見出し画像

孤独

画像1

人付き合いは柔軟体操みたいなもの、ととある日本の人気エッセイストが書いていて、興味をそそられ、読み進めた。

若いうちは体が多少硬くてもその若さで乗り越えてもいけるが、歳をとってからはそうもいかない。少なくとも柔軟体操くらい習慣化して、とっさのことにも身をかわせる運動神経を身につけておく必要がある。それは人間関係も同じで、若い頃の一人の時間は貴重だが、年齢が高くなると孤独が唯一の友人になってしまいがちである。だから年齢が上がるにつれ人間関係を柔軟にするよう、こまめに友人と連絡しあう必要があると彼女は書いていた。さらに、一旦孤独を友にしてしまうと、それにエネルギーを吸い取られてしまって、どんどん痩せほそり、我が身を滅ぼしかねない、なんて恐ろしいことも綴られていた。

人付き合いが苦手な私には確かに耳が痛い話である。

でも私は一人で過ごす時間に安らぎと自由を感じこそすれ、退屈だとか苦痛だとか思った試しはないのだ。そんな私がこれから先老いていくにつれて、孤独に精神を蝕まれていくのだろうか。

私にはどうしてもそうした自分を想像できない。

私の母は、まるで幼児のように手のかかる父の世話と私たち子供達に振り回されて自分の時間もさして持てず、そして友人たちとの人間関係も曖昧なまま老年を迎えた人だった。

彼女が一人で暮らすようになったのは、晩年のたった1年ほど。

そしてこの時ほど彼女が輝いていた時はなかったように思う。

高齢者施設に暮らしていた母は、多くの友人を作ることも可能だったにもかかわらず、そのほとんどの時間を一人で過ごしていた。

飽くことなく本を読み、時にスポーツ番組を見ながら一人で歓声をあげ、1針ずつゆっくりと編み物をして、私たちのことを思い、過去を懐かしむのが母の何よりの楽しみだった。

そんな母に”一人で寂しくない?”と私は尋ねた。

人はどう足掻いてもたった一人この世を去っていくのだから、今のうちに一人の時間を楽しむことに慣れていた方がいい、彼女はそんなことを言って笑っていた。

もちろんたった一人で過ごす夜を彼女は寂しく思ったこともあるだろう、誰かとお茶を飲みながらたわいもない話をしたい日もあったろう。でもそれよりも一人でいることを選んだ母は、決して強がりなんかじゃなく、一人で過ごすこと、孤独であることを受け入れ、楽しむことできていたのだと私は思っている。

そうなのだ、人間関係の柔軟体操をして孤独を排除するのではない。

人生の大事な局面に立つ時、人はいつだってたった一人で立ち向かわなくてならないのだ。その事実を前に平穏にその時を向かい入れることができるエクササイズを編み出した方がいいような気がするのだが、どうだろう。

今日紹介するのはガラス作家の関野亮さんのアトリエの道具たちである。

アーティストは多少の例外もあるが、常に一人で作品に対峙する。自分の内面にあるものを見つめさらけ出すには孤独はある意味彼らの味方であろう。

そんな彼らの姿は作品の美しさも凌駕するほどに美しい、私はそう感じている。

画像2


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?