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舞台白蟻感想-AIと人間の境界を考える-


はじめて複数回現地で見た舞台。でも何度見ても新しい発見があって最高でした。
見たのは7日19:00〜、8日19:00〜、9日12:00〜、16:00〜の計4回。キャストはどちらのパターンも2回ずつ見たことになります。あと9日16:00〜は配信も買いました。
はじめて見た時から必ず泣いてしまうのは勢堂父と母AIの最後の会話シーン。「料理が上手くて、優しくて。時々俺を叱るじゃないか。」「機械でもいいからそばにいてくれ。」そこにはたしかに愛があり、別れがある。母AIが、「高度な技術を使ってできた私たちは人間と見分けがつかない」と言っていたことからも、父は母AIを母自身であると信じて愛していたのでしょう。

でも、この二人の関係はこの舞台上でどういう役割を担っているのだろう。AI大黒がそこはかとなく不気味で人間とは異なる存在として描かれていた。櫛本美緒を模してつくられたアンドロイド は、「美緒じゃない」と櫛本悟と勢堂直哉に評された。「AIは人間にはなれない」これが表向きには舞台白蟻のテーマに見える。
し、個人的な思いとして、そうであって欲しいと私は願う。怖いから。

でも、勢堂母アンドロイドの存在は、完全に勢堂母に成り変わったかのように見えるのだ。それは勢堂父が脳に病を抱えている(描写的にアルツハイマー?)からと片付けることは簡単だ。勢堂父は劇中の言葉を借りると「まともな判断ができる状態」ではないことは明らかである。でも、本当にそれだけで片付けてよいものか。

これを考えるにあたって、主人公櫛本と勢堂の友人の医者木葦恭介と最終盤に出てくるケアマネージャー【アマミ】に注目したい。

まず、木葦が新渡戸を診察するシーン。そこで彼はアンドロイドには「医療倫理」が組み込まれていると説く。今は機械に倫理を教わる時代だ、と。勢堂母アンドロイドが何故勢堂家にいるのか。
病が進行し、妻の死を忘れ、生活が覚束なくなった勢堂父の介護のためではないかと私は考える。このことから、勢堂母アンドロイドは、介護ロボットの一種と仮定する。そのため、医療ロボットには医療倫理が備わっているように、勢堂母アンドロイドには介護倫理(これが言葉として正しいのかは分からないが)が備わっているのではないだろうか。
勢堂直哉が大晦日〜元旦に葬儀を執り行うことの許可をもらいに行くシーン。そのシーンでは完全に「まともではない」父親が、既に死んだ新潟の祖母について話す。その時、直哉は「ばあちゃんはもう死んだろう」、と返すのに対し、勢堂母アンドロイドは勢堂父に話を合わせる。祖母の生存を否定しないのだ。この感想文を書くにあたっての付け焼き刃の知識ではあるが、介護士は「否定しない」ことが原則であるらしい。勢堂母アンドロイドは、介護者としての原則を守っていることが見て取れる。

また、最終盤シーンに出てくる人間「アマミ」もそうだ。勢堂父に「直哉」と呼びかけられ、それまでの初対面ケアマネージャーとしての振る舞いから明らかに振る舞いを変えている。「うん、行こっか」、という彼の台詞は、息子と間違えられたことを否定しない。そのことに寄り添った対応に思える。勢堂母アンドロイドがしたのと同じくだ。
このシーンについては、AIと人間の境界を考える上で後ほどまた言及する。

次に、木葦恭介について考える。木葦本人は自分の欠点として「倫理観に欠けている」ことを挙げている。実際、彼の振る舞いからは倫理観が感じられないように思える。しかし、そもそも「倫理観がある」とはどのような状態であろうか。
私は、彼は倫理観を備えている人間であると考える。ただ、それを至上命題としていないだけで。彼が新渡戸を診察するシーンで助けてやりたいからあえて冷たい言い方をしている旨のことを言っている。
このことから、彼の中の優先順位が【患者の精神的ショックを和らげること<患者を救うこと】であることが伺える。これは彼が最終目的に対し非常に合理的な判断をすることゆえだろう。
また、野犬相当作戦を断る際、彼は「野犬とはいえ殺すと大問題になる」と言っている。つまり彼の中で、新渡戸ほど宗教的ではないにせよ【殺生=行なってはならないもの】という方程式は成り立っている。
しかし、彼はこうも続ける。「内申に響く」と。木葦が野犬掃討作戦に参加しないのは、殺生が忌むべきことだからではなく自分にとって不利益をもたらすからである。野犬掃討作戦に参加しない、という彼の行動は新渡戸と同じく実に倫理的なものだ。しかしその行動理由に倫理はない。合理的なものである。
このことから伺えるのは、木葦にとって倫理というものは知識としてインプットはされているが自分の行動を決定づけるものではない、ということだ。

倫理を至上命題として動かないことを指して、「倫理観が欠けている」というのであれば、彼は倫理観に欠けているのだろう。しかし、この物語は後天的に学習を深めていくAIを主軸に進んでいく物語である。AIに倫理があるというのなら、後天的に知識として倫理というものを知っている人間に「倫理観が欠けている」とは言えないのではないか?と言うのが個人的な見解である。

そもそも、木葦恭介という男は非常に「AI的」に描かれている、と私は感じた。ここでいう「AI的」とは、舞台白蟻の中で描かれるAIたちではなく、一般的にAIと聞いてイメージされるものである。感情を排し、機械的に合理的に物事を判断する、それこそまさに我々がAIと聞いてイメージし、役割として期待するものではないか。

※その点において、私の“推し”俳優である谷戸亮太さんの演技は非常に良かったと思う。感情的ではなく、淡々としている。しかし決して棒というわけではない。そして、作中AIとして出てくる大黒や「美緒」とは明らかに違う。血が通った冷血漢という矛盾する存在を見事に演じていらっしゃったように思う。※

終盤で木葦が的確にトリアージを行っていたことからもそれは伺える。トリアージは行動者の精神的負担が非常に大きい。その選別の際の差別性(年齢、障害の有無など)は議論が成されている。だからこそ、トリアージは人間の手から離れたところ、つまりAIに任せたい行為の一つではないだろうか。実際に、医療用AIの使い道の一つにもなっている。
しかし、木葦はそのトリアージを的確に行えた。彼自身が言うように、一才の差別なく、ただ病状のみで判断した。感情に全く左右されなかった。この象徴的な出来事、そして繰り返される「倫理観に欠けている」という言葉は、木葦が合理性を至上命題とする「AI的」な人間であることを意味しているのではないだろうか。

勢堂母アンドロイドの話に戻る。このアンドロイドは、先述したように介護倫理を組み込まれていると仮定する。その振る舞いは、勢堂父に「優しくて、時々俺を叱るじゃないか」と評されるようなものである。
つまり、木葦よりもよほど「人間らしい」振る舞いをしているのではないだろうか。勢堂母アンドロイドの振る舞いはターマイト社にプログラミングされたものだろう。しかし勢堂父は、それを「優しい」と感じた。そこに感情を感じたのである。

もう一度ケアマネージャーアマミの話に戻る。アマミは、ターミナル社製のアンドロイドが失われてから、それまでアンドロイドが担っていた父の介護をするために登場した人間である。つまり、アンドロイドと人間は代替可能であることを示している。
また、演出上そのシーンでは勢堂父を演じていた山森さんの隣には母アンドロイドを演じていた保坂さんが座っていた。アマミに手を取られ歩き出す山森さんは一度も保坂さんの方に目をやることはない。アンドロイドが完全に人間に置き換わったことを暗喩している、と思ってしまうのは穿った見方をしすぎだろうか。

AIと人間の境界、それを曖昧にするのが木葦と勢堂母アンドロイド、そしてアマミだ。
舞台白蟻は、慰霊祭の最後に八重山が言ったように「AIは生命ではない」が表だったメッセージのように思える。しかし、私は、先述の3人をあえて描いたことに、意味があるように思う。
AIは感情を持たず、人間には成り得ない存在であって欲しい。それが私の個人的な祈りだが、この3人を見ていると、不安になってくる。私はAIの何を忌避していて、人間の何に価値を見出しているのだろうか。
この多層的で思考実験的な脚本によりもたらされた私自身の問いにまだ答えは出せていない。しかし、この答えは出ずとも問いが生まれたということに舞台白蟻を観劇した価値がある。この2024年という年にこの舞台を観れてよかった。深くそう思う。

この論考を書くにあたり、個人的に引っ掛かったシーン
・八重山と児玉の勢堂母アンドロイドに対する態度。徹底して無視している。姿形は勢堂母であっても、アンドロイドとしてしか見ていないことが伺える。
・事故後、人間の次に心配するのは車であった八重山夫。保険があるとはいえ、アンドロイドの値段は車より安いのでは?と匂わせているように思う。
・年越し蕎麦。八重山は夫と一緒に食べることができる。勢堂母アンドロイドは一緒に食べることができない。
・「今でも機械は嫌い?」→「嫌いじゃないよ」→「良かった」の一連の流れ。勢堂母アンドロイドに感情があるように思える。


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