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中編「他人の膿」⑶

中学生の頃、私は学校の図書室にいた記憶が殆どだ。元々、別に本が好きだったわけではない。図書室には、たくさん人がいるのに沈黙が許されたからだ。当時の私は、思い返すと学校で一度も言葉を発したことがなかったんじゃないかと思うくらい静かだった。クラスの人が私を密かに噂しているのも知っていた。言葉を知らない女の子、喋らないんじゃなくて喋れないんじゃないの、そういったひそひそ声を私は常に感じていた。私の身体は痣だらけだったが、さすがのアイツも顔だけは殴らなかった。だから傷は特に目立たなかったし、只々喋らない女というのがクラスの認識だった。先生も喋らない私を心配して、何度も声をかけてきた。放っておいて欲しかった。
だからこそ静かでいることが許される図書室という場所は好きだった。でも確かに学校も家も基本的に言葉を発しなかった私が今普通に喋れているのはおかしな気がする。この世はおかしなことだらけである。
私は図書室での手持ち無沙汰を解消すべく、たくさんの本を読んだ。学校に置いてある本の物語は希望に満ち足りていた、勇気に溢れていた。確かに素敵な話だなと思っていたけれど、私はその主人公の輝きの裏には必ず悲しい想いや辛い想いをしている人がいるんだろうなと思っていた。例えば、冒険をメインとした話では悪役や魔物は当然のように倒されてしまう。でも私は悪役と魔物の家族のことを深く考えたし、恋愛をメインとした話では失恋した友人の気持ちを考えたし、とても捻くれていた子供だった。
そしてその捻くれ方は異常で、私は本を読んだ後にその作者について深く調べた。作者を好きになったからではない。どんなに素敵な希望に溢れる物語を書いていても、その作者の醜い部分が必ずあると思い、それを見つけようとしていたのだ。そして案の定、その人物がラジオだったりのメディアで偉そうな態度をとっていると、幻滅して、勝手に裏切られた気分になった。
音楽を聴いても、その作詞者について深く調べるし、どんなにヒットしたかっこいい曲を聴いても、この人はこの歌詞を書いている時、どんな顔しているのかな?きっと「俺、超かっこいい歌詞書けた」とか自画自賛して変な顔しているんだろうなと想像して、その人についての粗を探そうとする、とても意地の悪い性格だったのだ。
でも今思うと、それは冷めていたのとも少し違う。心の奥では信じたかったんだと思う。そんな素晴らしい作品を作った人物が、醜くない素晴らしい性格だったら、世の中捨てたもんじゃないんだろうな、と。
でもメディアに出ている人物は、自分が好きで、注目されたくて、自己顕示欲の塊なのだから、大体は偉そうな人しかいないんだろうと悲観していたのも事実だった。
だからそんな自分を主張する仕事は、きっと私には元々向いていなかったのだ。
この世の中は醜いもので溢れているし、捨てるに値するもので溢れている。そんな中で自分は誰にも迷惑をかけずに生きて、誰にも気にもされずにお婆ちゃんになって死ねれば、精一杯の幸せなんだろうって思う。

「私ってそんなに才能ないんかな」
「また急にどうしたんだいワトソン君」
アプリで書こうと思っていた内容はやっぱり部室でこの子に聞いてもらう。
「昨日の夜、嫌いな人と飲みに行ったんだけど」
「嫌いな人に誘われたら断りなよ」
「ごもっとも」
昼間からこんな埃っぽい部屋にいるよりも、外に出て井の頭公園のカモメボートにでも乗っている方がよっぽど健康的で魅力的だろうに。
「んで、才能がどうしたんだい?」
「お前は才能がないとか、つまらないとか、延々に言われてさ。まぁもういいんだけどね」
「んー、役者はどうか分からないけど、確かに夕は才能というのに無縁な感じするね」
「……そうだよね」正直、秋間に言われるより星野に言われる方が傷つく。
「でも、それって逆に褒め言葉じゃん」
「は?どこが?」
「だって才能ないって、“才能がない”という才能があるってことでしょ?」
意味が分からない。
「夕って見栄を張るでしょ。それって才能がない自分を隠してるからなんだよね。でも才能がなくてつまらないことを自分自身でしっかり理解して噛みしめたら、強くなれると思う。夕は天才でいたいんだよ。自分が特別だと思いたいんだよ」
「別にそんなに見栄張ってないし」
「もうそれが見栄張ってるし」
……。
「あんたの言い分を聞こう」
星野は「えっへん」とふざけてから真面目な顔して言った。
「私は才能ないことは素晴らしいことだと思うよ。だって天才だったらなんでも出来てつまらないじゃん。飽きちゃうでしょ。夕はテレビ出ている人全員が天才だと思う?私はそうは思わないな。努力があって、苦労があって、しんどい思いをして、あそこにいるんだよ、きっと」
「わかってるよ、そんなこと」
「だから才能ないとか言われてもさ、気にする必要なんかないよ。そもそも天才なんかこの世に存在しないでしょ。人間なんて常に何かに飢えてるんだから」
わかるようで、わからない。何かが引っかかっている。喉に小骨が刺さっている、そんな感じ。ばつの悪そうな私の顔を見て星野は言った。
「夕は“天才”に飢えてるんだね。才能の有無で考えないで器用か不器用かで考えたらどうよ。器用か不器用だったら、ずばり!夕はかなりの不器用~!」
「うるせー」
「私はその点、器用だって知ってる?」
「大して変わらんでしょ」
確かに生きる上で、この子は器用に生きているかも。それこそストレスとか、悩みとか、一切抱え込んでない気がするな。
「星野、悩みとかないの?」
「今の私の悩み……聞きたい?」
「口内炎以外で」
「なーんだ。じゃあ今はないかな」
羨ましすぎる。この子は絶対長生きする。でもまだ喉の小骨は刺さったままで正直納得しきれてないんだ…私は天才になりたいわけじゃないから。『私は普通になりたいんだ。普通に生きていきたいんだ。役者として才能はなくたっていい。諦めたことだし、未練はあるけど、それはそれで後悔していない。でも人間として魅力がないならそれは間違っているでしょ。私は生まれた時から欠陥品だから、その部分を埋めるのが必死で、人より秀でる何かが欲しかったんだ。変わりたかったんだ。だから役者を目指したんだ。』心で思ってることをアプリのチャットに打ち込んだ。あれから初めて少年にメッセージを送った。いきなりこんな文章ひかれるかな。でもどうせ顔も名前も知らない子なんだしいいよね。返事はすぐに返ってきた。
『普通の人間なんていないよ。皆どこかおかしいんだから。じゃなきゃ戦争は起こらないし、いじめなんて起こらない』
『君、学校は?』
返事は返ってこなかった。
「さっきから携帯いじいじして何してるん?」
「え?」
「あ!あのアプリやってるの?」
「違うよ。就活情報見てたの」
「なーんだ」
星野の前で堂々とこのアプリを使っていたのか。私は馬鹿か。これから部室でこれを使うのはやめよう。

いつものように映画を流しながらぐだぐだと部室で過ごして、私達は夕方の四時過ぎには解散した。私は久しぶりに何も用事が無かったから、大学の近くにある広めの公園を散歩してみた。だからと言って木々に心は動かなくて、コンビニで缶ビールを買い、公園のベンチに座り、飲んでぼーっとした。おっさんだな、おい……。そして少年からの返信を待った。でもこんなにゆったり自分の世界が回っているのに、それでも満足してないなんておかしいな。そんな時に大学で講義を一緒に受けていた子から電話がかかってきた。
『あ、もしもし~。夕、今日さ~暇?』
とろっとした声が甘ったるくて気持ちが悪い。
「ん~、ちょっと厳しいかもだなぁ、なんで?」
『今日、飲み会あるよ~佳子も望も来るよ~飲もうよ~。あと純一覚えてる?その純一が友達連れてくるらしいから。結構かっこいいって~一八〇センチの高身長、ヤバくない?』
「なにそれ楽しそう」別にやばくねーよ。というか、純一って誰だよ。
『でしょ~行くでしょ~?』
「あ~本当に行きたいけど……今日はパスかなぁ。明日も朝早いし」
『就活?』
「うん、まぁね」
『そうか~大変だね~残念~でもどうしてもダメ?』
しつこい。
「……まぁ、じゃあ顔出せそうならまたLINEするね。ありがとう」
『了解❤︎待ってるね~』
彼女はアルバイトでやっていたアパレルの仕事にそのまま就職するとのこと。だから暇になった今では毎日毎日、男と飲み歩いている。そんな彼女たちと一緒にいると息が詰まってしまう。芝居をしていた時は、別に良かった。なんだかんだで彼女たちとは違う所に私はいるんだって思えたから。でも今は違う。そんなことを考えていた時に少年から返信が来た。
『お姉さんはいじめられた経験はある?』
読んだ瞬間、この子の境遇がなんとなく分かった。この子は学校でいじめを受けていてもしかしたら不登校にでもなっていて、だから日中でも返信をできたのだろう。
『うん、いじめに近い経験はあるかな』
そう送ると、すぐに返信が来た。
『でもいじめをする人は僕にきっと興味があったんだ。だからいじめをするんだと思う。お姉さんの時もきっとそうだよね』
『私は出来が悪かったからなぁ』
『出来?』
私はノストラダムスの大予言のせいで間違って生まれたこと、だからそんな私は出来が悪いことを簡単に伝えた。すると彼は次のように書いた。
『じゃあ一九九九年生まれは、きっとみんな出来が悪かったんだね。だからいじめられたんだよ。いじめた奴も出来が悪かったんだよ』
うん、一九九九年の呪いとかはあるかもしれない。同じ境遇の人間もどこかにいるかも知れない。そう思いたい。
『君は大丈夫?辛くない?』
『僕はいじめた奴らを一生許さないんだ。それは僕の一番の復讐なんだ。だから大丈夫』
『そっかぁ』
『お姉さんも一緒に復讐してくれる?』
言われなくても、一生許さないよ。生まれた時からずっと許さないよ。それから少年のやりとりは続いた。少年は今ラップが好きで、MCバトルという即興の口喧嘩ラップのDVDを観るのが日課だということ。アニメも好きだということ。好きな食べ物はチキン南蛮。学校には行っていないけれど数学が好きなこと。生きているうちに一度でいいからニューヨークのタイムズスクエアで年を越してみたい、ということ等。なんだかチャットだけのやりとりなのにとても血が通っていた。私も母親に虐待されていたこと以外は全てを素直に伝えた。少年は思った以上に包容力があり、とても心が安らかになった。ありがたかった。気付いたらとても寒くて夜八時をまわっていた。時間も忘れて、公園のベンチで四時間近くも少年とやりとりしていたのだ。
『お姉さん、「星空と少女」ってアニメーション映画知ってる?』
『知らないな、面白いの?』
『すごく好きなんだ。いじめられてるのも、生きていくのも、なんとかなるんじゃないかって思わしてくれる作品で。良かったら観てみて』
文章から少年が興奮しているのが伝わる。
『うん、観てみるよー』

帰りにコンビニでお弁当を買って、レンタルDVD屋さんで少年のおすすめのヒップホップのCDと「星空と少女」のDVDを借りて家に帰った。借りてはみたけれど、なんとなく映画もヒップホップもお弁当も気分にならなかった。化粧を完全に落として、風呂に入り、もう寝られる体制を完全に作ってから、とりあえずテレビを付けて、チャンネルをバラエティー番組にして、ベッドに横になった。
テレビでは「北海道ではゴキブリは気持ち悪がられない」という特集をやっていた。北海道の人に生きているゴキブリをみせて反応をみるというものだ。北海道は寒いからゴキブリはほとんど生息していなく、北海道民はゴキブリをみて「感動です」と言っていた。あぁ……将来は北海道に住もうかなぁと、なんとなく思った。

一度だけ、私は母親に褒められたことがある。それは私が小学生の頃の夏、家でゴキブリを発見して、手で捕まえてそれを庭に放してやったことがある。何故だか私にとって、早く動くだけで特に害がないあの生物を気持ち悪がる気にも殺す気にもなれなかった。むしろ自分と似ている気がしてならなかった。人は蜘蛛を見つけると殺さずに逃がしてやるのに、何故ゴキブリは見つけたら殺されるのか……見た目?動き?本当に謎だったのだ。それで手の上に「おいで~」とやったら、素直に乗かってきたゴキブリを逃がしたのだ。それを見たアイツは私に向かって言った。
「へー、あんた、やるじゃん」
「……うるさい」
その私の言葉を聞き、母は舌打ちをして目の前から消えた。
それだけだったけど、小学生の私は幸福感に満ち溢れた記憶がある。それが何故なのかは正直今でもずっとわからない。でも今でもその記憶は強烈に覚えている。そのことを思い浮かべたらぐっすり眠れるような気がして、私はテレビと電気を消して眠りについた。お弁当、食べてないや……まぁ、いいか。

(続く)

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