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”子どもたちのため”は本当に”子どもたちのため”?

社会課題や教育でよく聞くワード。

”子どもたちのため”

この言葉を聞くと、私はとてもむっとした気持ちになる。

特に子どもたちの日常を見ていない大人と話している時ほど、子どもに期待を寄せるような発言が耳に障る。

普段は高校生の日常に関わり、人間関係や勉強の悩みなどを聞いて等身大の子どもたちを見ているから、そんな子どもたちのリアルが置き去りにされているように感じてむっとした気持ちになるのだろうか。

”子どもたちのため”と似ているワードで、

”若い世代・次世代のため”

というフレーズを聞くこともある。

これに対して私は、

「成果が出たかの判断指標を若者に押し付けないで。」

と感じる。

自分は子どもにはなりきれない若い世代。そういう自覚があるからこそ、この2つ言葉に異なる感情を持つのだろう。

この2つの感情を持った上で生まれる新たな問い。

「”子どもたちのため”って本当に”子どもたちのため”?」

子どもたちにしても若い世代にしても、それに当てはまる人たちはそれぞれの夢や悩みを持って生きている。

それにも関わらず、上の世代の大人が、夢を達成できたかの評価軸に子どもや若い世代を置くのって、なんか違くない?

教育に限らず、”○○のため”って一見いいことしてるように思えるけど、”○○のため”は結果論であって、本来はその行動を起こしている人自身の幸福とか満足感こそが、夢を達成できたかどうかの指標になる気がする。

SDGsや社会起業家のようなワードが取り上げられるようになって、課題解決が社会のトレンドになってきている今、社会を良くすることと個人の夢の重なりが見えない人が苦しむ社会になってきているかもしれない。

持続可能な社会をつくるためにも人々の幸せを満たすためにも市民一人ひとりが主体的に社会をより良くする活動を行うことは大切だ。

しかし、自分と社会が繋がっていなくてもいい。個人が幸福を追求してもいい。そんなムーブメントの火を灯し続ける必要性が高まってきていると感じる。

ちっちゃな声かもしれないけど、私はここからその火を灯し続けたい。

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