愛着障害と、三つ子の魂百まで、の話
私は「三つ子の魂百まで」ということわざが割と好きなのだけれど、いわゆる子育て論みたいなもののなかでは、否定的な文脈の中でこの言葉が使われることも多い。
少し前に、3歳児神話、という言葉の流行(というか炎上)もあった。
意味合いとしては、こんなような感じだ。
三つ子の魂百まで・・・子供の頃の性質は、大抵大人になっても変わらないものだよ、という意味
3歳児神話・・・3歳までに愛着形成が成されるから、母親はつきっきりでお世話しないとダメ(成長に悪影響)だよ、という説
前者が示す「三つ子」は別に3歳児のことを指すわけではなく、ざっくりと「幼少期」を示しているだけのようだ。
一方で後者は、「脳の形成・成長には3歳児までの期間が重要である」という脳科学的な(仮)説のようで、おおざっぱに言うと「その期間は母親は専業主婦であるべきだ」ということらしい。
私は別に「共働きの家庭では子供は脳の発達が悪い!」とは全く思わないし、「3歳までで人格・人生の全てが決まる」「そこで(親が)失敗してしまうと取り返しがつかない」というのも全くそんなことはないと思うのだが、幼少期の親との関わり合いが、愛着形成において重要だという説はその通りだと思う。
それはすなわち、昨今話題の、愛着障害、アダルトチルドレン、というものに直結する。
順序としては、機能不全家庭(家庭が家庭としての機能を果たしていないくらい、親の質や親との関係性が劣悪な環境のこと)で育った子供が、愛着(他人との関わり合いや愛への理解)形成が成されないまま大人になり、そのような大人のことをアダルトチルドレンと呼ぶ、ということである。
愛着障害のまま大人になってしまったら死ぬまで愛を知ることができない、というイコールの関係なわけではない。あくまで順序であり、由来であって、時系列的な話だ。
で、何が言いたいのかというと。
母親が専業主婦であるかどうかには一切関係なく、ただし、幼少期の頃の親との関わり合いは、子供のその後の人格や愛着形成に大きな影響を与えるのは事実であるだろう、というのが私の考えということだ。
それによって人格や人生が固定されるというわけではもちろんないのだが、人格や人生の「スタート地点」を決めるにあたって、親や家庭がどんなふうだったかというのは極めて大きい要因だと思う。
そして、スタートしてからどこへどんなふうに行くかは基本的には自分の(意志の)自由なのだが、天国で育った三つ子が天国で暮らしていくのと、地獄で育った三つ子が天国を目指して過ごすのとでは、本人が感じる苦しみがあまりにも違うだろう、と思うのだ。
ここで少し、私の話をする。
私は以前の記事で、自分の育った家庭環境があまり良くなかったという話や、親のこと、自分はアダルトチルドレンなのだろうかという考えについて何度か言及してきた。
一方で、現在はとても幸せな生活を送っているということも書き記しているし、自己肯定感はかなり高めだという話もした。
実は私は、生まれたばかりの幼少期(それこそ三つ子の頃)は、割と恵まれた家庭環境だったのだ。
途中で親が変わったとかでは全然ないのだが、私の両親は私という子供を愛してくれていたし、それを親なりに表現してくれていると感じることもあった。
母親はその頃、私の人格を否定するようなえげつない暴言を吐くことはなかったし。直接手を上げて、暴力を振るうこともなかった。(人前で恥をかかせたり、号泣する私を見て馬鹿にして爆笑してることもあったし、私は本当の子供ではないんじゃないかと思っていたこともあったが、まだ私は母親の人格や愛を疑ってはいなかった。)
父親(当時はまだいた)はその頃、私を見て股間を熱くさせることはなかったし、酔っぱらって暴力を振るおうとするようなこともなかった。毎年家族旅行に連れて行ってくれたし、精一杯家族サービスをしてくれていた。
そして、裕福な家庭ではなかったが、親は私の教育や成長、健康に関して惜しみなくお金を使ってくれていた。
私は幼少期の頃、疑問や不満を持つことはありつつもそれは恐らく一般家庭と同じようなレベルであり、両親のことを愛していたし、両親からも愛されていると感じていた。
そこで、私の愛着形成はしっかりと成されたのではないだろうか。
多少愛着に歪みはあるかもしれないが、今現在「愛がわからない」「自分は愛されたことも、愛されることもない」「今後誰かを愛することもない」と思うことがないのは、本当に小さな頃は、愛情をたっぷりと注がれていたからではないかと思う。
つまり、私の出身は、本当は地獄ではなく天国だったのだ。
そして、10歳前後、思春期真っただ中くらいの頃に「あれ?」と思い始めて、気付けば何故か地獄に転がり落ちていた。
どうして?という話でもあるし、何故途中で気付かなかったのか?という話でもあるのだが、私の場合は親が過干渉・管理型だったこともあり、自立心みたいなものが芽生えるのがかなり遅かったように思う。気付けば何でも親がやってくれていたし、先回りで全ての道を用意されていたからだ。
だから、自分や他人に対してあまり興味や疑問を持つことがなかったし、自分の周りの環境が大きく変わって、他人の人格や自分との関係性が大きく変貌していってることにも無頓着で、気付いた頃にはいつの間にか地獄にいたのだ。
天国育ちということもあり、危機感もなかったし、自己解決能力も全然なかった。精神が実年齢よりも幼かったし、愚かだったと思う。
その後は他の記事でも書いた通り、(親に)頻繁に人格否定の言葉を浴びせられるようになり、バチバチに叩かれ、すべての物事に反対され、成人してからは多額のお金まで取られるようになったわけだが。
おそらく親の中で、「何でもしてあげたい可愛い娘」が、「何でもしてあげたのに無頓着で愚図の娘」に変わったのだろうと思う。
そして私は、「自分がダメなせいだ」「結局全部私が悪い」「だから一生事態は好転しない、ゴミみたいな私はゴミみたいな人生を歩むだけ」「死んだ方がいい」みたいな考えを持つようになったわけだが。
今では、自己否定の渦に囚われることもなく、人を愛したり愛されたりして幸せに暮らしている。
そうなるまでにいろいろな環境の変化や自分自身の努力、運みたいなものもあったのだが、20代のうちに立ち直ることができたのはやはり、「愛着形成の基礎はあったから」というふうに思ってしまう。
もし、幼少期から暴言と暴力を浴び続けて育ち、「愛されている」なんて1秒すら感じることのない環境で育っていたとしたら?
その後、どんな環境でどんなに努力してどんなに運が良くても、今の私に比べると、「自分は愛されている」と思えるのにかかる時間は、ものすごく長かったのではないかと思う。
だから、以前の記事で「努力で環境はある程度は好転させられる」という話はしたし、それは事実だと思っているのだけれど。本当に「地獄で育った」三つ子にとっては、それはかなり高いハードル・レベルの話になってしまうんじゃないかと最近改めて感じた。
それはまさに、「ガチャ」のレベルだ。
できる努力はしましょう、人との関わり合いを勉強しましょう、愛を知りましょう。そういう選択肢は誰にでも残されているが、でも、天国育ちでずっと天国にいた人は、そんなことしなくっても初めから「持っている」のでしょう?
そう考えるとあまりにも不公平で、ガチャと呼ばざるを得ないと思うのだ。
言ったって仕方がないし、どうにもならないことではあるのだけれど。
それでも、だ。
そんなわけで、愛着形成についての考察と、自己体験の振り返りを行ってみたわけだが。
全然ポジティブな話ではないし、読んでいて楽しい気持ちになることもないと思うのだが、記事を書く度になにかしらの新しい気付きはあると感じる。
なので、今後もこういったことについての話題は、ぼちぼち書いていく、かもしれない。
よろしければ、お付き合いください。
ちなみに、機能不全家庭とかアダルトチルドレンとか、私の親に関する記事は下記マガジンでまとめてあるので、興味があれば併せてどうぞ。
では、今回はこのへんで。
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