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木を見る西洋人 森を見る東洋人

先日、日本人と外国人の両親をもつ20代の方と会う機会があり、グループの中での会話だったが少し話ができた。彼は流暢な日本語で住んだことのある海外での生活を色々話してくれた。
そういうことがあり、日本人以外の人はどんな考えを持っているのだろうかと気になってこの本を読んでみることにした。

心理学の大学教授である著者が様々な実験や日常生活の中で垣間見える事例を挙げながら、東洋人(主に日本・中国・韓国人)と西洋人(主にアメリカ人)にどのような思考の違いがあるのかを述べている。


まず思考の違いには社会的背景が関係しているといい、西洋は都市国家で狩猟採集民かつ産業社会の民であったため個々が自立しあまり協力を必要としてこなかった。対して東洋人は農耕民であったためみんなで協力し和を求めてきたという歴史がある。このように人間の思考は古代から各々の場所で育まれてきたということに、現在でも思考の違いが存在しているという説得力があった。


西洋人と東洋人の思考の違いを端的に表すと、「対象物に注目し、個々を重視し、議論しあいながらものごとを処理していく」のが西洋人で、「実体をとらえ、関係を大事にし、中庸を目指す」のが東洋人だという。
挙げられていた事例の中で気になったものをいくつか紹介する。

・子どもと母親のおしゃべりの場面
 西洋「これはクルマ。クルマをみてごらん。かっこいい車輪がついてるね」→対象物について話す
東洋「ほら、ブーブーよ。はいどうぞ。今度はお母さんにどうぞして。はいありがとう。」→礼儀などの社会的なことを教える。

これは指摘されてから気づいたが、確かに日本人は物そのものについてあまり連呼しないなと思った。それよりも「みんなで遊んでね」とか「こうしたら危ない」など教えているなと思い当たった。

・「パンダ、サル、バナナ」の3つのうちどの2つがより近いと思うか
 西洋:パンダとサル(どちらも動物だから) →同じカテゴリー
 東洋:サルとバナナ(サルはバナナを食べるから) →意味のある関係

この問いの答えを見る前に自分は一瞬で(サルとバナナでしょ)と思ったが、それが東洋的思考だったとは驚いた。よくよく考えてみれば同じ動物という枠で見るほうが正しいのかもとも思ったが、正解はなく考え方の違いなんだなと改めて実感した。

・ある事件の報道について。自分の抗議が通らず、その後の仕事でも失敗したその人は、抗議を処理した人や居合わせた人々を射殺し自害した。
この時の報道内容は、西洋は個人の特性(性格上の欠点や考え方)に着目していたのに対し、東洋では周囲の状況(人間関係や社会的プレッシャー、居住環境)に着目していたという違いがあった。

同じ事件を報じているにもかかわらずその内容が全然違うということに驚いたし、もしかしたら自分はある一方向からでしかニュースを見ていないのかもと少し怖くなった。できれば両方の側から見て考えたほうがよりニュースを理解できるだろうし、そうしたいと思った。


そしてエピローグでは、著者はこの思考の違いは共存できるのかと問う。
現代は様々な方法で異なる国や文化と交わることができる。実際に行くだけでなく、動画を見たりSNSを通じてメッセージをやりとりする中で互いの文化に触れ異なる思考にも触れることになる。そういったことで思考の違いを理解しながらお互いの良い部分を活かしていければ、よりよい社会が気づけるのではないだろうか。

著者の最後の一言がとてもいいまとめだなと思った。

シチューの具も同じである。それぞれの具はたしかに見てそれとわかるが、どれももとのままではなく変化している。だからこそシチューなのである。
このシチューのなかに、あらゆる文化のいちばん美味しいところが入っていることを望むのは、あながち過ぎた願いとはいえないのではないだろうか。


出典:
『木を見る西洋人 森を見る東洋人  思考の違いはいかにして生まれるか』
リチャード・E・ニスベット著、村本由紀子訳
ダイヤモンド社

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