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短編小説 『ビー・マイ・ファースト』

 あれから三人目の、今現在の恋人は見聞を広めることに貪欲で、読書家な女性だった。
 
 僕は付き合う女性の前で必ず呟く言葉がある。その言葉に大きな意味は無いけれど、なんとなく響きが愛くるしく、そしてその言葉に対する恋人たちの返答が、僕の寂しさを拭ってくれた。
 
 またなんとなく、う歌でも口ずさむかのようにその言葉を呟くと、読書家なその恋人は、僕の言葉に過剰なまでに胸をときめかせた。
 
「アナタのことを私は、もっと無知蒙昧でドライな人だと思ってた」

 恋人のその言葉に僕は、「それは俺をみくびりすぎだよ」と苦笑いしながら答えた。なんてことのない言葉にどうしてそこまで反応したのか尋ねると、恋人は軽やかにソファから立ち上がり、自室から一冊の文庫本を持ってきた。また乱暴にソファに腰掛け、僕に肩を寄せて文庫本の裏表紙のあらすじを指でなぞりながら、「この小説に、アナタの言ったセリフが出てくるよ」と、頬を紅潮させて言った。
 
 僕は恋人から文庫本を受け取り、パラパラとページをめくった。


☆
 
 僕には昔、友達がいた。ただただ必要になった時にビジネスホテルの一室で落ち合い、余計なことは何もせず、寄り添って眠るだけの女友達。僕らの体の曲線は神秘的に噛み合っていた。決まって体の右側を下にして、顔を合わせずに、同じ方向を向きながら下着姿で寄り添う。彼女の背中からお尻、太ももの裏のラインは、僕の胸からお腹、太もものラインに1ミリの隙間もなくフィットした。
 
「ねぇ、サトシ、って呼んでも良い?」

 唐突に彼女は言った。どこからそんな名前が出てきたのか分からずに、僕は「なんで?」と一言だけしか返せなかった。

「『ウォーターボーイズ』『ドラゴンヘッド』『ジョゼと虎と魚たち』『シクスティーナイン』『春の雪』。あ、あと『世にも奇妙な物語』の『美女缶』」

 彼女が口にしたそれらが映画やドラマのタイトルであることはすぐに分かった。そして全ての作品に共通して出演している俳優の名前が、彼女の言うサトシだった。
「なるほどね」と、僕が小さく笑いながら返すと、「えへへ。キミの顔、ほんのちょっとだけ彼に似てる」と、照れたように掛け布団をギュッと抱きしめた。

「じゃあ俺は、サトミ、って呼んで良い?」

「どうして?」

「好きなAV女優に、キミは少し似てる。でもキミはその人よりずっと清楚で、綺麗だよ」

「え〜、なんかフクザツ。でもまぁ、響きが気に入ったからオッケーです」
 そんな風に僕らはいつも、眠気に抗えなくなるまでなんでもない話をした。仕事のことは何も話さず、小・中学生の頃に流行っていたゲームや漫画、ドラマや音楽の話をしたり、私はこんなにモテた、俺はサッカーで県の選抜に選ばれそうになった、なんて風に過去を自慢しあったりもした。そうしながらスマホから音楽を流して、センチメンタルな曲を聴きながら、彼女は目を潤わせたりもした。

「私、宇多田ヒカルの曲の中ではこれが一番好き」

「名曲だよね、俺もめっちゃ好き」

「『いつか結ばれるより、今夜一時間会いたい』って、これ私たちのことを歌ってない?」

「あはは。よくある自己陶酔だね」

 もちろん僕は男だから、抑えられない欲情をさりげなく彼女に伝えようとしたこともあった。でも彼女は僕と交わることを頑なに拒んだ。僕の前では、彼女はどこまでもカマトトぶっていた。

「ベタなこと言って良い?」

「良いよ」

「私、初めては好きな人って決めてるの」

 僕はその時だけは、ほんの少し苛立ちを覚えた。それでも、その彼女との距離感に感謝している部分もあった。何も背負わずに、何も満たさずに、ほろ酔いでいられる時間が、僕を何者でもなくさせてくれたから。


 
 有名私立大学を卒業してから入社した番組制作会社ではその時、大きなゴールデン番組を請け負っていた。人の懐に入り込むことが得意だった僕は、入社二年目にして、その番組の忘年会に呼んでもらえた。その忘年会でサトミと出会った。
 彼女と僕は同じ年齢だった。それはずっと前から知っていた。二年ほど前から事務所がプッシュし始めた彼女のことを知らない二十代などこの国に存在せず、そんな彼女を含めた芸能人が集まる忘年会の席に自分がいることに胸が高鳴った。

 そうそうたる芸能人達とすでに交流のある先輩の後について挨拶をして周る中で彼女のところにに行くと、丁寧に作り上げられた嘘の笑顔で、彼女は明るく挨拶を返してくれた。明るい金色の髪の毛は顎の高さで外に跳ねていた。漫画のように大きな目に、筋の通った高い鼻。薄いピンクの唇は、真っ白な肌のおかげで全く埋もれていなかった。

「お若いですね」
 近くで聞くと、彼女の声は鈴の音のように軽やかで繊細で、なのに耳にはっきりと届く不思議な声だった。

「はい。いま24です」

「え?私タメですよ」

「そうですよね。90年生まれです」

「えぇ〜!良かった〜!この中じゃ私一番年下だから、同い年の人がいてなんか安心しました!」

 外向けの明るい声に、洗練された表情。きっと彼女の網膜に僕の姿なんてちっとも焼きついていなかっただろう。

 という訳でもなかったらしい。僕に顔だけしか向けていなかった彼女は体ごとこちらを向き、テレビで見るよりも幼い、というよりも無防備でどこアキの抜けた笑顔で話してくれた。前回の収録でうまくいかなかったことや、共演していたアイドルと仲良くなったことを話す彼女を見ていると、大学のサークルの女子達となんら変わらないなぁと、どこかで安心した。

「なんかやっぱこの業界の人って、裏方さんでもみんな顔良いですよね?」

「え?それ俺のこと言ってくれてます?」

「さぁ、どうでしょうね」

「え〜、ちょっともう一回言ってくれません?ちゃんと耳に焼き付けたいんで」

「だるっ。てか、敬語やめません?」

「え?」と返した時には、僕や、面倒を見てくれていた先輩なんかよりも遥かにえらいプロデューサーが彼女の肩を叩いていた。僕は素早く背筋を伸ばして正座した。プロデューサーはだいぶ酒が回っているらしく、下っ端の僕にも気さくだった。そのプロデューサーに挨拶をしてから、僕はすぐに席を離れた。
 
 その時の、離れていく僕を見送る彼女の表情が、少し寂しげに見えたのは、僕の痛い勘違いだと思い込んでいた。

 
 それから半年ほどして、気がついたらこんな関係になっていた。週刊誌なんかに載ったら一大事だけれど、僕らはそんなこと気にしなかったし、何より彼女は潔白だった。


「サトシは、今まで何人の人と付き合ってきた?」

「高校から大学二年まで付き合ってた子が一人。それから、一年前まで付き合ってた子がいる」

「ほうほう。標準的かつ健康的な数字ですね」

「サトミは?」

「私は一人もいないよ。高校の頃からオーディションとか受けてたし、高校卒業してアルバイトしながら生きていかなくちゃいけない時期も長かったから、余裕なかった」

「でも、モテたんでしょ?」

「うん」
 彼女は「てへへ」と照れながら、彼女の体を覆う僕の手を、両手でモミモミとマッサージした。

「ねぇ、こっちを向いてくれない?」

「えぇ〜?向き合うと寝つきにくいんだもん」

「ちょっとだけだから」

 僕がそう言うと彼女は、「よいしょ、よいしょ」とあざとく声を出しながら体の向きを変えた。相変わらず体はくっついていて、顔を僕の胸に埋めていた。
 
 いつも毛先が外に跳ねている金色の髪から甘ったるいシャンプーの匂いが漂う。うなじから背中にかけての背骨の隆起を手のひらでさすった。頭を優しく掴んで、少し強引に顔を上げさせて彼女の目を見ると、「乱暴なのやだ」と言いながら笑っていた。
 大きな黒目。高い鼻。ずっと抱き合ってると、僕の熱で溶けてしまうのではないかと不安になるほど冷たくて白い肌。細いのに、骨から容易くほぐれ落ちてしまいそうなほど柔らかい肉。僕はたまに彼女の肩に優しく噛み付いたりもした。その度に彼女はくすぐったそうにモゾモゾした。

「ごめん。仕事の話をして良い?」
 
 彼女は僕の目から視線を外して言った。

「凄〜く嫌だった撮影の話」

「…何があったの?」

「はじめての下着と水着の撮影の時の話。それまでずっとNGにしてもらってたんだけど、いつの間にか脱ぐ仕事が入っててさ。まぁ、もうハタチなんてとっくに過ぎてるし、賞味期限のある仕事だから、しょうがないかと思ったんだけどさ。でもいざ撮影が始まるとね、普段の女性誌とかの撮影の時には来ないような、事務所のお偉いさんとか、どこの誰かも知らない偉そうなおじさんとかがいっぱい来てね、品定めしてるような目で見てきたの。そういう人たちのテカテカした朝黒い肌が、本当に気持ち悪かった。
 別の日の撮影なんかね、化粧品のモデルの仕事だったんだけど、上半身裸になって、腕で胸を隠して撮影したんだ。お前がいなくても絶対に撮影成立するだろ、っていうような偉そうな豚がいっぱい見にきてた」
 
 僕は優しく頭を撫でた。彼女は僕の胸に、ぐりぐりと頭を埋めていた。
「君のことをなんだと思ってるんだろうね、そういう奴らは」

 彼女は小さく「うぅ」っと、唸った。

「仕事、嫌になったりしないの?」

「でも、このために高校の頃から頑張ってきたから。辞めるとは、言えないよ」
 
 小さなため息が、僕の肌を滑っていった。

「サトシの白い肌は、すごく綺麗」

「ありがとう。褒められたのは初めてだ」
 
 彼女はそれからしばらく何も言わなかった。宇多田ヒカルのアルバムが終わると、僕は次にラブ・サイケデリコのアルバムを流し始めた。

「あの曲が良いな」
 
 彼女は小さく呟いた。僕はスマホをいじって、彼女の好きな曲を流した。
「本当に君は、悲しい曲が好きだね」

「普通の人があるあるネタで笑っちゃうのと一緒で、私は、自分の半径1メートルで起こっている様なことにしか心が動かないの」
 
 今夜の彼女は、なんだかいつもよりも体が熱かった。そして、何かを言いたげな、おかしな言い回しが多かった。
 
 僕は彼女のことをずっと見つめていた。
 僕の胸に埋めていた彼女がふと僕を見上げた。

「…思い出さないで欲しいのです」
 
 まるで初めての芝居の台詞を読み上げるかのように、恐る恐る彼女は呟いた。

「え?何を?」

「私のことを」

「…きっと俺たちのこんな関係が終わったとしても、俺はたまに君のことを思い出すよ」
 
 僕があくびをしながらそう言うと、彼女は「ひんっ」と変な嗚咽を漏らした。

「え?どうしたの?」
 
 彼女の前髪を払うと、瞳からポロポロと涙が流れ、鼻が赤くなっていた。
「…ごめん。ラブ・サイケデリコが…」とごまかしながら、彼女は僕の胸に顔を埋めた。

「あはは。感受性だるっ」

「ひどい」
 
 彼女はまた体の向きを変えた。
 
 いつもよりもずっと強く、僕たちは体をくっつけあった。

「サトシは、それで良いよ。ありがとね」
 
 しばらくすると、抱きしめた彼女から伝わる呼吸が、徐々に静かになっていった。
 
 その日を最後に、僕たちが会うことは無かった。

 

 それから数日後の朝のワイドショーで、サトミが芸能界を引退することが突如発表された。そして彼女が引退を発表した次の週の週刊誌にて、サトミが最後の夜に僕に打ち明けた話と同じことを、彼女と同じ事務所のモデルが暴露し、事務所を移籍した。ほどなくしてその事務所の所属タレントたちによって上層部の枕営業および、その中での加虐嗜好、被虐嗜好じみた行為の強要の実態が暴露され、会長含む上層部の連中は辞任し、その事務所は他事務所に吸収された。
 
 何年か前、サトミの仕事が、ある時期を境に急激に増えたのも、間違いなく枕営業が絡んでいた。
 
 それ以降もう、サトミには連絡がつかなかった。僕たちは恋人だったわけではない。けれど、体の関係でもなかった。友達、というのもしっくりこない。
 
 どこかに忘れ物をしている気がするのに、何を忘れてきたか思い出せない、そんな風なはっきりとしない喪失感がむず痒かった。悲しめるほど、後悔できるほど彼女の人生に干渉していないことが、ただただ虚しかった。




☆
 
 僕は文庫本をパラパラとめくった。小説なんて、暇を持て余していた大学時代以降、全くと言って良いほど読んでいなかった。斜めに読んでいくページの中で目につく文字と、裏表紙のあらすじを照らし合わせてストーリーをなんとなく理解していく。
 
 恋人はそんな僕の横で、同じようにページを眺めていた。
 
 残りのページが少なくなってきたと気がつき始めた頃、恋人が僕の腕を優しく掴み、「ほら、このページ」と囁いた。
  
  思い出さないで欲しいのです
  
  思い出されるためには
  
  忘れられなければならないのが
  
  いやなのです

 サトミの髪の匂いが香った気がした。
 
 サトミの肌の冷たさが手のひらにある気がした。
 
 サトミの声を聞きたかった。
 
 あぁそうか、僕はあの時彼女に、君のことを忘れる、と言ってしまったのか。そしてサトミは、「サトシは、それで良いよ。ありがとね」と言った。僕が、ああ言うように仕向けたのだ。
 
 でも本当は、僕に自分のことを忘れて欲しくなんて無かった。思い出す暇もないほど、常に、心の中に自分を思い描いていてほしかったのだ。
 
 それでも忘れて欲しかったのは、自分自身を、不潔だと思っていたからかもしれない。彼女は嘘をついていた。仕事を貰うために純潔を手放した自分を、僕に知って欲しく無かった。だから彼女は頑なに交わることを拒んだ。
 なんて不器用なんだ。その恥じらいこそが、その優しさこそが、この世の一番の純潔だと言うのに。もし君が僕に、あんな一口サイズの闇ではなく、本当の秘密を打ち明けてくれていたなら、僕は喜んで君を愛していたのに。
「え?そんなに感動したの?」
 
 隣に座っていた恋人は、子供をあやす母親のように優しく笑いながら僕の肩を撫でた。
 
 もっとサトミと話していれば、変えられたことがあったのだろうか。でも彼女にとっては、もう変えられないもの、失ってしまったものの方が重く、痛く、許しがたいものだった。
 
 涙が止まらなかった。呼吸は安定している。ただただ涙が目尻から静かに流れ落ちる。恋人は僕をそっと抱きしめた。暖かかった。僕がもう思い出すことのないあの子の、優しい嘘がくれた暖かさだった。
 
 どうか今、優しいあの子が、嘘をつかなくても良い生活を送っていますように。僕はただただ、そう祈り続けた。
 
 
 
 
 
 
 

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