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人生相談とバイアス〜救世主を探す人々と炎上する教祖

他人に人生相談することについて。某人生相談が炎上したのを見て考えたことを書きます。(この記事は、人生相談の内容や回答者を非難するものではありません)

炎上した人生相談のタイトルにあるように、何故たくさんの人がその人に意見を聞こうとするのか、以前より不思議に思っていました。
回答者の方は重いご病気らしいのですが、その方に相談を持ちかける人や、その言葉を賞賛している人の中には「回答者は闘病によって生と死に向き合っているのだから、他の人が知らないような真実を知っているのではないか」というバイアスをかけて見ている人も多分にいるように感じていました。

同じように根拠なきバイアスをらかけられてご意見番になっている人でよく見かけるのは、LGBTや女装家の方々です。
中でもテレビに出ているような有名人の方は、歯に絹着せぬ物言いでコメンテーターとして大人気です。
ここにも「普通とは違う生き方をしている人だから、常識にとらわれない新しい物の見方をして、目から鱗の意見をくれるのでは」というバイアスがあるように思います。

この手のバイアスで、障害者の方やアスリートの方なども、
「普通と違う苦労があるから」
「普通はできない記録を達成しているから」
というような観点から意見を求められることがあるでしょう。
そのアスリートや障害者の親もまた、子育て論を求められたりします。

誰しも自分の大ファンのアイドルやアーティストの言葉なら、特濃のバイアスがかかり、その全てが金言に思えて、涙を流してありがたがってしまうこともあると思います。

自分と違う立場の人の物の見方や考え方を参考にするのは大切なことです。
でも「生き方」という漠然とした事柄に対して、自分の見方は間違っていて、彼の人の見方こそ正しい、ということはないと思うのです。
コインの表と裏の柄は違うけど、表の柄が正しいということではないように、
こういう子育てが正しいとか、こういう生き方が正しいとか、誰にでも当てはまる完璧な正解というのは絶対にありません。
しかし、自分の目からコインの表側しか見えない時に、裏側が見える立場の人に「裏にはこういう絵が描いてあるよ」と、新しい視点を提示してもらうことによって、多角的に物が見えるようになる。
それが他人に意見を乞うことの意味だと思います。

しかし強いバイアスがかかっていると、相手の言うことこそが唯1つの正解に思えたり、意見を検証することなく鵜呑みにしてしまうことがあります。
そして相談された側も自分の意見をありがたがってもらううちに「自分は正しいことの言える人間だ」というバイアスを自分自身にかけてしまうのです。
その上でご意見番のような役割を担った結果、自分自身が多角的な視点を欠き、失言して炎上するということが起こってしまいます。

その時にバイアスをかけて見ていたファンは「失望した!」と怒りや失望をあらわにしますが、バイアスをかけて相手を賛美していた側にも原因の半分があると思うのです。

完璧な人間はいないので、偉業を成し得たアスリートも時には不倫をしますし、素晴らしい音楽を作るアーティストも麻薬で逮捕されたりします。
その時に失望するなら、その人にバイアスをかけていたのかもしれません。
相手に対してこういう人間であってほしいという勝手な期待がない場合には、 失敗はその人の新しい一面が見られて面白いとさえ感じるものです。

自ら人々が自分にバイアスをかけるように、肩書きを名乗る人もいます。
「スピリチュアルカウンセラー」「性格リフォームの匠」「オーラ鑑定士」などなど。
資格が必要な肩書きと違って、そこに根拠はないので名乗ったもの勝ちです。
時にはその気になって占いなどに乗っかってみるのも楽しいものですが、
大金をもらって人生相談を引き受けるような人は、自分自身に「自分は正しい」というバイアスをかけているので、傍目からは自信満々に見えて、信奉者も現れます。
しかし前述のように、自分こそが正しいというバイアスをかけている人は、自分を信じるあまり、他人の立場から多角的に物を見ることをやめてしまうので、やがて世間とズレが生じ、炎上したりアンチを増やしてしまうことが多いのです。

法律の問題を弁護士に相談する、筋トレの仕方をジムのトレーナーにアドバイスしてもらうなど、専門家を頼るのは当然のことですが、
人生の専門家、生き方の専門家なんてものはありません。
そもそも正解がないことだからです。

自分も、根拠のない肩書きを掲げている誰かにバイアスをかけて頼り、時にはお金を払い、助言を乞うた経験があります。
でもそこに救いはありませんでした。

身近に自分を理解し愛している人たちがいるのに、そういう人たちをすっ飛ばして、会ったこともない人にバイアスをかけて縋ってしまう。
夢みたいな解決を期待して、自分のまだ知らない真実を知っている人を探し求めてしまう。
その気持ちは切に理解できます。
でも失敗を繰り返して分かったのは、見知らぬ誰かに人生を相談して、根本的な解決が得られることなど決してないということです。
ネットで他人の相談に答える人は、相談して来る相手に対して、愛も、責任も何一つない立場から回答を返します。
知恵袋や発言小町ような質問サイトでも、回答者は「知らない者」に対して「教えてあげる」というあからさまな優越感を感じているように見えます。
だから無償であっても、様々な人が自分の優越感を満たそうと、回答者側に回るので、サイトの需要と供給が成り立ちます。
特に人生相談のような正解のない質問には、何かの専門家でなくても誰でも答えることが出来るなで、たくさんの回答者が群がり、自分の意見を開陳します。
見知らぬ人間が、真に相談者の心に沿うことなど出来るはずもなく、
人生相談は回答者の優越感の方を満たすのです。

友達や家族は専門家ではないけれど、見知らぬ専門家より私のことを理解してくれています。
そして相談したら愛と責任を持って向き合ってくれます。
たとえ解決できなくとも。

そして本当の理解者たちと向き合っても解決できない問題ならば、それは自分が解決する責任のある問題ではないのかもしれない、とも思います。
解決不能なことに責任を負わされるなんて、あってはならないことですから。

解決出来ない問題については、散々他人を頼って失望し、もがき苦しんだ果てに、
解決しないままにしておく、という答えを見つけました。

タケノコが地中から芽を出そうとした時、自分の頭の上を大きな石で塞がれているとします。
その時タケノコは石を貫こうと頑張ったりはしません。
諦めたりもしません。
横に伸びて、石のない場所を探すのです。

問題を全て解決しないと生きていけないわけではない。
石がそこにあり続けても、伸ばせる方へ枝葉を伸ばし、その結果ひん曲がりのタケノコになったとしても、それが自分の人生らしさ、なのかもしれない。

いろんな人に相談して分かったこと、それは誰1人として、人生の正解なんて知らないということでした。
誰も答えを知らないということは、心細いことではあるけども、
誰もが人生に迷う仲間なのだと思えば親近感も湧くような、
その上で他の人の悩み苦しみも、また寄り添い聞いてみたいなと思えたりするのでした。

(ただし調子に乗りやすいので、相談されたことで優越感を持ったり、増長しないように)

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