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知る未来で変わる僕、それとも変わらない未来を選ぶ僕②【roman】

「君は今日の記憶を失くすんだ。
あぁ、きっとそれが良い」

男は呪いの言葉の様に僕に、そう吐くと血走る目で僕に近づき肩に手をかけた。
僕は一瞬、その力に驚いていた。
父親くらいの男だが、今の僕の全力を持ってしても勝つだろうかと
そう思うくらい、男の手は強かった。
「忘れるんだ」
男はぐっと肩に置いた手に、もう一度力を入れ
そう言い吐き、自分のベッドへと戻るとカーテンを引いた。

「もう、休んだ方が良い」

閉まったカーテンの向こうから聞こえた声は
ゾッとするほど気味が悪かった。
僕は、先程の男の様にカタカタと言わせている身体にぐっと力を入れ、
とうに冷めてしまったコーヒーを一気に飲み干した。
熱いシャワーを浴びたいと頭は思うけれど
身体は重い。
僕はよろよろと、カーテンを閉めると
鉛の身体を横にし、ぽつぽつと灯りのついた家の窓をぼんやり眺めていた。
目を閉じると
血走った男の目が近づいてきて
僕に呟くんだ。
「忘れるんだ」とね。
僕はそれが恐ろしくて、ずっと窓から遠くの灯りを見ていた。


僕はまだ眠いわけじゃなかったのに
何故だか、そのまま眠ってしまった。
男の言葉じゃないけど
僕自身も今日のことは無かった事にしたかった。それくらい気味が悪かったんだ。

静かに目が覚めると、
僕は僕の部屋じゃ無い事に気が付いて、一瞬狼狽えた。
けれどカーテンの仕切りを見て
あぁ、まだ僕は安宿にいるんだって分かった。
向こうの男の気配は全く分からなかった。
手を伸ばして携帯を枕の下から探す前に
自分が腕時計さえ外していない事に気が付いた。
ため息で見た時間は朝の6時少し前。
目覚まし時計をかけずに起きれたのなら、
タミ、これはすごい進歩だよ。
明日から僕は腕時計を付けたまま、寝た方がいいって事になるね。
身体はもう鉛でも何でもなかった。
すんなり起きると、僕はシャワーを浴びたかったことを思い出し、思い切ってカーテンを開けた。

男は既にいなかったよ。
朝の6時前だよ。
年寄りは早起きだって事を改めて知らされたね。
僕は些か拍子抜けして、シャワー室に向かった。
頭をガシガシ洗いながら、昨日のライズとの交渉を思い出していた。
ヒゲ社長も、まぁ悪くは言わないだろう。
うちの様なさほど大きく無い会社だが、
クライアントは多い方が良いに決まってる。
しかもライズは、こんな田舎だが人脈はある男だ。上手くいけば、芋蔓式に紹介して貰えるかも知れないしね。

いつもより長めのシャワーでスッキリした僕は
フロントの爺さんに昨日のコーヒーのお礼がてら、声をかけた。
爺さんは気を良くしたのか、また薄いコーヒーを淹れてくれながら
「安宿だけど朝食付きさ」と
塩のついたプレッツェルをコーヒーと一緒に出してくれた。
正直なところ、僕はプレッツェルがそんなに好きじゃないけれど、腹が減ってる時は素直に有難い。
部屋に戻り、僕は薄いコーヒーと固いプレッツェルを齧った。
あの爺さんは良く分かってる。
ミルクと砂糖がトレーに幾つも置いてある。
僕はミルクと砂糖をいつもより多く入れて甘いコーヒーにした。
普段の僕はブラックが好きだが、時々こんな甘いコーヒーが飲みたくなるんだ。
男がいたベッドに目をやると
丁寧に畳まれたブランケットが、皺のさほどついてないシーツの上に置いてあった。
僕はプレッツェルを食べ終えると、取り敢えずヒゲ社長に、昨日の報告と、電車に乗れず安宿に泊まって市内に戻れていない事をメールした。
朝の7時だ。
返事はまだ後だろう。
僕は身支度を整えて出来るだけ早い電車で戻るつもりでいた。
薄く甘いコーヒーを飲み干すと、いつもはしないくせに、出来るだけ丁寧にブランケットを畳み、皺くちゃのシーツを整えてフロントへ向かった。
爺さんは相変わらず、ちんまりと
ずり落ちた眼鏡のままで座っていた。
チェックアウトを済ませ
僕は駅に向かい、電車の時間を確認した。

狭い喫煙所には幾人かの男女が携帯を見ながら
煙を吐いている。
僕がタバコを止めたのは、アサのおかげだ。
彼女が居なかったら、今も至る場所で喫煙所を探し回っていなければならなかっただろう。
でも何故アサと上手く行かなくなったのか、
彼女のことを思い出す度に湧いてくる疑問だった。
記念日はどれも忘れた事はなかった。
アサの好きなカフェ、景色、花、色、香り、
彼女の好きな事はあの3年間で全て覚えた。
彼女の喜ぶ事、感じる場所、それも全部応えた。
アサが僕の首に腕を回し溶けた目をして
「もっと頂戴」と言う甘い声は今も耳元で聞こえる。
結局アサは僕で無い誰かを選んだ。
ただそれだけだと言う結論に、僕は3年費やした。
彼女といた時間と同じ時間をかけて
僕は僕と彼女の関係に整理をつけたんだ。

喫煙所を通り過ぎ、電車のチケットを買おうと、鞄を開けた時、外側のポケットに何かを見つけた。
僕は鞄の外ポケットは使わないのに、何だ?

「買うの?買わないの?」
後ろから肩を叩かれ、はっと我に返る。
チケットのお姉さんが、顎で後ろに並ぶ人達を差した。
僕はすまないと謝まり、その列から離れた。

鞄を胸に抱えてベンチに座ると細身の身体に木が当たる。
不思議に思いつつ鞄の外ポケットに手を入れた。
紙だ。
引き出すと2つに折られた紙が入っている。
昨日、僕は自分を忘れてしまうくらい飲んだのだろうか。
大切な書類かメモをここに入れてしまうなんて。
そう思い、紙を開いた僕は
まるで電気が身体中を通った様に一瞬で痺れ、
指に絡まる紙を振り払った。

それはライズとの契約書でもメモでもなかった。
白い便せんに几帳面な文字でびっしりと書いてあったんだ。

「落ちましたけど」
親切な女性が拾いあげ、虚な僕の手に捻り込んだ。
目の奥に焼き付かんとする様に、その文字はくっきりと僕の視界に映っていた。


「君に忘れる様に言いながら、これを書く私は人として最低だ。けどこれは私自身の保険でもある。偶然でも君が聞いてしまったことを利用しようと思う。許されない事だが、どうか私に書かせて欲しい。年寄の懺悔だと許して欲しい。
若い頃、私は神をも冒涜する事を行い、その罰として大切な娘を化け物に変えてしまった。それは神への制裁であると思い生きてきた。しかし、本来なら制裁は私自身が負うべきもので、なぜ娘が、あんな形で生き永らえてしまったのか、私は裁かれるべきなのだ。
あれは単なる私のエゴだった。
私は自身の名前の前に称号が欲しかった。名声やお金、人からのねっとりとした賛美の言葉が欲しかったんだ。
しかし年を取り、薄暗い部屋では名声も金も賛美も後悔でしか無い。
もう何を食べても飲んでも後悔の味しかしないんだよ。」


僕はこの手紙を捨ててしまおうと思った。
このままチケットを買い、にぎやかな都市へ戻り、ヒゲ社長に皮肉でも言われつつ、タミと馬鹿騒ぎをする日常に戻りたい。しかし次の文章が、それを打ち消してしまった。
携帯を取り出し、ある名前を検索した。
それから小さな悲鳴に近いため息をつくと走り出した。

僕はバス停に向かい、ミントン通りに行くバスを探したが、慣れない場所のバス経路は分かりにくい。少しイラつきながらもタクシーを拾った。

タミ、僕は何をしていたんだろうね。
きっと僕自身も彼の手紙で気が付いたんだ。
僕の味わっていた全てが、後悔でジャリジャリしたものだった事をね。
それに彼が変わった事も知ったんだ。
正しくは彼の人生が、だよ。


走るタクシーの中で、僕は再び手紙を開いた。

「私がミントン通りに行き、例の女性と会うのは過去に戻るためである。過去に戻り、自分のあの時の選択を変えて生き直すんだよ。
名声や金でなく、娘を娘として終わらせるんだ。
嘘ではない。夢でもないんだ。
君が科学が得意な事を期待するが、私の専門では無いんで細かい説明は出来ないがね。
今、素粒子の分野は研究が進んでいる。
その中でもヒッグス粒子は今までは仮説だったが実際に存在する事が分かった。
そこから真空、時空、素粒子と様々な研究がなされているんだ。
ビックバン、すなわち宇宙の成り立ちも解明するくらいの進歩だ。
君が私と共に見た女性はその研究者だ。
私は彼女と取引をしたんだ。時空の歪みの研究に我が身を差し出す事をね。
馬鹿な話だと思うのも仕方ない。
どうなるのか私にも分からない。
だから私は君にこの保険をかけた。
ここに私の名刺を貼っておく。
君が望むならどうか調べて欲しい。私と言う男がどうなったかを。
興味がないなら破り捨ててくれて構わない。
老いぼれの懺悔に付き合ってありがとう」


僕は科学には疎い。
相対性理論なんて学生時代のものさ。
しかし、ヒッグス粒子は新聞か何かで読んだ。
あぁ、そういやタミが騒いでいたっけか。
それより、この名刺だよ。
あの男は医者だったんだ。しかも有名な脳外科医で数多くの難しいとされた脳手術を成功させていたよ。
唯一失敗したのは娘さんの手術の様だった。
彼の名前で調べたら、彼女の葬式でスピーチする彼がニュースになっていた。


もう一度、僕は手紙を広げた。
神への冒涜って娘への制裁って何だ。
やり直したんじゃないのか、過去を。
けれど大切な娘は死んでしまってるじゃないか。

「お客さん、ミントン通り1584ですけど」

顔を上げると、古い茶色のレンガの建物が建っている。
まるで昔の小学校の様なアパートだ。
周りも似たような建物が、両脇ずらりと並んでいる。

僕は金を払いながら運転手に聞いた。
ここは一体何なんだって。
運転手は馬鹿面の僕をミラー越しに見ながら
呆れ顔で老人ホームですよと答えた。
僕はタクシーが行ってしまうのを見て、既に後悔していた。
駅の方まで歩こうかと思った時、あの女が前から歩いてきたんだ。

カツカツとヒールを鳴らしながら近づいて来た女は僕の顔を見るなり笑いながら言った。
「後悔だらけの顔ですね」

そして門は開かれた。
2度と戻る事が出来ないこの世との境界線を
僕は跨いでしまったんだ。 
タミ、願わくば君の事を覚えていると良いのだけど。



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