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中編「他人の膿」⑵

『夕は、それでいいの?』
昨日、星野に言われた言葉が夢の中でずっとループしていた。目が覚めてもループしている。朝起きたら、鈍い頭痛がした。二日酔いかな……痛いな。昨日結局どうやって帰ったのかあまり記憶にないけれど、まぁ無事みたいだからいいか。
鏡を見ると、両こめかみに血管がぐわっと浮き出ていた。そこに生き物が存在しているみたいに見える。なんだこれ?私は心配するといつもネットでとりあえず調べるけど、信用はしていない。大体ネットに書いてあることもテレビでやっている医療系の番組も話を盛っている気がする。「そのまま放っておくと大変なことになりますよ」みたいに不安を掻き立てる。それでも病院に行くのも好きではなくて、調べることくらいしかできない。ネットでは「ストレス・疲れ」と出てきた。
……またかぁ
ここ二ヵ月とても不調。胃腸炎になったり、顎関節症になったり……。胃腸炎の時はさすがに激痛で病院に行き、そしたら医者に「ストレス性」と言われた。薬を飲んで五日で治ったが、その一週間後くらいに欠伸で口を大きく開けたら、左耳の下あたりから「ジャリ」という音が鳴った。調べると顎関節症と書いてあり「ストレス・疲れ」と出てきたのだ。放置して、さらに放置して、やっと気にならなくなった時に、こめかみに血管だ。まぁ放置するけど。ストレスも疲れも、今よりも逆に半年前の方が大変だったのになぁ。

半年前まで、アルバイト、大学、たまにサークル(つまり星野)、演技レッスン、撮影(ほぼエキストラ)、そして舞台稽古、また舞台制作のお手伝いなどをほぼ休み無しでこなし、朝早く起き、夜遅くに帰ってきて、でもなぜか夜中は眠れなくて、みたいな生活をずっと送っていた。その頃は殆ど栄養のある物も食べてなかったし、お金も気持ちもギリギリだった。どんなにやっても認めてもらえない。どんなにやっても自分自身を変えられない。
スカウトされて役者の世界に飛び込んだ時は、段々と感覚が麻痺してきて、やる気が湧いていて、「もしかしたら、自分は芸能人になれるんじゃないか」「変われる」「たくさんの人に必要とされる」「自分を好きになれる」。そんなことを考えて、売れてもいないのに、芸能人を気取ってみたこともある。
でも段々気付く。自分の立ち位置。自分の力の無さ。努力しても辿り着けない所があるんだってこと。
私はこれでも本気で三年やった。もっと夢を追いかけ続けた人からしたら少ない年数かもしれないが、本気で三年やり、それなりに大きい仕事もさせてもらった。でもどの現場に行っても同じようなことを言われた。「お前は才能ないな。チャンスはあるのにな」「つまらない人間だな」「言われたことしかやれないな」「言われたこと以外すんな」「どうしようもないな」「枕営業でもしたら」「お前に先はないな」「価値ないな」。最初はそういうことを言われて揉まれながら成長すると思ったけれど、分かってしまった。ちょっとした役で使ってもらえたのは、ただタイミングが合って真面目だったから。麻痺がとけて自分の実力が自分自身で見えてきたのだ。
そして周りを見ると、自分と同じレベルの役者はまだ麻痺していて、飲み屋で知りもしない演劇論を語り合い、SNSで何かを批評してプロ気取り、チケットノルマ制の小劇場で知り合いだけしかいないお客さんの中で芝居をし、「良かったね」と言ってもらい、仲良しこよしの集団で活動している。今思うと本当に学芸会みたいだなぁ、と思う。誰にも見られていないのに帽子を深くかぶり、だて眼鏡をかけたり、マスクをし、役者の真似事をしている。つまらない虚しい世界。自分もそこで麻痺していたと思うと背筋が凍る。
すべては報われたい、でも誰も分かってくれないから、自分を騙すしかなかったんだ。麻痺させるしかない。それは惨めで、疲れにもストレスにも変わる。
そんな生活をずっとしていた為、段々と体力は衰退していった。
そしてある時、心がぽっきり折れてしまった。当時付き合っていた彼氏とラブホテルで行為の最中に、突然嗚咽するぐらいの涙が出てきた。
「え?どうしたの?」
それに応えられないぐらい急に全てが嫌になってしまった。ここ三年、役者を始めてから一度もプライベートで涙を流したことは無かった。でもその時は、膿がどばどば出てくるように急に涙が延々と流れて、止めることができなかった。唖然としてる真っ裸の彼とずっと泣いている真っ裸の私が存在していることが、滑稽すぎて、今となっては笑ってしまう。まるで動物園の猿みたいだ。そんな姿を見られたことが耐えられなくなり、その彼とはすぐに別れた。なんとなく付き合ってしまっていたから、良い機会だなと思ったのも本音だったりする。
そして私はそれ以来、芝居も役者関連の仕事も全て辞めた。
それからの生活は、アルバイトをして、大学に行って、星野と部室で映画を観て、友人と飲みに行ってと、とても時間がゆったりしていた。半年前に比べれば、大きな「ストレス・疲れ」というものは特に感じていないつもりだったし……だから、とても不快。不快すぎて、考えるのをやめた。

そんなこんなで、こめかみの血管を浮き出したまま私はリクルートスーツに着替えた。スマートフォンを見ると『今日の面接頑張ってね。たまにアホみたいな顔してるから、しないようにね』という星野からのLINE。しょうもないスタンプで返した。

満員電車は日本という国が凝縮しているように思える。日本人は、身内愛はあるけれど人類愛は無いのだと東京に来て特に感じる。電車内では、ギュウギュウの中で、自分の空間に入ってきたものは顔も見ないで抵抗して、押し返す。自分以外は人間では無いとすら思える。満員電車は孤独の境地である。こんな風に冷静に世の中を見たのは初めてかもなぁ。先日、星野と部室でソフィア・コッポラの「ロスト・イン・トラストレーション」という映画を観たのが原因の一つかもしれない。これまで、人のことをまじまじと見ることなんてあまりなかった。役者を目指しているなら人間観察は大事っていうし、矛盾してるんだろうけどね。だから上手くいかなかったのかも。
こんなに人が人と思っていない場所がとてつもなく気持ち悪かった。人と人と人と人が密集して、それぞれが自分しか見えていない人達は、何を考えて生きているのだろう。一度それを考え出したら、電車に降りても周りの人間が何を考えて生きているのか、気になって仕方がなかった。そんなことを考えると、一生満員電車の中で私は生きているんだって気がして、さらに気持ち悪くなった。

「志望動機をお聞かせください」
「はい。御社の企業理念に共感し~」
してないし。そもそも不動産なんてこれっぽちも興味がない。
「学生時代にやっていたお芝居は、不動産という仕事にとても活かせると思うんです。なぜなら~」
暗唱テストみたいで、これでもしも受かったら、喜びよりもこの会社の方がやばいなと思う。でも五名の就活生を椅子に座らせてやっているこの面接も、私は三番目だったけれど、最初の二人の志望動機も必死で覚えた暗唱のような印象だった。
この面接官も、この就活生達もいま何を考えているのだろう。有能な人材?長続きしそうな人材?とりあえず内定取らなきゃ?どうしても不動産会社に就職したい?
とりあえず、ちゃんと生きてるか、お前らは。

結局、最初から最後までなんとなく用意していた回答でどうにかなってしまった。暗唱テストなら多分百点満点だったけれど、でもきっとここも不採用。期待しない方が傷つかないし、そっちの方が楽だよね。それにこの会社に内定が決まったとして、そこから十年ここで働きたいって思うのかな。でも、お金は絶対に必要だし、なんとかしなきゃ、と。
私は臆病で我儘で、とりあえずやることを見つけなきゃいけない性格なんだと思う。とりあえず内定を取るという目標があれば、今頑張れるんだ。あの女は働きもしなかった。私を産んで、お婆ちゃんに全てを頼った。あの女が私を産んだ歳と私は今同じ歳だ。だからこそ、あの女とは違う道に行きたい。満員電車の中にいても、とりあえずは進まなきゃいけない。

「うわ、なんかスーツ、エロッ!」
「どこが」
部室にスーツで来たのは間違いだったな(色んな意味で)。てか脱ぎたい、思った以上にやっぱり暑い。暑いことに関しては、来て毎回後悔する。
「なんかOLみたいだね、夕。で、どう?受かった?」
「受けたその日のうちに内定出たら、逆に怪しいでしょ」
「まぁね~、でもなんか夕はまともな仕事には着けそうにないよね」
でた、どストレート発言。
「うるさいなぁ」
星野は部室にある古い扇風機で宇宙人の声を作って遊んでいる。私はいつもの定位置に座り、ぼーっとする。
「ごめんごめん、今日の私は一味違う絶望を味わってるんだ」
「は?」
「だから、少しだけイライラしてるんだよね」
イライラしているようには見えない。宇宙人星野は続けた。
「口内炎がね、できたんだ」
「はぁ?」
「だから、口内炎ができたんだよ」
星野はそう言った後に、何事も無かったかのようにDVDがたくさん入っているボックスの中を漁った。
「……え?」
「え?」
「口内炎が何よ?」
「口内炎になると生きてることが嫌になる」
なんじゃそれ。星野は続けた。
「こいつは口を開いても、何かを食べても、口を開かなくても、舌で少し触れるだけでも私を刺激する。なんだか深い絶望に襲われるよね。レイプされてるみたい」
「飛躍しすぎ」
「レイプされたらきっと生きてること嫌になるでしょ?」
口内炎=レイプ説を唱える人間は世界中探しても星野くらいしかいないと思う。
「んで、このアプリを使ってその愚痴を聞いてもらってるんだ」
星野は『One Week Friend』とか言う謎の怪しげなアプリをスマートフォンから見せてきた。
「なにこれ?」
「一週間限定で知らない人と個人チャットができるの」
「怪しすぎるでしょ!」
「でも一週間したら、有無言わさずに完全にチャットのデータは消去されるんだよ。だから名前も場所も特定されないし、メールアドレスや電話番号や住所関連を打ったら、機械が勝手に読み取って化け文字になるっていう割と優秀なアプリ」
「……へぇ」
「私たち友達いないでしょ?」
「あんたと一緒にしないでよ」
「心許せるの私くらいしかいないでしょ、夕は」
自分で言うな。正直、図星なのが悔しいけれど。星野は電波女だとは知っていたが、ここまでの電波女とは知らなかった。……いや嘘です。
「私はそんな謎のアプリはやらないよ」
「えー、つまんないの。何も知らない人だから、本当に何でも語れるのに。好かれたいとか、嫌われないかなとか、気にする必要もないんだよ」
「あんたは誰にも気にしたことないだろ」
「私にだって自尊心はありますよ」
嘘だ。絶対に嘘だ。口内炎をレイプに例えるような女に自尊心があるはずがない。
「ま、気が向いたら。絶対、夕はハマるから。ぞっこんだから」
星野の言葉の妙な説得力はどこから出るのだろうか。こんなにチャランポランなのに。まぁ、それでもアプリはやらないけどね。
「で、今日は何観る?トトロ?」
「んー、あれ見たい。なんだっけ……題名~」
埃っぽくて、汚い場所だけど、ここは一番自分でいられるような気がする。安心するのは、星野の妙な力のせいなのかな。やっぱり電波女には謎が多すぎる。

結局、映画一本観て、星野はアルバイトに行った。彼女は神保町のカレー屋で働いているらしい。一度も行ったことは無いけれど。
私は電車に乗ってゆらゆら帰る。朝は満員電車だけど夜は椅子に座れた。今日は雲ひとつない空で昨日よりも寒いなぁ。日に日に秋から冬に進んでいる。疲れちゃったなぁ。少しだけ寝ようかな。
がたんごとん、がたんごとん、がたんごとん、がたんごとん……心地いい音……。
…………。
瞳を閉じて、しばらく経って、なんとなく嫌な感じがした。視線。開けると嫌な予感が的中した。帽子を深くかぶり、眼鏡をかけているセミロングヘアーの女がこっちをじっと見ていた。女は私だと確信すると声をかけてきた。
「やっぱり」

「こんにちは」
「元気?相変わらず冴えない感じ」
「……はい。元気です」
女は舐め回すように私を見た。
「何その格好?」
「えっと、ちょっと……舞台の制作のお手伝いを」
「へー」
「……」「……」
「あ、秋間さんは?」
「あんた、『破壊』観た?」
「いえ、時間なくて」
女のわざとらしい舌打ち。
早く駅に停車してくれないだろうか。本当にこのニヤニヤ顔を見ると腸が煮えくり返りそうになる。
「時間は作るものだから」
出たお決まりの台詞。なんでこんなに人の悪い部分をあからさまに出せるのか、私には理解ができない。あの時もそうだ。

私がとある舞台でアンサンブルとして出演した時に、この秋間奈々子に目をつけられて捕まった。その舞台の座組の中で私の次に若いのがこの秋間という女で、後輩という存在に必要に固執していたこいつは私という存在を見つけると妙に年上面してきた。
その当時は、よくしてくれる先輩くらいに思っていたけれど、舞台が終わってから一週間経ったぐらいに『今日の夜、役者友達の誕生日会やるからあんたも来なさい。たくさん人来るし紹介してあげるから』とLINEが入った。秋間奈々子は、一応はそれなりの芸能人で、有名では無いけれど、この業界で食べられていた(多分)。だからその日は他の舞台の稽古もあったけれど、稽古が終わってから夜中に遅れて秋間から送られてきた住所に向かった。
その場所はとても大きな一軒家で、秋間の友人の家とのこと。それなりに緊張していた。LINEに「着きました」と送ると、ドアが開き、秋間が迎えてきた。
「久しぶり」
「お久しぶりです」
「まぁ入って」
中に入るとシャンデリアや豪華な花瓶がたくさんあり、現実にこんな家が存在するのかというのが最初の印象。二十人くらいの人が飲み食いをしていた。
「皆~これが例の出来の悪い子だから、適当にこき使って」
え?……。するとショートヘアーの女に「こっちきて」と言われ、「洗剤はこれ使って、洗った皿は拭いて、こっちに置いておいて」なにがなんだか分からないまま、女の言う通りにした。ずっと皿を洗っていると後ろから秋間の声が聞こえた。
「今は何かやってるの?」
「一応」
「誰と一緒?」
「石川よしのさんとか」
「誰それ?知らなーい。どうせしょうもない役者でしょ。あんたレベルの仕事だしね、売れてる人いないか」
イライラが積もる。段々この会の本質が分かってきた。一緒にいる連中は皆、秋間よりも年下で稼げてない連中で、ここはさしずめ秋間信者の集まりと言って良い。媚を売る連中。だから秋間の会話も皆「うんうん」とイエスマンになる。話の内容も「あの俳優とやった」だの「今度、監督に紹介してあげる」だの……。皿を延々と洗わされて、また後ろから宗教会長様の声。
「この前のあんたのギャラいくらだったの?二ヶ月でアンサンブルってどのくらいもらえるの?」
「……三十万です」
「マジで。それはやばい。じゃあかわいそうだからあたしのギャラは言えない」
死ね、死ね、死ね。皿に力が入る。だんだん皿を見ながら声を聞いているから、秋間という存在は、本当はこの皿なのではないかと、この皿を割ったら秋間は黙るのではないかと、消えてくれるのではないかと。
「あんた、年間どれだけ映画観てんの」
皿は話しかけてくる。
「どれくらいですかね」
皿は監督の名前や映画の名前を言ってくる。
「知りません」
あんた、それじゃ売れないね。なんか言っているけれど、私は別に映画コメンテイターや映画博士になりたかったわけじゃない。自分の位置を確かめるために私を使わないで欲しい。私は何をしに来たんだろう。
結局皿を洗い終わったら、私は帰った。本当は皿をぶちまけて、発狂して帰ってやりたかったけれど、弁償などは到底できないだろうから、なんとか耐えた。

それ以来、この女とは会っていなかった。なんでこんな所でこんなタイミングでこんな奴に会わなきゃいけないのだろう。
「あんた、これからどこ行くの?」
「家に帰ります」
「じゃあ、ちょっと付き合いなさいよ」
え……。
「いや、明日も朝早いので…」
「は?先輩の誘い断んの?」
「……行きます」なぜこうなる。

「だから私はあんたの為に言ってやってるんだよ、いつもいつも」
酔っ払っている秋間。こいつの臭い煙草の煙が何度も私の顔にかかる。居酒屋に無理矢理連れてこまれて、三時間以上。早く帰りたい。
「あんたは本当に才能がない。才能がなさ過ぎてつまらない」
さっきからそればっかり。もう役者を辞めましたってしっかり伝えれば良かったな。そもそも一応芸能人なんでしょ、この人。私なんかと飲みに行くことになんの得があるのかな。
「あんたのことは、全てあたしは分かってんだよ」
何も分かってないだろ。
「どうせ親に甘やかされて育ったんでしょ。何不自由なく生きて。だからつまらないんだよ。だから才能ないんだよ。個性がないもんね」
私は殴りたい気持ちを必死で抑えた。
「私はね、子供の頃からこの世界にいたの。有名な監督に揉まれてきたんだよ。だから苦しい経験をたくさんしてきた」
=私は子役から役者でお金稼いでいたんだ。才能が溢れているんだ。というただの自慢話。この女は、小さい頃から自分の描いた夢を追えた。私は、母親から離れることがたったひとつの願いだった。
「なに、その目は。悔しいの?悔しいなら言い返してみなさいよ」
…………。
「私だって、辛い経験はあります」
「は?じゃあなに。言ってみてよ」
「簡単に語れる辛い経験は、本当は辛くなかったから言えるんです」
「は?」
「お前の経験はただの自慢話だって言ってんだよ!あんたのクソみたいな経験聞いて、あんたのクソみたいな顔みて、クソみたいに不味い飯食って、お前の汚い息を吸って、お前の方こそつまんねぇんだよクソ!」
「!」
「石川よしのさんはお前の数百倍も芝居できるし、魅力あるし、綺麗だし、お前の方こそ才能ねぇんだよ!ふざけるな!宗教!皿!ブス!ブス!ブス!」
「ちょっと、あんた」
「バーカ!もう二度と私の前の現れるな!バーカバーカバーカバーーーカ!」
…………。
……なんて言えない。
「なに、その目は。悔しいの?悔しいなら言い返してみなさいよ」
「……いえ。朝から忙しかったので、ちょっとだけ眠たくて。すみません」
「は、つまんないの。すみません、カルピスサワーください」
なんで何も言えないんだろ。

結局、そこから「つまらない」「才能ない」を連呼されて、終電ギリギリに私は解放された。悔しい。何も言えなくて、あいつだけ良い気持ちで帰られて、本当に悔しい。心の中ではこんなに叫んでいるのに誰にも届かない。どこにいても何をしてもどう思われるかを気にしてしまう。あの秋間の前でさえも。やっぱり本当の私なんて他人に分かってもらえないんだ。秋間にとって、私は親に甘やかされて生きてきた小娘なんだ。私が反論できない時点でそれが秋間にとっての真実で、私は私の形をどんどんどんどん失う。誰か、私を、救ってください。誰か、私の本当の声を聞いてください。
そんな時に突然、変なことを思い出した。星野の言っていたアプリ『One Week Friend』。きっと酔っているからかな。私はそのアプリを無意識にダウンロードしていた。家の近くの公園のベンチで、寒い中そのアプリのダウンロード完了を待った。鼓動がドクドクいっている。悪いことをしているみたい。
ダウンロード完了。このアプリは単純明快だった。ニックネームと年齢と性別だけを記入し、入室ボタンを押すとランダムで同じタイミングにボタンを押した誰かとチャットルームで繋がれる。そのチャット相手が気に入らなかったら退室ボタンを押せばいつでも退室でき、退室しなければ一週間その相手とチャットできる。そして一週間きっかりにチャット内容は完全削除され、相手とも連絡が繋がらなくなる。
(ニックネーム:未練たら子/年齢:22歳/性別:女性)登録っと……。試しに一度、入室ボタンを押してみた。
【(35歳・男性・若い子希望)さんの部屋に入室しました】
『こんばんは。22歳ですか?』
こういう感じか。LINEとほとんど変わらない。
『そうですよ』
『今どんな気分?』
『え?どんな気分って?』
『エッチな子?』
【(未練たら子)さんが退出しました】
ほらみろ星野。結局、そういう目的のアプリじゃんか。秋間に侮辱されて、ネットでおかずにされるなんてそれこそ惨めになるだけだ。……寒い。なんで家のすぐ近くなのに公園にいるんだ、私は。酔いはとっくに覚めた。帰ってシャワーを浴びて寝よう。

そして私は部屋に入って、寝る準備を全て終わらせてからベッドにダイブし、スマートフォンを開いた。最初はSNSを適当に眺めていたが、なんとなくもう一度だけ、この謎のアプリをやってみようかなと思った。どうせまた変な人に遭遇するのは目に見えているけど、もし万が一、真面な人に当たったら、少しでも心が落ち着くかもしれない。少なくともこめかみの血管は消えるかもしれない。だから、もう一度だけ試してみよう。そう思った。

【(15歳・男性・少年h)さんの部屋に入室しました】
十五歳?中学生?
『こんばんは。お姉さんは本物?』
本物とは?こんな怪しいアプリを中学生でやるなんて私が親なら絶対に怒ると思うけど、そんな資格は無いのでとりあえず返信しよう。
『多分、本物だと思います。君も本物?』
なんだ、この探り合いは。
『うん。ちゃんとここにいます。しっかり生きてます。僕はあなたを信頼してもいいですか?毎日を踏ん張る為の安定剤にしてもいいですか?』
これは……中二病ってやつかな。本当に中学生だとしたら、何か不安を抱えているのだろうか。でもこのメッセージを見て、少しだけ安心した。文章だけだけれど、そこに伝わる“何か”は私と似ている気がした。それに私も未だに結構中二病だと思うし。
『私で良ければ。私も、君を頼ってもいい?』
そこから少年からの連絡は長いこと来なかった。眠れなくて、FMラジオを聴いて天井を見つめていたら2時間後くらいに返信がきた。
『一週間、宜しくお願い致します。お姉さん』
私は、本当は知らない人に愚痴を書けるだけ書いて、溜まっているものを全て吐き出して、すっきりしたらすぐに退室するつもりだった。でもこの少年の文字一つ一つに何か重いモノを感じて、この少年にとって私は必要とされている気がして、妙に嬉しくて愚痴を書くことを忘れたし、退室することも忘れた。でもたった一週間で、この子を救えて私も救うことが出来たら、きっと世の中上手く出来過ぎているし、そんなことはあり得ないのだ。
でも今日一日通しても良い日とは言えなかったのに、その少年とのチャットの後には幸せな気持ちでぐっすり眠れたのだった。
(続く)

イラスト:亜珠チアキ//AZLL
https://note.com/azllcc

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