の中にもまた幾つもの"日" があるのを感じている。一日一生。だから、漠然とした不安感や、時間がない、海に行く時間、庭に出る時間なんかない、という感覚が減った気がする。僕は決め事は基本嫌いな人間だが、決め事が嫌いだからこそ、決めといた方が、決めを守らないという選択肢も増える分楽だ。決まりが無ければ、決まりを破るという快もまたない。音楽もある意味ではそうだ。リズムなんかはやっぱり、一番重要なものの一つだと僕は考えている。リズムは、ずっと刻まねばならない、どこまでも忙しなく追いかけてくる悪魔なんかではない。リズムは、柱だ。柱を打つことによってこそ、打っていない場所の"余白"が生じる。その余白の中に、音楽における"遊び" が生まれると思っている。従って、レッスンではリズムに関してかなりしつこくやる。
 話がそれた。そうそう、自然に触れる時間を最近大事にしている。僕という存在も自然。いや、というよりも、僕の"身体" は僕に宿る魂、僕の本質的な部分から見て"最も近い外側" だと言える。
 "最も近い外側" なんだか不思議でいい言い回しが出て来た。海を眺めるように、最も近い外側である、身体の波を聞く。波がゆきつ戻りつつするように、最も近い外側である身体も呼吸をする。身近な自然。
 海や土に触れる時は、そこに魂を還してくれる。
 今日は伊計島に行ったんだけど、まず伊計神社様に挨拶をして、いつもの浜へ。勝手に"書斎浜" と呼んだりしてる。時々机を持って行って、大きな珊瑚を椅子にしてこの浜でモノを書いたりするから。
 波打ち際で、海水に足をつけてしばし佇む。沖からは怒涛が静かに聞こえ、少し怖い。
 そうそう、この静かな怒涛がインスピレーションをくれる。島の集落の果てにゆくと、穏やかな浜の音色の中に、静かに断崖に打ちつける波、海の唸りが聞こえてくる。ハッキリと聞こえるのではなく、路地裏にそっと、入り込んでくるのだ。それは世界の外への呼び声のように感じられて、恐怖、とはまた違った"怖さ" を感じさせる。このイメージは、以前この島のイメージを土台に作った我がユニットのアルバム、"urizum" の中にも響いている。
 https://music.apple.com/jp/album/ikei/1745872994?i=1745872998

 https://music.apple.com/jp/album/umi-no-meidou/1745872994?i=1745873304

https://music.apple.com/jp/album/hoshifuru-shima-no-rojiura-de/1745872994?i=1745873305


 集落を歩くのも好きだ。静かだが、さまざまな音が聞こえてくる。ほったらかしにされたモノたちや、以前民家があったであろう、石垣に囲まれた敷地からは耳には聞こえない音が聞こえる。そういう音、耳には聞こえない音、を聞くために僕は"言葉の写真" を撮る。尾崎放哉の自由律俳句からインスパイアされて、金沢に居る時からやっている習慣だ。この習慣を重ねるに連れて、"視る" ということが限りなく"聞く" ことに近いということを実感し、"聞く" ということが限りなく相手を感じる、己が内に招き入れる、"かむかふ" ということに近いと実感している。
 僕はいつも街の音を聞いているから、静けさを欲する。ただ佇むのが好きだ。考えてみれば昔からで、小学校の頃からよく、1人で自転車にまたがり家の近所の竹の子山に行き、薮に入りいつまでも座っていたりした。何をするわけでもなく。
 今もそれは変わらない。ただ佇むことの楽しさを感じている。茨木のり子さんの詩に、"独りは賑やか" みたいなフレーズがあった気がするが、そんな感じかもしれない。
 伊計集落の路地裏散歩の果てに、絶対足を止めてしまう場所がある。何でもない場所と言えば何でも無い場所なのだが、集落の果てに位置する森に連なる一角がある。石垣がその場所を囲っているのを見ると、かつて誰かの家があったのだろうか。今は建物の跡は無く、草が生い茂っている。
 石垣が囲うのとユニゾンするように、フクギが並んでおり、かつて門であった場所から向こうを覗くと、バナナの樹が2本くらい立っている。とてもハリのあるバナナの樹で、不思議なくらい静かな空間に立つ姿が畏ろしい。バナナの更に後ろに、この場所を守っているようなガジュマルの樹が見える。薄暗い中、バナナとガジュマルの樹は、この空間に降って方向感覚や重力を失った光の粒子の中から仄かに笑う。"空き地" なのだが、空間が満ちていて、少し怖いくらいなのだ。ここに来ると、必ず足を止める。手を合わせて、しばしその空間の前に佇む。こんな場所が、沖縄にはちょくちょく在る。
 それから、車に戻り、島を一周して帰った。
 
 今日という日はまだ終わらないが、今日も快い倦怠感を身に纏っている。


こんなかわいい鶏ちゃんもいます
先日、飼い主さんが抱っこさせてくれたました


 下の歌詞は、上で紹介したアルバムの最後にエンドロール的なイメージで入れた曲の歌詞。伊計島からインスピレーションを受けて書いた詩。




"星ふる島の路地裏で"

マヤー振り向く細路地の裏
自ら森をつくり森に囲まれ生きた人人
今は無き森の鼓動が路地裏に憩う

木陰に浸された路地裏は水の中
集落の果てに一人佇めば
海原の
呼び声のカケラが転がってくる
、、、、
この世界の外の音
時が噴出し凝固した
バサナイの木陰
鳥が運んでくる黄泉の音

今はただ暮らしの面影が
とぐろまく風と談笑するばかり
星ふる夜には小皿に箸触れる
音が君を誘うだろう




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