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人間モドキ―村田沙耶香『コンビニ人間』書評

文春文庫版の解説で中村文則は五感の描写が本作の特徴であるとしているがそれだけでは不十分で五つの感覚のなかでもとりわけ特権化されている聴覚、それも語り手の聴く音だけではなく、彼女自身が発して他者へと空気の振動によって伝えられていく音をも含めて注目されなければならないだろう。無論ここで言う「音」とは冒頭で描写されるコンビニが立てる無機的な音だけに限らず身体的動作に伴う些末な動揺や声帯を震わせることで発生する「声」という有機的な現象も包含されている。それにより我々はひとつの事実に気

    • 「いま」を生きる―佐川恭一『舞踏会』書評

      佐川恭一が書く主人公はみんな「いま」を生きている。そんなの当然じゃないか、「いま」を生きてない人なんていないよとすぐさま反論が来るかもしれないが、現代において「いま」を生きることは想像以上に難しい。キャリアは違えど年齢の近い朝井リョウは最新長編『正欲』で「いま」を生きることの困難を次のように語っている。 英会話を学ぼうとかダイエットをして健康になろうとか、そういう前向きな雰囲気のメッセージたち。だけど、私は少しずつ気付いていきました。一見独立しているように見えたメッセージは

      • 「魔法の呪文」を唱える―佐々木敦「半睡」書評

        批評家の書いた小説を批評することは難しい。その相手が現代屈指の本読みである佐々木敦ならなおさらである。あらゆる小説を読み、その技法や楽屋裏に知悉している彼の書いたものが一筋縄でいくはずがないのだ。幾重にも織り込まれたそのテクストにはさまざまなジャンルや時代が「貫通」し、あらゆる作品の細部がふとした拍子に浮かび上がってくる。あたかもプルーストの作品のように。「半睡」はまさにテクスト=織物と呼ぶにふさわしい作品である。読者は読もうとする批評家(佐々木敦)に知識量で圧倒的に負けてい

        • ことばの三態―『ことば汁』書評

          「ことば汁」を「ことばの汁」ではなく「ことば汁」、つまりことばの形をとってからだあるいはこころから流れ出る汁としてイメージすると、詩人が本書に『ことば汁』という題名をつけた意図がおぼろげながら見えてくる。 文月悠光が解説に書いている通り、「汁」=「ジル」には「ただのミズやエキタイとは違う」「からだから湧き出してくるような響きがある」。たしかに「汁」には生々しさがつきまとう。すまし汁や味噌汁は置いとくとして、果汁や肉汁に使われる「汁」の字には「ただのミズやエキタイとは違う」生命

        人間モドキ―村田沙耶香『コンビニ人間』書評

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          現代人に二足歩行は向いていない―『推し、燃ゆ』書評

          主人公のあかりは「推し」について次のように言っている。 推しを推すことがあたしの生活の中心で絶対で、それだけは何をおいても明確だった。中心っていうか、背骨かな。(p37) ルロワ=グーランによれば人間は二足歩行になることで腕が移動手段から解放されて道具の使用が可能となり、直立姿勢になることで脳の発達が促され抽象的な思考が宿るようになった。直立する身体を支える、 文字通り「中心」としての背骨。あかりにとって推しとはそれがなければ生存できない、人間としての姿勢を保つために「何

          現代人に二足歩行は向いていない―『推し、燃ゆ』書評

          とても、こわい―「ぼっけえ、きょうてえ」書評

          霊という欲望/欲望という霊ミステリーは解決可能性に、ホラーは解決不可能性に基づいて成立するものだと高橋敏夫は言っているが、そのような区別はミステリーが論理=ロジックに、ホラーが欲望にもとづくものだと言い換えることができるだろう。 幽霊とはこの世に何らかの未練があったために成仏できなかった人間の魂だと考えられている。「~をやり残した」「~をやりたかった」という欲望あるいは執着の強さによって死後もなお超自然的/非科学的/反理性的な存在として此岸と彼岸の間をさ迷うことになったわけ

          とても、こわい―「ぼっけえ、きょうてえ」書評

          ハイイロガンのような「私」―遠野遥『破局』書評

          人生をそつなく生きていくために必要なのはマナーを守ることである。人に言われた通りにし、決められた通りに行動し、周囲の人々からはみ出さないように自分の行いや言動を注意深く律すること。マナーとは他人から押し付けられた規律に過ぎず、無視しようと思えば簡単に無視することができ、法律ほどの拘束力はないためにそれを遵守するかは個人の裁量に任せられた部分もあり、ある種曖昧なものだと言えるが、一度受け入れるとそれは個人を外から規定し抗いがたい力を発揮することとなる。しかしその反面、マナーを受

          ハイイロガンのような「私」―遠野遥『破局』書評

          河は静かに流れ―岡崎京子『リバーズ・エッジ』書評

          『リバーズ・エッジ』は題名の示す通り河のような物語だ。時には平坦に時には激しく波立ちながら河は静かに流れていく。海と違って流れはひとつの方向にしか向かわない。上流と下流。川には始まりがあって終わりがある。だから人生のメタファーには海ではなく川が使われるのだ。 ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし。(『方丈記』) 川はひとところにとどまることはない。「世の中にある人とすみかと、またかくのご

          河は静かに流れ―岡崎京子『リバーズ・エッジ』書評

          涼宮ハルヒの実存―谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』書評

          涼宮ハルヒの「憂鬱」 涼宮ハルヒの奇行が彼女の抱える「憂鬱」に起因していることは一読すればよくわかる。「憂鬱」を発散するため、克服するためにハルヒは奇異な発言や行為を繰り返す。まるで嫌なことから目を逸らす子供のように、彼女は自分の「憂鬱」をやり過ごそうとしている。それではなぜハルヒは憂鬱なのか。彼女の気持ちを理解するための助けになるのが石川啄木の次の文章だ。 「何か面白い事は無いかねえ。」という言葉は不吉な言葉だ。この二三年来、文学の事にたずさわっている若い人達から、私は何

          涼宮ハルヒの実存―谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』書評

          エロスとはヒューマニズムである―野坂昭如『エロ事師たち』書評

          ヒューマニズムとしてのエロスエロは軽視されている、というよりももはや蔑視されていると言った方が正しいかもしれない。エロという言葉とそれを取り巻く言説は暗黙のうちに回避され、思春期の学生たちを除けばあからさまに発言する者はなく、日常的な社会生活からは排除されてしまっている。 フーコーによれば「性の歴史」、殊に近代における「性」は政治とは切り離せない関係にあり、「狂気」が作られたのと同じように「性」という概念も捏ねあげられ、「人間」において欠かせない属性のひとつとなっている。現代

          エロスとはヒューマニズムである―野坂昭如『エロ事師たち』書評