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短編小説 『本能が鳴る』

 リビングにある固定電話のベルが鳴ることなんて滅多にない。そのほとんどが今の時代はセールスの電話だから、応答しないことが多い。それでも続け様に何度も鳴る電話に私は手を伸ばそうとした。
「母さん。電話、出ないでいいよ」
 ソファーにうつ伏せで寝転がり、クッションに顔をうずめる息子の声に手が止まった。
「あんた、もしかして今日バイトサボったの?」
 私の声に息子は、「うん」と力なく答えた。そして「てか、もう行かない」と続けた。家の電話のベルが鳴りやむと、次はテーブルに置いてあった息子のスマホが鳴り出した。
「ちゃんと…」
 その次の言葉が出なかった。息子は決して無礼な訳でも常識がない訳でもない。高校時代は受験勉強が始まるまでの二年間、同じ職場でアルバイトとして働き、止むを得ず辞めた後も、商品券とともに労いの言葉が書かれた店長からの手紙が届いた。大学に進学してすぐに始めたバイト先でも、勉学の都合で一年で辞めなければいけなくなった時、お店の人たちが送別会を開いてくれたと言って喜んでいた。
 そんな息子が、飛んでしまった。色々な社会の摂理やしがらみを放棄して逃げてしまった。今私が息子に何を言うべきか、正直何も分からなかった。ただ、夫が言うであろう言葉はすぐに頭に浮かんだ。そして夫が私に求める母親像から考えて、私に言うべきだと求める言葉も思い浮かんだ。息子が何を望んでいるかも分かっていた。

 最後に私が投げやりに放ったシュートがリングから弾かれた時、なぜかホッとした。1つ上の先輩たちが引退してからの初めての公式戦。中学でバスケ部に入ってから、初めてスタメンで出場した試合だった。もし私の最後のシュートが決まっていたら延長戦になっていた。
 肩で息をしながら私たちのチームは相手チームとの挨拶を済ました後にベンチに戻った。チームメイトのほとんどは特に思うところもないように、なんでも無い話をしながら自分たちの荷物が置いてある場所に戻っていった。
「最後、あと2秒くらいは時間あったよね?一回落ち着いてからでもシュート打てたんじゃ無いの?」
 キャプテンの円は眉間に力を入れて言った。「うん。ごめん」としか私は返せなかった。私はタオルを頭にかけて荷物の置いてある小体育に向かった。
 ユニフォームから着替えていると、チームメイトたちは制汗シートで汗をぬぐいながら、禁止されているはずの携帯を弄っていた。「やば、男子たち試合やってるって!上木くん応援しなきゃ!」と言って、手早く薄い色のついたリップを塗って走っていった。私も仕方なくそれについていった。円だけが、さっきの試合のスコアシートを睨みつけていた。
「さっきの円マジやばくなかった?」と、男子の試合を見ながらチームメイトの一人が言った。
「初めての公式戦で、しかもまだ二回戦だよ?試合前に円陣組むとか、マジそういうの勘弁してほしいよね」
 チームメイトたちは笑っていた。「優里も思ったっしょ?」と肩を叩かれ、「うん」としか答えられなかった。
「別に勝ちたくてバスケ部入ったんじゃ無いっつうの。何に憧れたのか知らないけど、あぁいうクサいの強要すんなって感じ」
 私は、「うん」と、小さく言った。
 試合の帰り道の電車で、隣に座っていた円が、「ねぇ優里。この後学校でさ、ちょっと練習していかない?なんか、このまま帰っても落ち着かないんだ」と言ってきた。周りのチームメイトたちは、みんな寝たふりをしていた。私も寝たふりをしていたはずなのに、円は私の膝を叩いて言ってきた。「うん」と私は答えて、駅で解散した後に私と円は学校の体育館に向かった。ちょうどバドミントン部が練習を終えた後で、バドミントン部の顧問に体育館の鍵を受け取り、私たちはスニーカーからバッシュに履き替えた。
「ウチ、今日スリー3本外したから、3本連続で入るまで今日は帰らない」と言う円に向かって私はパスを出した。円が打ったシュートが外れると、そばにある正方形をしたボール入れからボールを取り出し、円にパスを出す。円は軽く飛んでそのパスを受け取り、着地してから流れるようにシュートを打つ。ボール入れが空になると二人で周りに散らばったボールを回収する。
「パス、もっと速く出してくれる?試合の時みたいに」
 私は「うん」と答えて、強くスピンをかけてパスを出した。
 気がつけば、30分ほど私はパスを出し、円はシュートを打っていた。他のチームメイトたちはサイゼにでも行ってるのだろう。男子も後で合流するかもしれない。
「ごめん、私ばっか。優里の練習も手伝ってあげるよ」
 夏の夕暮れの体育館は、宙に舞う埃が西日に照らされて浮き彫りになり、なんだか息苦しかった。私は少し息を止めてから、「じゃあ、ミドルの練習する」と、うつむきながら言った。
「あ、お前らもやってんの?」
 体育館の扉を開けて、男バスの同級生が顔を出した。
「松島くんも練習しにきたの?」
 円の言葉に、松島くんは少し恥ずかしそうに頷いた。
「なに、ミドルの練習してんの?俺ディフェンスやっていい?ディフェンスの練習したいんだ」
 体育館の床に座ってバッシュに履き替えながら、松島くんは言った。私は少しどもりながら「う、うん。お願い」と答えた。彼はバッシュに履き替えて立ち上がると、手のひらで足の裏のソールをぬぐった。キュッキュッというバッシュのスキール音を立てながら私に近づき、目の前に立って腰を落とした。自分の汗が滴って床に落ちて、それが猛烈に恥ずかしかった。
「優里、動かなきゃ」
 円に言われてハッとし、私は松島くんのマークを振り切るように動いてパスを受けた。一回ドリブルをついてからステップバックしてシュートを打つ。私のシュートをブロックしようとする松島くんの手でゴールが見えなくて、ボールはリングに弾かれた。「ステップバック上手いね」と言われて、背中がチクチクと痒くなった。
 
 それから、練習の後、私と円は残って自主練習するのが習慣になっていった。円がパスを出して私がシュートを打つ日もあれば、私がパスを出す日もある。そして徐々に、練習の中で、チームメイトたちが円にパスを出す頻度が減っていった。そうすると、練習後の二人での自主練の中で、私が円にパスを出す頻度が増えていった。私はいつも、何も見えないふりをした。何も聞こえないふりをした。
「ねぇ優里。分かってるでしょ?なんで円にパス出すの?」
 練習の中で私が円に当たり前のようにパスを出していたら、休憩の時、体育館横の水を飲んでる時にチームメイトから耳打ちされた。「ねぇ、優里はこっち側でしょ?」と、ニコニコ笑いながら肩を抱かれた。
 私は顧問の先生に体調が悪いと伝え、早退した。その日以降、部活には行かなくなった。
 チームメイトたちはそれからも普通に接してくれた。「別に私たちだって本当にバスケが好きでやってる訳じゃないし」と言っていた。ただ、円だけは話しかけてこなくなった。
 私が部活に行かなくなって一ヶ月ほどしてから、円がバスケ部をやめたことを、元チームメイトから知らされた。偶然円と廊下ですれ違った時、
「裏切り者」
 と低い声で言われた。
「いっつもいっつも、『うん』『うん』『うん』『うん』って。嫌なら言えよ。どいつもこいつもムカつくけど、あんたが一番ムカつく。馬鹿にすんなよ」
 円は目尻から細い涙を流して、鼻息荒くそう続けた。
 私は円とすれ違ったその足で職員室に向かい、バスケ部をやめることを顧問に伝えた。顧問は簡単にそれを認めた。
 私が部活をやめたことは、なぜかその日のうちにみんなに知れ渡った。別のクラスだった松島くんは私のクラスまで来て心配してくれた。そして、放課後話があるから一緒に帰りたいと言われた。周りからクスクスと笑い声が聞こえた気がした。
 部活を正式にやめたとなれば、部室に置いてある荷物を回収しなくてはならない。私は部活が始まる前に体育館に行って、自分のバッシュを取りに行った。体育館には電気がついていなかった。体育の時間にここには来るから名残惜しいわけではないけれど、夏休みの午前中の乾いた暑さとか、部活終わりに体育館の入り口の階段に座って、火照った体の熱を夜の風で冷やすあの時間が、もう訪れないことが、なんだか切なかった。私は体育館の中をぐるっと一周歩いた。普段は、体育館を真ん中で男女で分けてけて練習する。いつも男子のいる方の、みんなが座ってる壁に埋め込まれたベンチに座ってみた。いつもと景色が違った。そして壁にペンで書いてある文字がすぐに目に入った。

  松島死ねよ

 きっと私がどっちつかずだったから、円は私を頼った。円と松島くんは似たような境遇で、類は友を呼んだんだ。
 松島くんには部活が終わるまで待って欲しいと言われ、私は教室で待とうと思ったけれど、吹奏楽部のパーカッションのグループが個人練習で教室を使っていたので、私は居場所がなくてトイレに篭っていた。六時半ごろに学校を出て近くの公園のブランコに座った。
「ごめん待たせて」
 松島くんの背はそんなに高いほうじゃなかった。顔はそれなりに整っていたけど、少し熱血で、体育祭や合唱祭の時に少しだけ煙たがられていたことは知っていた。それでも、女子の間ではそれほど不人気ではなかった。
「ちょっと歩こうぜ」
 私と松島くんの家は同じ方向だった。特に会話もないまま歩いていると、私の少し前を歩く彼は振り返った。
「あのさ」
 彼がそう言った瞬間、私の中で何かが、カチッ、と音を立てた。どこからともなく、クラスメイト達のクスクスという笑い声が聞こえた。
「ごめん」
 私は気がつくとそう言っていた。
「え?まだなんも言ってないけど」
「いや、違くて。ちょっと学校に忘れものしちゃって。だからまた今度でいい?」
 私はそう言いながら、すでに後ずさりしていた。
「うん。わかった。また明日な」
 彼は残念そうに眉を下げてそう言った。「うん」と言って手を振りながら、私は踵を返した。当然私達に、明日なんてなかった。

 固定電話が鳴り続けている。私は夕飯の支度をしながら、それを聞こえないふりしていた。
「ただいま」
 玄関のドアを開けると音と、夫の疲れた声。ゆっくりと、体重にそぐわない重い足音が響く。
「電話鳴ってないか?なんで出ないんだ?」
 息子の背中が少しだけ丸くなった。息子のことを思い、私は電話に出ないであげて欲しいと夫に伝えようとした。
 その時、私の中の何かが、カチッ、と音を立てた。
「はい、もしもし」
 夫が電話に出ると、息子は立ち上がって自室に戻ろうとした。私は何も見えないふりをした。何も聞こえないふりをした。
「おい、お前に電話だぞ。バイト、バックれたのか?」
 息子は立ち止まって少し固まった後、観念したように夫に手を伸ばした。そして電話の子機に耳を当てた。「すいません」。息子のその言葉の後に、電話越しに、私まで聞こえるほどの怒鳴り声が聞こえた。息子の働く小さなラーメン屋では、どこにいようがそんな大声で怒鳴れば店に響き渡ってしまうだろう。そんな横柄な店長のいる店で、息子がどんな時間を過ごしたか、私も夫も気にかけてこなかった。
「はい」「すいません」「はい」「すいません」。息子の声は、まるで独り言のように聞こえた。
「幻滅した。まだ学生だろうと、自分で選んだことだろう。どんなに辛かろうと義理は通さなきゃダメだろ。クズだ。今時こういう奴ばっかりだからダメなんだ。昔は違ったろ?俺らが若い頃なんか…」
「はい」「すいません」「はい」「すいません」
 夫の耳障りな話と、息子の気味の悪い独り言のような言葉に、私は聞こえないふりをした。

 夫がシャワーを浴びている間、私はベッドに寝転がりながら、夫のスマホのロックを解除した。きっと私が盗み見するなどと思っていないために、暗証番号は安易に生年月日で登録されている。ずいぶん前から、若い女性とラインでやり取りをしている。そんなに頻繁にある訳が無い出張によく行き始めてから一年ほど経つ。財布から大量に出てくるSMクラブの会員証。私たちが交際を始めるよりも数ヶ月早く、私があの子を宿していたことを、夫はもう忘れているだろう。夫の実家に行った時に、酔った義父から聞いた、高校時代の放火未遂の話。詳しく仕事の話をしてくれたことはないけど、会社の名前をネットで検索してたどり着いた、詐欺まがいのセールスの話。
 キリストの教えのごとく、罪のない者だけが罪人に石を投げられるならば、それを許される人間など今この世界には存在しない。周りに対して鈍感を装うことも当然罪だが、それよりも世界は、自らに鈍感である人間で溢れ、そういう異常で狂った人々の正気の沙汰の上に社会が成り立っている。みんな、自分を守るために、どこかで自分の中を覗くスコープから目を離している。あの中学の頃のチームメイト達も、松島という男の子も、円も、息子も、夫も、私も。
 寝室に近づく夫の足音が聞こえた。同時に、カチッ、と頭の中で何かが鳴った。私は夫のスマホを元の場所に戻した。何も見なかったふりをした。
「まだ寝てないのか」
 私は小さく返事をして、毛布を頭までかぶった。
「あいつには心底幻滅した。ろくな会社には入れないだろうな。一生それなりの立場にしか居座れなければ、そもそも真っ当な仕事ができるかも怪しい。あんなのには社会に出て欲しくないな」
 私は聞こえないふりをした。今日は、何も無かった。何も無い明日のために、私は強く目を瞑った。

 

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