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雑感『哲学とは何か』を読みつつ考えたことなど

ドゥルーズ・ガタリの『哲学とは何か』(財津 理訳)がとてもよく、「おっ」という単語を見つけては大層おもしろがっている。
(単行本は、戸田ツトムさんの装丁がメチャクチャ格好良くて、アメジスト・ドームやモルフォ蝶のような、深くて妖しい光を発しているのに夢中である)

哲学とは何か。哲学とは手づくりするものだ。哲学とは、変わってゆくものだ。哲学とは、わたしとともにあるものだ。哲学とは、勝手に動き出して勝手にしゃべるものだ。

仮にこのような「こたえ」を「問い」の後に続けてみる。すると、「こたえ」はそのまま問いになり、問いは「こたえ」を、もとい、私もろとも、別の世界に連れていく。

そうした「仕掛け」をいっぱいにばら撒かれた文章というものがある。そこで、受け手は、「いかに余すところなく仕掛けに引っ掛かるか」がきわめて重要であるし、試されてもいる。この本は、そうした仕掛け言葉が溢れているように思う。


本書曰く、「哲学」という全体は、「内在平面」「概念」「概念的人物」の三輪のうごきの綾の中で、瞬間ごと色を変え形を変えてぐるぐる回る。

内在平面とは思考の前提、条件であり、図と地の関係で言えば「地」に相当する。対して、考えられたものである概念は「地」に対する「図」といえるだろう。

概念的人間は、両者を結びつけては切断する媒介機能、あるいはそれに人称性を与えたもの、と読める(天使みたいな感じ)。

ただし、重要なのは、これらは固定的に定められるものではなく、相互限定されながら、その都度切り出されており、不断に流動しているということだ。

哲学は或る恒常的な危機の中で生きているのだ。平面の動き動揺にあり、概念の振る舞い突風に、人物の営み痙攣にある。こうした三つの力域間の関係こそ、問題提起的なものなのである (『哲学とは何か』, p.120)

「概念として指定しうるあらゆる表面や容積とはつねに他なる無限なものに仕立てあげているのは、まさにそのフラクタルな本性である。それぞれの運動は、平面全体を走り抜けるや、直ちにそれ自身に回帰し、それぞれおのれを折り畳み、またそればかりでなく、他の幾つかの運動を折り畳み、またそれらに折り畳まれるがままになるのであって、さらには、無限に折り畳まれ直されるそうした無限性のフラクタル化のなかで、いくつものフィードバックを、いくつもの連結を、いくつもの増殖を産み出すのである。(同上, p.58)

図と地はそれぞれ独立してあるわけではなく、その都度、互いのあり方を根拠づけている。その意味で、内在平面と概念が「同一平面」(図と地を統合してあらわれる「見え」)に位置付けられるということが言えるのである。

これらの用語群は、純粋な「こと」「もの」的な表現で「強いて言うなら」程度の話なのであって、大真面目に受け取るとかえって身動きが取れなくなると思う。大空にふらふら、ゆらゆら浮かぶ凧のような気分で、話半分のまどろみのうちに聞いていたい。


さて、ここで特に注目したいのは「概念的人物」である。 

ドゥルーズ・ガタリはこれを「白痴」と言い換えている。それは、「思考することを欲し、[自然の光]によって、自分自身で思考する者」(p.90)として不条理に向かって突き進む存在である。あるいは、「狂人」とも。

おそらくこれは、永井均さんがいうところの「超弩級の哲学的化け物」(=西田幾多郎)であろう(これに関しては以前こんな記事を書いた)。底抜け・天井知らずに不器用で、生きるのが下手、狂おしくダサいのである。

「ダサい」とは、要は「A=A」が成立しないということだ。
「私は私である」が自明化しない世界において主語としての「私」を不問とし、目的語的に「私」を行為する時の意図と実現の間の埋まらないズレがダサい。しかしながら、ダサいからこそ、世界は、私は、生きるに値するものになる。どうにも生きないことには、ダサイも何も生じなければ、変化しようもないからだ。
したがってその意味で、「ダサい」絶対的な存在肯定、愛なのである。「そのままでいいよー」と、ぎゅーっときつくつよく、抱きしめたいのである。

実存が大きな弧を描いて空振るとき、手を伸ばした先で掴むのは常に虚空である。

しかし、わたしは、触れうるものが儚いあぶくであることをわかっていて、足掻くこと、思考すること、「語り直すこと」をやめない。。

それが「おもしろく」「美しく」あるかぎり、あこがれに頓挫することを、やめられないのである。


我々は常に、何かしらの超越化序列的中心化(一局を特権化して、ばらばらなものをそこに向けてまとめる上げること)を経ることで特定の価値宇宙=準拠世界に安んじることができている。しかし、「超弩級の哲学的化け物」=「概念的人間」はそれができない。

むしろ、彼らは「A=A」に自己が閉じるのを嫌うため、(やっているように見せかけて)実はそもそもやるつもりがない

あるいは、マジョリティに合わせて一時は頑張るのだけれども、「無理だこれ」と悟ると、開き直る傾向があると思う(開き直るまでに、結構しんどい思いをする)。どうやら、もともと「一つの存在者」に落ち着くことができない仕様になっているらしい。それに気づかず、出来合いのアイデンティティを取っ替え引っ替えする、無間・ウィンドウショッピングに嵌まると苦しいのだ。

そこで「概念的人間」は、一つの価値に埋没しない(できない)代わりに何をしているかといえば、ひたすら「まとまらなさ」にジタバタしている

ジタバタすることは同時に、思考すること、創ること、対話すること、広くいえば哲学をすることの動力になっている(レヴィナス的にいえば、「語り直すこと」。語り直すこととは「複写をつねに地図にもどさなくてはならない」(『千のプラトー』, p.26)ということ)。


ここでいう「ジタバタすること」はドゥルーズ・ガタリの言葉で「地図作成すること」といってもよい。
まったくオリジナルな、自分でもどこにいくかわからない地図。嫌だったことと嬉しかったことをピンクのマーカーで十字にスクランブルにして、見た映画の半券を貼って、好きな人の名前を書いて、夢の話と日記をまぜこぜに、色々書き加えているうちに、紙はヨレヨレになり、コーヒーをこぼし、誰かに穴を開けられても、穴を縫い付ければ、新しい近道ができる。そういう自在な自分地図。

「地図はそれ自体、リゾームの一部分を成しているのだ。地図は開かれたものであり、そのあらゆる次元において接続可能なもの、分解可能、裏返し可能なものであり、絶えず変更を受け入れることが可能なものである」(『千のプラトー』, p25)



なお、レヴィナスが、『存在の彼方へ』第1章において「悪しき翻訳作業」と言っていたことは、言葉や意味から滑り出る「なまもの」である地図やリゾームを、一つの全体性のなかで「複写」可能なものに失墜させるということだろう。
ドゥルーズ・ガタリの文脈で言えば、「全体性」とは精神分析の理論やシニフィアン、資本にあたるが、ここでのレヴィナスはさらにコアな段階を指して「「私」が「私」と言うことができるか否か」というピアノ線上の綱渡りような、極めて脆くて危うい事柄を言っていると思う。

私が昔の記事で、「層状に重なる地獄のようなダサさの永久機関」ないし「ダサさは手前に遡行する」といった表現で言わんとしたのはこのようなことである。

要するに、「ズレ」にも規模やレベルで、程度に違いがある。
レヴィナスの「ズレ」の根深さは如何ともしがたい。「私が私であること」が、生きても死んでも絶対消えないタトゥーみたいになっている。何でもかんでもリビドーに還元することを批判する以前に、かくいう「私」に「わたし」を還元する存在論的暴力が常に内在している。「私」は「わたし」の生き埋め瀕死体がすぐ下に埋まった地面に立って、ものを考えたり、ことばを話したりしているのである。
「世界」や「文化」や「言葉」など外在的な価値基準の手前に、より根源的な身体感覚や生理機能が絶えず「分子的」なものを「モル的」な形に粗く方向づけて、オーガナイズドしているともいえる。

「ダサさが遡行する」とは、いうなれば、「私」と主語を明言することを引き金として、内側へと、手前へと「ダサさ」(ズレ)が食い込む形で内臓をえぐるということだ。
ただし、ただ侵食されることに悶えているだけではない。えぐられた反動で、超越することができるのが、「超弩級の哲学的化け物」=「概念的人間」の真髄、真骨頂である。内在と超越は対立する二項ではなく、内在が超越であり、超越が内在なのだ。

「[内在平面ソノモノ]は思考におけるもっとも内奥のものでありながらも、絶対的な外である。絶対的な外とは、あらゆる内面的世界よりもさらに深い内部であるが故に、あらゆる外面的世界よりもさらに遠い外である。すなわちそれは、内在であり、[《外》としての内奥、息詰まる貫入へと生成した外部、両者の相互反転]である、[内在]平面のたえざる行ったり-来たり〉ー無限運動。それはおそらく、哲学の至高の行為である」(『哲学とは何か』,p.88)

内在と超越の行ったり来たりーでふと思い出したのは、『ピノキオ』でピノキオが大鯨に飲み込まれ、そこから体内で焚き木をし、鯨にくしゃみをさせることで脱出する、というクライマックスシーンであった。

一旦ある特定の領土に沈潜、内在して、内側からモリか何かで思いっきり一突きし、みたこともないような姿で再びあらわれ、宇宙もろとも創り変えるようなことが、創造行為において不可欠である。それは限定された外延が内包を限定しなおす生きた運動であり、西田のいう「生命の流」であって、この前書いた記事の延長線上でいえば「遠足のおやつという内包を刷新する異質外延:バナナ」である。


ところで、レヴィナスは、私「である」とどうしても言えない地点(私でも、あなたでも、誰でもある地点)で宙ぶらりんになっている状態を恐れつつもどこかで愛しんでいるのではないかと思われてならない。

その愛おしさの出処を想うとき、「もともとそうであった」という始原的な懐かしさの感覚があるためではないか。
私にとっては、「ある」と「存在の彼方」は同質の溶液の温度や粘度の違いのように感じられる。例えば、葛湯を多い水で溶けば「甘さ控えめでさらさら」になり、濃く溶けば「激甘でドロドロ」になる。両者の区別を明確にするのは難しいが、「存在の彼方」は前者で、「ある」は後者のイメージなのだ。これらは、「実存の濃度」の違いでしかない。


ドゥルーズ・ガタリに戻る。「実存の濃度」に関わるような部分を、『千のプラトー』から引いてみよう。

「リゾームには始まりも終点もない、いつも中間、もののあいだ、存在のあいだ、間奏曲 intermezzo なのだ・・・樹木は動詞「である」を押し付けるが、リゾームは接続詞「と・・・と・・・と・・・」を生地としている。この接続詞には、動詞「である」をゆさぶり根こぎにするのに十分な力がある」(『千のプラトー』p.38)

「と・・・と・・・と・・・」からなる領域をビジュアル的に展開する。きっと、「ある」のような世界が立ち上がるはずだ。

ブラウン管テレビの砂嵐画面を空間全体にあまねく拡張し、一切の上位概念に帰属しないばらばらの刺激群を、直に脳に皮膚に内臓に浴びるようなイメージ。
そこで自己を粒子状に解き、「と・・・」の一つに紛れて浮遊してしまえば楽なのだが、無理に「である」を維持しようとすると、うちとそとの力の背離があまりに激しくて辛いだろう。足元からドロドロに溶け出す身体を精神力で念じて固めるようなものである。

レヴィナスの「基体化、実詞化(hypostase)」は、心もとなく浮いている身体の浮力が急に一気に全て重力に置き換わり、海の底に沈んでいって、泥のようにまとまる(「私であること」をやり過ごすために重い毛布にくるまってねむる)というイメージがずっとある。このことと、ドゥルーズ・ガタリの「地層化」を並べて考えることもできそうである(基体化した存在者が層状に積もると、重く鈍く、かさばる感じになっていって「実存の疲労」になる)。


さらには地図にめぐらす抜け道、「逃走線」とは「概念的人間」がしっちゃかめっちゃかに領土を引っ掻きまわしていった軌跡(わだち)なのではないだろうか。

それは例えば、原稿用紙のマスを完全に無視して四方八方に飛び交う、絵でも線でも記号でもない、何にも似つかない電話中のらくがきのような何か。
あるいは、反省文を書けと原稿用紙を渡されたものの、原稿用紙のマスという暗黙のコードの暗黙性を無自覚に抜け出てしまい、マスなどそもそもなかったかのように大いにはみ出し、しまいには適当に折って揚げ物の敷き紙にし、気づいたら反省文がおいしい天ぷらになっているようなことなど。むしろ、頑張って書いたところで大して読まれないくらいなら、先生を招いてお詫びの揚げ物パーティをした方が、なんだかんだで誠実かもしれない(一人暮らしの先生はなかなか家で揚げ物などしないし)。
ガタリが勤務先のラボルト病院でもくろんでいたことは、こういうことなのではないかとぼんやり考える。

だが、広い意味でダサくあるのは一朝一夕では難しい。というのも、なぜ人々が特定の価値基準、金とか地位とか原稿用紙とかいう均質化された価値にしがみついてしまうのかというと、とてもじゃないけどダサさに絶えられない(あるいは、イケていたい)からだろう。

特定の価値の超越化によって権力が一部集中すると、全体が秩序化、統率されて一応構造が安定する。つまり、「私は〇〇の□□です」などとはっきり言い切れる状態として、表層的にイケている感じになる。

クシャクシャになって地面に拡がったハンカチを、上から親指と人差し指でつまみあげると、三角形の頂点という超越的な項ができることで、全体の形が綺麗にまとまるのをイメージしてほしい。「私」をそのようなものととして捉えると、どこにも留め金がなく、ほどけるばかりで「ままならない」状態に対して「私」が体裁上整うことがわかると思う。
別につまみ上げる項の内容(アイデンティティ)はなんでもよいが、それが枷になって自縄自縛になることと、一見イケていることは表裏一体である。イケイケにイキっている時はよいのだが、ちょっとした衝撃で、摘んだ指をぱっと離せば、それは瓦解してしまう。

そこで、思いっきりダサくなる方向に吹っ切れることができればいいが、いかんせん築き上げてきた(層状化した)プライドがそれを許さない。結果として単にカッコ悪く、悲惨な感じになってしまう。

言い換えれば「イケている」状態とは、構造が固まること、停滞するということでもある。ドゥルーズ・ガタリの言葉では、「テリトリー(領土)化」である。我々は知らず知らずのうちに与えられた超越化の枠組みに縛り付けられているが、それによって「私は私である」という同一律がとりあえず成立するようになる。予定調和に閉じられたセカイでのみ、「イキれる」のは皮肉なものである。

当然、「思考」というものもこうした実存の在り方に深く関わっている。「哲学」も然り。では、『哲学とは何か』において、凝り固まった領土内でなされるテツガクを、ドゥルーズ・ガタリはどう評価しているのか。

「わたし達が、哲学書の多くについて、それは誤っているという言い方をしないのは、そう言ったところで何の意味もないからである。むしろ私たちは、それは重要でも面白くもないという言い方をするだろう。なぜなら、まさに、その多くが全く概念を創造せず、思考のイメージをもたらさず、あるいは苦労の甲斐ある人物を産み出さないからである」(『哲学とは何か』, p.120)

ごく端的に「つまらん」「重要なのそこじゃないから」とバッサリいっている。
脱テリトリー化と再テリトリー化の往還がない、「内在平面」「概念」「概念的人間」の動きがない思考は思考とも呼べない。やはり、「言葉の出来レース」の応酬は、新しいものを何も産まず、文字通り「このようにイケているわたくし」の保身に入ってしまうのだろう。それは良い悪いとか、正しいとか間違っているとかの判断ではなく、ただただ「つまらない」。あまりにも必要十分かつ的確な指摘で、大いに共感してしまう。

そろそろまとめに入ろう。
読んでいて一貫して考えていたのは、なんにせよ目に見えて現にここにある「それ」にいかに無限の潜在性を透かすかが重要であるということだ。「見えるもの」に「見えないもの」の気配を感じ取ってどぎまぎする、心のセンサー。

それでいうと、アコーディオンのような「じゃばら」構造は非常に示唆に富んでいる。最後に「じゃばら」に即して自己を考えてみることにする。

「じゃばら」は、平面的な一点の内側に、手前に、世界や意味が垂直に畳み込まれている。
じゃばらの「折り」を緻密に微細にしていくほど、「それ」が持つ潜在的な意味濃度(強度)は深まり、味わいを醸し、凝縮されてゆく。そのような、底抜けのブラックホールが足元に控えていることも知らず、今日も私は「私」と言う。
その重みと裏切りと責任と、なぜか、あれでもそれでもなく「これ」であることの重大さと奇跡を自覚しなければならない。その時、「私」という平面上の一点は多重にぼやけ、ずらされて、地面のじゃばらの起伏が浮き上がってくる。

また、じゃばら構造は内側に生地を織り込むことで、遠い距離を無効にすることができる。一見して無関係なもの同士を「横断的に」いかようにでも繋げることができてしまうのだ。

「地図作成」には、こうした「私のじゃばら」を広げたり閉じたり、捻ったり、折り目の細かさを変えてみたり、内側を細工して部分的にかさばるようにしてみたり、気まぐれに絵を描いてみたりすることが含まれている。それ自体といってもよいかもしれない。流れ去ってゆく日常の景色に立体構造のじゃばらを透かしみると、世界は生成変化の方向に動き出すはずだ。



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