『五百円玉と替え玉一玉無料の豚骨ラーメン』

『五百円玉と替え玉一玉無料の豚骨ラーメン』

「ラーメン一つ」
財布の中身が寂しい男は“安い”これだけの理由で、一杯五百円の豚骨ラーメンを頼んだ。
ホールスタッフのおばさんが「カウンター席ラーメン一つ」と注文を繰り返した。
眼鏡をかけた厨房のおじさんは慣れた手つきで早々と作りあげた。
久しぶりの外食だから、もう少し贅沢な物を食べたかったが、財布の中身が寂しいのだから仕方がない。

目の前に純白のスープと細麺の豚骨ラーメンが現れた。
豚骨スープの濃厚な香りが食欲を掻き立てられ、少しだけ気持ちが明かるくなってきた。
すぐに食べたい気持ちを押さえて、テーブルにある無料トッピングを見た。
紅生姜、辛子高菜、メタリックの容器に入っている胡麻
この無料トッピングを加えて自分なりのカスタマイズした豚骨ラーメンを作るらしい。
財布の中身が寂しい男は、“無料”という言葉に弱くなっている。
この無料トッピングが、何だかとてもありがたく優しい物に見えた。

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まずは紅生姜を入れる事にした。
豚骨ラーメンのトッピングと言ったら、紅生姜は欠かせない
“無料”と思うと沢山入れたくなる。
次々と紅生姜をラーメンに入れてしまった。
入れ過ぎかなと思った時には、もう遅かった。
大量の紅生姜が純白な豚骨スープに溶けて、少しずつ紅く染まっていき、スープの色は純白からピンク色に変わっている。
次は「超辛い産直高菜、少量で味が良く…」と書いてある辛子高菜を入れてしまった。
やっぱり“無料”なので沢山入れたくなる。
大量の辛子高菜がスープに溶けると、スープは濃いオレンジ色に染まっていく。
紅生姜でピンク色に染まったスープに辛子高菜の濃いオレンジ色が加わり、もう何だかわからない色になっているが、不思議に綺麗だと思えた。
最後は細長いメタリックの容器に入っている胡麻を投入する。
これも“無料”だから沢山かけたくなってしまった。
容器が詰まっているのか、少しずつしか出てこない。
こういう時は容器を回しながら出すと良く出ると聞いたのを思い出して、とりあえず容器を回しながら出してみたら、詰まりが取れたのか凄い勢いで胡麻が出てきた。
紅生姜のピンクと辛子高菜の濃いオレンジに染まったラーメンは、大量の胡麻に覆われて純白の豚骨ラーメンとは程遠い見た目になってしまった
これでは豚骨ラーメンではなく、紅生姜辛子高菜胡麻ラーメンだ。
“無料”の言葉に釣られてトッピングを入れ過ぎて、完全に失敗した。
「お金がないと気持ちまで貧しくなるのか」と財布の中身が寂しい男は暗い気持ちになってしまった。

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どんな味になっているか想像できないが、とりあえず食べてみる。
辛子高菜の辛さが強烈に主張してきた。
この辛さが良い刺激になり、妙に癖になる辛さだ。続けて何口もスープを飲んでしまった。
次は細麺を紅生姜と胡麻を絡めて食べてみる。
細麺と紅生姜と胡麻が絶妙に絡み合って丁度良い歯応えになっている。
“無料”の言葉に釣られて入れ過ぎたと思っていたトッピングが、不思議なくらい上手くまとまり、あっと言う間に食べてしまいスープも飲み干してしまいそうになっていた
忘れてはいけない、この店の一番の売りは替え玉一玉“無料”なのだ。
替え玉のためのスープを残しておかないといけない。
飲み干す前に気づいて良かった。

「替え玉一つ」と注文する。
ホールスタッフのおばさんが「カウンター席替え玉一つ」と注文を繰り返す。
替え玉が茹で上がるまで、少しだけ入っているチャーシューを食べる事にした。
大量のトッピングに下に隠れていたが、チャーシューが思ったよりも多めに入っていた。
これはラッキーと思いながら食べていると、替え玉がやってきた。
まずは替え玉を少しだけ残っている豚骨スープの中に入れて絡めた。
また“無料”のトッピングを追加する事にした。
今度は少しだけにしようと思ったけど、また“無料” だからと沢山入れてしまった。
もう豚骨ラーメンではなく、無料トッピングの紅生姜、辛子高菜、胡麻と細麺を絡めて食べるつけ麺のようになっている。
何だか貧乏くさい食べ方になってしまったが、これが予想以上に美味しい。
無料のトッピングが良い仕事をしている。
僅かに残っている豚骨スープも負けずに頑張っている。
細麺を無料のトッピングを絡めながら一気に食べて、豚骨スープも最後まで飲み干した。
胃袋が満たされたら、気持ちまで満たされてハッピーな気持ちになってきた。
食後の余韻に浸っていると、丁度良いタイミングでホールスタッフのおばさんが空になったコップに水を注いでくれた。
コップの水を飲むと、豚骨の油と無料トッピングの濃厚な味を洗い流してくれ、とても爽やか気分にしてくれた。

食べ終わったので、財布を取り出して会計をすませる事にした。
千円札が二枚入っていると思っていたら一枚しかなかった。
男は自分の財布の中身が寂しい事を思い出した。
ひとまず一枚だけの千円札を渡して会計を済ませて、お釣の五百円を受け取った。
ホールスタッフのおばさんは「美味しかったですか?」と聞いてきたので「美味しかったです」と答える。厨房の眼鏡をかけたおじさんが「ありがとうございました」と答えるのではなく、空になった容器を下げながら笑顔で会釈をした。
何気ないやり取りだが、またハッピーな気持ちになった。
財布の中身が寂しい男は、軽やかな足取りで店を出る。
日が傾いて赤くなった空の夕焼けが、とても眩しく見えた。

駅に向かったら、10人ぐらいの人だかりが見えた。
中心には大道芸人がいる。台の上に立って剣を使ったジャグリングを見せている。
「これからが最大の見せ場です」と言って脇に置いてあったスーツケースから板と円柱を取り出した。これからのこの板の上に立って、剣のジャグリングをすると説明をした。
大道芸人は芸を始める前に「この技をできるのは日本で僕だけです。今日見ないと二度と見れないです」と帰ろうとする客を引き留める。
「注目してくれるのは嬉しいのですが、少しお客様の輪が縦に広がって通行する方々の妨げになっています。もう少し僕に近づいてください。でもソーシャルディスタンスがありますので足元の円よりは近づかないでください」
そんな事を言っているが、言うほどに観客は集まっていないし、新型コロナウイルスの影響なのか、金曜の夜なのに通行人は少なくて、特に通行の妨げにはなっていないと思う。
「かくし芸大会のマチャアキが同じ事をやっていた」と赤ん坊を抱いている若い女性が言うと、旦那と思われる男が笑顔で頷く。まだ若い感じなのに、昔の事を良く知っているなと思った。そういえば正月にかくし芸大会がなくなってから何年たつかな?

危なっかしい感じはしたが、大道芸人は円柱の上の揺れる板に立ち上がり、剣を使ったジャグリングも見事に成功させた。
やり切った表情の大道芸人に、15人ぐらいに増えた観客は拍手で答えた。
不思議な一体感がこの空間に広がっている。
「外出自粛になり、僕にとっては四か月ぶりのステージです。僕には休業補償もありません。できればお札をいれてくれると助かります」と必死に訴える言葉には胸に迫る物があった。
その思いが伝わったのか、シルクハットを持って近づいてくる大道芸人に、観客は笑顔で千円札を入れ始めた。
赤ん坊を抱いている若い女性は旦那と思われる男性と相談してから五千円札をシルクハットに入れた。「ありがとうございます。千円札だけでなく、違う種類の紙も大歓迎ですよ」と笑顔で話す大道芸人が目の前に来た。
ただでさえお金を入れないで帰るのが難しい流れなのに、さらにハードルを上げられてしまった。

財布の中身の寂しい男は、わかっているけど財布を覗いてみた。
五千円札どころか千円札も入っていない。
さっき純白のスープと細麺の豚骨ラーメンではなく、 “無料”のトッピング麺紅生姜辛子高菜胡麻ラーメンと紅生姜、辛子高菜、胡麻と細麺を絡めて食べるつけ麺を食べた後にお釣として受け取った五百円玉しか入っていない。
この五百円玉を出してしまえば、財布の中は寂しいどころか空っぽになってしまう。
「さあ、どうする」
思い出した駅の改札から出る時にSuicaのチャージ金額が足りなくて出られなくなってしまい、慌てて千円だけチャージしたから、帰りの電車代は何とかなる。
目の前の大道芸人が笑顔で待っている。
何度も財布の中身を確認しながら迷ったが、この五百円玉は節約するよりも、あのシルクハットに入れた方が気分が良くなると思った。
財布から五百円玉を取り出して、シルクハットの中へ入れた。
大道芸人は深々と頭を下げた。
「五百円玉でも、本当にありがたいです。今日は皆さんのおかげで救われました」
少ない金額を大声で言われた事は少しだけ恥ずかしかったが、喜んでもらえたようなので良かったのだと思う事にした。
財布の中身が寂しい男は満たされた気持ちになり、駅の改札へ歩いていった。

大道芸人はスーツケースに道具を片付けながら、今日のおひねりを確認した。観客は少なかったが、思った以上に多く入っている。
大道芸人はおひねりを手に持ったまま近くのコンビニエンスストアに入り、先送りしていた支払いをすませる事にした。外国人の店員が慣れた手つき請求書のバーコードを読み取り、伝えられた金額を支払ったら、手元に残ったのはお釣として渡された五十円玉一枚だけだった。
今日のおひねりで何か美味しい物を食べられるのかもしれないと思っていたけど、これでは何も食べる事ができない。重い足取りでコンビニエンストアの外に出た。
ズボンの右ポケットの中に何か入っている。手を入れて中を確認したら、五百円玉が一枚入っていた。そうだ最後の男性の観客が財布も中を何回も覗きこんでから五百円玉を入れてくれた事を思い出した。もしかしたら、あの男性にとってはなけなしの五百円玉だったから迷っていたのかもしれない。

近くに五百円で食べられる豚骨ラーメンの店があった事を思い出した。
替え玉一玉無料だから、食べればお腹は一杯になるはずだ。
「ラーメン一つ」と注文する。
ホールスタッフのおばさんが「カウンター席ラーメン一つ」と注文を繰り返した。
眼鏡をかけた厨房のおじさんは慣れた手つきで早々と作りあげた。
久しぶりの外食だから、もう少し贅沢な物を食べたかったが仕方がない。
“無料”のトッピングは入れ過ぎなかったから、久しぶりの豚骨ラーメンをしっかり味わえた。替え玉もあっと言う間に食べて、スープを飲み干した。
「味付け玉子五十円」が目に入ってきた。
コンビニエンスストアのお釣の五十円玉で味付け玉子を注文する。
少ししょっぱいと思うが、疲れた体にはこれぐらいの塩加減が良いと思った。
丁度良いタイミングでホールスタッフのおばさんが空になったコップに水を注いでくれた。
コップの水を飲むと、豚骨ラーメンと味付け玉子の濃厚な味を洗い流してくれ、とても爽やか気分にしてくれた。
すっかり満腹になり、お腹が満たされたから気持ちも満たされている。
「美味しかったですか?」と聞いてきたので「美味しかったです」と答えた。
厨房の眼鏡をかけたおじさんが「ありがとうございました」と答えるのではなく、空になった容器を下げながら笑顔で会釈をした。
何気ないやり取りだが、またハッピーな気持ちになった。
財布の中身は寂しいが、大道芸人は軽やかな足取りで店を出る。
日が暮れて暗くなった空の街の灯かりが、とても眩しく見えた。


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