MICHEKO GALERIE

ドイツ・ミュンヘンで2010年より日本の現代アートを紹介しています。ここでは当ギャラリ…

MICHEKO GALERIE

ドイツ・ミュンヘンで2010年より日本の現代アートを紹介しています。ここでは当ギャラリーがインスタグラムで発信しているミニストーリーと画像を日本語にて紹介しています。 当ギャラリーのインスタグラム:https://www.instagram.com/michekogalerie/

最近の記事

側面から見ると

私は三人兄妹の末っ子である。 兄は我が道をゆくタイプでいつも悠然としている, 姉は優等生タイプでなんでもそつなくこなし、頼りがいがある。 私はといえば、甘えん坊で飄々としている。 これが私たちの性質だ、と私は長年信じてきた。 物事には必ず表と裏がある。表から見ると裏の様子は全くわからないが、ひょんなことで裏側に光が当たるとき、その上側の表情が表とは様子が違っていて驚くことがある。 人の性格もちょっとしたことからその側面や裏側が炙り出されることがあるものだ。 私

    • 痛みのある思い出

      あれは私が小学5年生の時のことだ。 クラス担任の教師に呼ばれて行った部屋には一人の見知らぬ少女が俯いて座っていた。 彼女の顔を覗き込んだ時、私はもうちょっとで声をあげそうになるほど驚いてしまった。 彼女の顔にはそばかすのような黒い斑点が無数に広がっていて、黒髪でその顔を覆い隠していることもあって、目だけが異様なほどに光って見えたのだった。 担任教師は私に彼女には先天性の皮膚異常があって少しみんなと見かけは違うけれど、とても素直な良い子だから、私が責任を持って彼女を

      • 決して味わえないもの

        コロナウィルスの蔓延で、本当に私たちの暮らしは変わってしまった、なんて書くと、そんな話題は聞き飽きたと思われる人もいるだろうが、どうか付き合っていただきたい。 ロックダウンが明けてからというもの、ギャラリーにアート作品を観にくる人が減った。 普通の買い物なら暮らしに支障があるから人々は渋々でも出かけるのだろうけれど、アート作品なんて日々の糧になるものではない。わざわざギャラリーに観に行くほどでもないか、と思う人の気持ちを私はわからないでもない。 中にはオンラインで作品を

        • 時計

          そういえば我が家にはどの部屋にも時計があったように思う。 居間にはネジを巻いて動く振り子時計、キッチンには丸くて大きい駅にあるような時計が壁にかけられていた。私たち兄妹はそれぞれ目覚まし時計を持っていたから、どこの部屋にいてもカチカチという時計の音がまるでバックグラウンドミュージックみたいに鳴っていた。 父の仕事の関係で私たち家族はしばしば引っ越しをしたが、新しい家に到着すると、母は真っ先に時計を取り出してきて壁にかけた。 段ボールに占領された家の中にカチカチと時を刻む

        側面から見ると

          良心

          父の話はまさに正論で、反論の余地など全くなかったのだけれど、でも無性に悔しくて、 “お父さんは今のアート事情なんか知らないのだから、変に口出しなんかしないでよ!”と私は感情的に突っぱねた。 今になってとても後悔していることの一つなのだけれど、それ以来私は父に私たちのギャラリーの様子について一度も話をしなかったし、そんな頑なな私に父もまた面と向かって尋ねることはなかったのである。 確かに私は今なお商売に関して無知かもしれないけれど、商売とはただそれだけじゃないことをこの1

          静寂

          私はずっと音のない暮らしが好きだと思っていた。 音楽も好きだし、日常の中にある生活音も嫌いではない。でも静寂に勝るものはない、そんな気がしていたのだ。 朝起きるとパートナーは必ずラジオをつける。 彼にとっては朝のラジオから活力をもらうのだろう。 でも私は朝が苦手で、私の中にある感覚も器官もまだぼんやりとしているところへニュースだとか音楽が否応なしに耳に飛び込んでくるとやりきれない不快感が広がってしまうのである。 考えてみれば、日中だって頭の中でいつも何かしらつらつらと考

          老い

          生まれたばかりの赤ちゃんを半年も見なければ、それはもうすっかり成長していてびっくりしてしまうほどだ。また高齢者の場合はこれまた驚くほどに老いが大波となって彼らに押し寄せているのが目に見えるようで心が痛む。 先週の金曜日から始まった泉桐子さんの個展、“シグナルズ”には幸先よく多くの人々が訪れている。嬉しい限りである。 そんな中、ギャラリーを始めた頃からの付き合いのある女性がやってきてくれた。 初めて知り合った時にもうすでにかなり高齢だった彼女は、久しぶりに見るともう痛々し

          孤独

          人付き合いは柔軟体操みたいなもの、ととある日本の人気エッセイストが書いていて、興味をそそられ、読み進めた。 若いうちは体が多少硬くてもその若さで乗り越えてもいけるが、歳をとってからはそうもいかない。少なくとも柔軟体操くらい習慣化して、とっさのことにも身をかわせる運動神経を身につけておく必要がある。それは人間関係も同じで、若い頃の一人の時間は貴重だが、年齢が高くなると孤独が唯一の友人になってしまいがちである。だから年齢が上がるにつれ人間関係を柔軟にするよう、こまめに友人と

          苦労

          私が教師だった頃ある年配の教師から言われたことがある。 “君は全く苦労のかけらもしたことがないようなお嬢様然とした顔をしているよね。” その言葉はまさに私の芯をついていて、今も私の中に突き刺さったまま、時々痛みを伴って顔を出す。 あれはもう5年くらい前のことだろうか。 一人の中年日本人男性がギャラリーにやってきた。話を聞けば日本で美術教師をしているという。 彼はギャラリーの展示を見た後、意を決したように私に話し始めた。 彼は結婚もせず、自宅で自分の母親と暮らしながら教師

          祈り

          私が作る料理というのは、冷蔵庫の中で眠っている食材をフル活用する、いわゆるはっきりとした料理名なんてない、ごく普通の家庭料理である。 レシピ本に首っぴきになって作る料理ではないこともあって、料理は私にとって瞑想に近い役割を果たしてくれる。 そんな時時折浮かび上がってくるのはパートナーや私の健康を願う祈りであり、たっぷりとした食材を自由に使い温かい料理を食べることができる感謝の気持ちだったりする。 私は信心深い方では決してないけれど、考えてみれば日常には多くの祈りの場があ

          先日パートナーがリールでコーヒーパスタなるレシピを見つけ、早速作ってくれた。パスタとコーヒーの組み合わせなんてちょっと不思議だけれど、でもそれはコーヒーの香りがとても上品で意外にもクセになる美味しさだった。しかし、リール上に投稿されたレシピは今となってはどこをどう探せば良いのかわからないまま消えてしまった、そう、あのコーヒーパスタはもう2度と作れない幻のパスタになってしまったのである。 インターネットは “今の情報”を次々に吐き出す怪物だな、と時々思う。 ソーシャルメ

          愚痴

          愚痴を誰かにこぼしたところで自分の状況が変わるとか、あるいは少なくとも自分の気持ちがスッキリするなんてことは滅多にない。でも腹に溜まった黒っぽくてモヤモヤした重たいものを吐き出さずにはいられないことって誰にでもあるのではないだろうか。 私の年齢は世の中的には、もうものの分別がきっちりとついて、すいもあまいも噛み分けていると受け取られる年齢である。 そんな私が愚痴なんか吐くなんてみっともないと思われるかもしれないが、いくら年齢が上がったとしても私の人間性がそれだけで立派に

          自由

          子供の頃は誰でも“どんな職業にも就ける”可能性を秘めていて、大いに夢を膨らませているものだと思う。 それが少しずつ大人になるにつれ、自分の実力の限界とか社会の仕組みとかに阻まれて、いつの間にかひどく現実的な夢しか描くことができなくなってしまうのではないだろうか。 私は大学を卒業して教員になった。それは日本社会の中で唯一男女差のない職場であること、安定していることが理由である。私はその仕事に夢も希望も見出していなかったように思う。 そうは言っても子供と接する教師の仕事は毎