嗚呼、美しき日本語よ
私は言葉が好きで文字が好きであることを公言しているが、その情動の根っこにあるものは「日本語が好き」だという気持ちであることに、最近気がついた。
外国語と比べて、という意味ではない。
私は英語だってイタリア語だって好きだし、勉強したいと思う。
ただ、相対的な話ではなく、絶対的に、日本語という言語が好きなのだ。
①日本語の難しさ
日本語はまず、「言葉」とされるものの種類があまりにも多い。
ひらがな、カタカナ、漢字、擬音語、擬態語。そして、現代文、漢文、古文のような分類もある。
そのため、単語数も多いのだが、それに加えて「同じ漢字なのに違った読み方がある」「同じ音を発するのに違う意味になる」みたいな言葉が本当に多い。
日本語が第一言語でない人にとっての日本語の習得は、おそらく、かなり高難度で骨が折れるものだと思う。
例えば。
「その靴下を脱いでください」と「その靴下を脱いで下さい」の違いがわかるだろうか。
「~してください」は、依頼であり指示であり、要求である。
一方で、「下さい」は「私の方に寄越してください」つまり、物の移動を伴う。
「その靴下を抜いでほしい」と「その靴下を脱いで欲しい」の違いの方がわかりやすいだろうか?
「~してほしい」は、依頼であり指示であり、要求である。
一方で、「欲しい」は、私のものにしたい、という意味である。
すなわち、どちらの場合でも、前者は「靴下を脱ぐ」という行為の依頼であり、後者は「靴下を脱いで、それを私に渡してくれ」という意味となるのである。
例えばこれが、「靴下を脱いでくれ」という表現だったらどうだろうか?
「~してくれ」は依頼であるが、「(モノを)くれ」というふうにも受け取れる。
このように、漢字が存在しない場合は、その文章だけではどちらの意味を指すのかがわからない状態となってしまう。
あるいは、漢字が存在する単語であっても、口頭で聞いた場合はそれだけでは意味の判別ができないということになってしまう。
ああ、なんて繊細で、面倒くさくて、ややこしい言語なのだろう!
あるいは他にも、漢字まで同じなのに意味が複数ある場合もある。
「高層マンションの最上階に引っ越したんだ~!」
「へ~、それってどのくらい高いの?」
この「高い」は、値段のことを聞いているのだろうか?それとも、物理的な高さ、階層のことを聞いているのだろうか?
どちらの意味で理解する人もいると思うし、どちらの意味で受け取っても間違いではないのだ。
まだまだ、他にもある。
「私は絶対に彼にはできないと言った」
これはどういう意味に受け取れるだろうか?
私は、「彼にはできない」という発言を絶対にした、という意味だろうか。
それとも、私は「絶対に彼にはできない」と口にしたのだろうか?
これも、どちらの意味で理解する人もいると思うし、どちらの意味で受け取っても間違いではない。
これらのように、「こちらが意図する意味で、正しく相手に伝える」というだけでも、日本語を操ることは大変に難しい。
ややこしくて難しいことの、何が好きなんだと思うだろうか?
日本語を上手く紡ぐことは、難しいから、楽しいのだ。そして、楽しいから、好きなのだ。
仕事上でもそうじゃなくても構わないのだが、日本語を駆使して、「こちらが意図する意味で、正しく相手に伝える」ことができると、大変に気持ちがいい。
例えば、上記の例で言えば、私は「靴下を脱いでください」というような言葉はそれ単体では使わない。誤解を招きかねない表現は、極力避ける。
言葉にするのであれば、「この場所では靴下を脱いでくださいね、滑ってしまうので」というふうに前後に補足を付け足して理解を促すか、「靴下を脱いで、脱いだものをこちらにお渡しください」と言い換える。
「高い」の使い分けであれば、「高級なの?」「値段はどのくらいなの?」と言い換えたり、「高さがあるの?」「高所恐怖症には厳しいくらい?」などと言い換えてミスリードを防ぐ。
あるいは、「私は絶対に『彼にはできない』と言った」というふうに鍵括弧を用いて表現するか、「私は絶対に、彼にはできないって言ったよ!」といったふうに句読点や語調でニュアンスを伝える。
自分の頭の中を正確に表現し、アウトプットできるのはとても気持ちがいいものだ。
何故なら、その先には「ぴったり伝わる」という快感と達成感があるからだ。
②日本語の表現力
日本語を好きな理由は、他にもある。
それは、「意味が伝わるかどうか」の先の、「ニュアンスが伝わるかどうか」まで繊細に到達できるからだ。
例えば、「大好き」と「だいすき」では、どのくらいニュアンスが異なるだろうか?
「大好き」は大人が、「だいすき」は子供が使う言葉だろうか?
あるいは、「だいすき」という言葉で、大人だけれど気が抜けている状態、すなわち相手を信頼していて気持ちが解れている、あるいは眠くて声の輪郭がふやけている状態のことを表現できるだろうか?
涙が落ちる擬音語として、「ぽろぽろ」と「ぼろぼろ」と「ほろほろ」では、どのくらいニュアンスが異なるだろうか。あるいはそれをカタカナにして、「ポロポロ」「ボロボロ」「ホロホロ」にしてはどうだろうか?
少しだけ変えてみて、「はらはら」「ぱらぱら」などはどうだろう。
同じだろうか?全然違うだろうか?
例えばこれが単体で書かれていたら、あまり気に留めないかもしれない。
けれど、「A子はぽろぽろと涙をこぼした。その隣で、B子ははらはらと泣いていた」としたら、その比較を読者はどう思うだろうか?それを読んでどんなことを想像するだろうか?
言葉の受け取り方に正解はないが、私であれば「ぽろぽろと泣いているA子は、涙を止めようという感じではなく、素直に感情を表現して純粋に涙を落としているように思える」「はらはらと泣いているB子は、とても静かに、風景のようにただ自然に涙が滑り落ちているように思える」と感じるだろうか。
どちらかといえば、A子は「外」に向けて泣いており、B子は「内」に向けて泣いているように思う。
勿論一概には言えないし、前後の文脈によるところが大きいのだが、ただの擬音でここまで想像を張り巡らせることができる。それが正解かどうかには関係なく、だ。
こんなふうに、日本語は、ほんのわずかな表現の違いを持って、ほんのわずかなニュアンスの違いを表現することができる。
人によっては、「何が違うかわからない」と思うくらいの、微細な差だ。
その差を表現し、想像をかきたてることができるところが、私が日本語を愛する理由そのものなのである。
少し長くなってしまったが、私が「日本語が好き」だと思う所以は以上である。
言語的(文語的)な表現がとても好きなので、おそらく日本以外の国に生まれても、私は「言葉が好き」だと感じていたかもしれない。
けれど、日本に生まれた私は、どうしても、この繊細で、曖昧で、難解で、面倒で、美しい日本語を愛してしまうのだ。
今回はそんな話でした。
ではでは、今回はこのへんで。
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