私が、父の娘だから。私が、世界を変えたい。

「書きたい」と願うほど、キーボードを叩く手が止まる。まして「世界を変えたい」なんて壮大な感情を書き残したい願いには、余計手がすくむ。

だけど徒然なるままに願いを書き残してみようかと、今日は少しばかり完璧を諦めてみようかと、昨晩の下書きを掘り起こしてみる。


2ヶ月ぶりに親へ連絡をすることにした。

仲が悪い訳ではない。向こうが電話か手紙でしか連絡をしないタイプだから、よっぽどのことがない限り連絡をせねばとならないのだ。

ここ2ヶ月、その連絡せねばなことは特になかった。今も特にない。でも世の中の状況的に実家へ帰省することは辞めたので、その代わりといってはなんだけど、お盆のご挨拶的な礼儀として電話くらいはしようと思っていた。

「もしもし?…こんばんは…どうかした?」

第一声で絶対言われると予想したもの通りで少し気恥ずかしくもなったのだけど、本来言いたかったことを伝えることにした。

「あ、こんばんは。特になにもないけど、お盆のご挨拶、です」

「それはいい心がけだ」

いつも連絡を取らない期間の長い私たちの電話は、少しだけ他人行儀な時間から始まる。

「こっちは寒いよ。今は…違う、日付じゃなくて温度。えーとね、23度だから、外は20度くらいかな」

温度じゃなくて日付を伝えた後ろの声は、母だ。いつも通りのやり取りに実家の畳の匂いを思い出す。

「東京も寒いよ」

どこかのビジネストークか!とツッコミを入れたくなる天気ばなしの次は、ワクチン接種の話になった。

親は2人とも、熱やら関節の痛みやら副反応は出たらしいけれど、2回の接種を無事に終えたらしい。

「市内の薬局で解熱剤が売り切れてて、子供用の解熱剤を買うしかなかった人もいるみたいよ」

「そうなんだ」

近々訪れるワクチン1回目に備えて、明日薬局に解熱剤を見に行くことにした。東京も品薄だったらどうしよう。

そうこう考えているうちに、話はオリンピックのことになった。

「私はオリンピック見なかったな。始まるまでの色々でもう疲れた感じというか、そういう感覚だった」

「旧態だな」

オリンピック関係のニュースを父はこう表現した。

「本当はそういうこと、あっちゃいけないよ」

そんなこと言ったって仕方ない。私自身そう隠し込んだ社会に思うことを、父はすっかり丸裸にしてくれた。

「お前みたいに動いている人だったら、許せないだろ」

許せない。そうかもしれない。

世の中のニュースになっていること、特にオリンピックで話題になっているような事柄は、あるべきじゃないと思っている。

だけど私は怖かった。社会で起きている事柄に、許せない領域を作ることが。

本当は悪者に見える人たちを、悪者にするのが怖かった。

「許せないというか、そういう世界もあるんだなって思ったよ」

私は逃げた。許せない事実から目を背けた。

父はこう言った。

「そうだけどさ、そういうことを許す社会はダメなんだよ、本当は」

その通りだと思う。

オリンピックに関わっている人の想いや状況を、誰もが想像できていなければならない。想像した上で、お金や時間の使い方を考えなければならない。そこに本来、見栄や慣例を混ぜてはいけないのだ。

「…なんか変な話になっちゃったな、ごめんごめん」

そう言いながら話を変える父に、何も言葉をかけられなかった。


母はよく「お父さんは雑学王だからね」と言っていた。

当時は(今も実家へ帰れば同じような言葉を聞けると思うが)、そこまで真に受けていなかった。母は父をたてることが多いから、その一つだと思っていた。

でも今、冷静になって考えてみる。父は社会をよく観察している人だ。

新聞を欠かさず読むし、病院に行く時は待ち時間のために本を携えて車を降りる。後部座席に置かれた週刊紙も見かけたことがある。

父はきっと、考えることが好きなのだ。

それゆえに、話しているといつの間にか遠い場所にたどり着いたり、深い海の底まで来ていたりする。私との会話もそうだし、知り合いと父が話している様子を見ていてもそうだ。

長年そうやって生きてきた父の中には、社会に対してのやるせなさとか希望みたいな、陰陽さまざまな感情が溢れているはずで、それが気がついたら遠く、深く行けるくらいのパワーになっているのだろう。

最近、父からこう言われることが増えた。

「お前の方が分かるだろう」

40以上歳の離れた私と父は、見ている景色も生きている世界のスタンダードも違う。だからこそ、父は私に今の世界を生きるお前なら、この話を分かってくれるだろうと願っているのかもしれない。

そこには、自分がもう現役じゃないという、諦めのような気持ちもあるように思う。

「お前なら、俺が願うことしかできなかった世界を変えられる」

父が言っていた訳ではない。でも私は父と話すたびに、この大きく、強く、深い言葉を受け取っているように感じるのだ。


「世界を変えたい」

心からそう思えたことはない。少なくとも自分の中から湧き上がる想いとしては。

だけど、実家を離れ、ある意味ひとりの人間同士で親と付き合うようになってから、それは使命感のような形で私の前に現れるようになってきた。

それは親だけではなくて、親戚や友人と付き合う場面でもそうだ。自分が世界を変えなければ、この人たちの願いはどこにも届かないのではないかと思う。

でも、自分はそういうスケールの大きなことが得意じゃないこともよく分かっている。真っ先に旗を振るリーダーシップは、憧れだけど苦手だ。

だからこそ、この人たちのために世界を変えたいならば、私は背伸びをする必要がある。それは意思より義務だ。

逆に言えば、背伸びができないのならば、この人たちの願いはずっと願いのままだから。

まるで自分を棚にあげた見方かもしれない。

私の周りには、私よりもっと世界をぐちゃぐちゃに良くする才能の持ち主もいる。私が何もしなくたって、きっとそういう人たちがこの世界を変えていってくれるのだろう。

それでも何となく世界を変える使命を請け負いたくなるのは、父の娘だからだ。父の言葉を娘として受け取ってしまったから、父の願いを感じてしまったから、この願いを受け継ぐ人は自分しかいないと思うのだ。

親戚や友人からの言葉も世界を変えたい理由の一つだけど、父の言葉を受け取っていなかったら、私の使命感はぬるりと剥がれ落ちる運命かもしれない。

なんとも湿っぽい、論理のかけらもない理由だと自分でも思う。

それでもこれが、世界を変えたい理由だ。

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