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人間モドキ―村田沙耶香『コンビニ人間』書評

文春文庫版の解説で中村文則は五感の描写が本作の特徴であるとしているがそれだけでは不十分で五つの感覚のなかでもとりわけ特権化されている聴覚、それも語り手の聴く音だけではなく、彼女自身が発して他者へと空気の振動によって伝えられていく音をも含めて注目されなければならないだろう。無論ここで言う「音」とは冒頭で描写されるコンビニが立てる無機的な音だけに限らず身体的動作に伴う些末な動揺や声帯を震わせることで発生する「声」という有機的な現象も包含されている。それにより我々はひとつの事実に気がつくことになる。つまり語り手は何らかの生物が活動している状態とその運動が静止している状態との差異を「音を発しているかどうか」で識別しているという素朴すぎる事実のことである。主人公にとって音を出していることが生きていることなのであり、音を発していないことは死んでいることなのである。しかしわかりやすい図式化による誤解を起こさないため注意しなければならないのは、生-死という二分法は主人公のなかには存在せず、端的に音と無音という区別があるだけ、ということである。生-死という区分は村田的言語を理解するために導入した仮の定義に他ならず大事なのは動いてるときにものは音を発し、音を発することのないときは動いていないという単純すぎる判別のほうである。そのような認識は例えば次の場面に表れている。

小学校に入ったばかりの時、体育の時間、男子が取っ組み合いのけんかをして騒ぎになったことがあった。
(…)
「誰か止めて!」
悲鳴があがり、そうか、止めるのか、と思った私は、そばにあった用具入れをあけ、中にあったスコップを取り出して暴れる男子のところに走って行き、その頭を殴った。(p14)

村田沙耶香『コンビニ人間』文春文庫 2018

彼女の行動の目的は「騒ぎ」を「止める」ことであった。つまり二人の男子が絡み合うことで起こりその周辺にも「悲鳴」という音で伝播していく「音」を手っ取り早く「止める」ことが彼女やるべきことなのであって、そこに至るための最短経路がスコップで殴るという行為だったまでである。無論先生に咎められた彼女は悪びれるはずもなくただ「止めろと言われたから、一番早そうな方法で止めました」と説明するだけだ。「騒ぎ」をなくすためには動きを止めなければならずそのために皆の求める動作を率先して行ったのだから「先生が何を怒っているのかわからなかった」と思うのも無理はない。しかし彼女の行為によって「周囲は絶叫に包まれ」、新たな「音」=「騒ぎ」が発生してしまうのである。
また「教室で女の先生がヒステリーを起こして教卓を出席簿で激しく叩きながらわめき散らし、皆が泣き始めたとき」も同様である。主人公は生徒たちの「止めて」という声に耳を貸さない教師に「黙ってもらおう」と思って先生の「スカートとパンツを勢いよく下ろし」てしまう。それによって「若い女の先生は仰天して泣きだして、静かになった」のだが、「騒ぎ」=音を消失させる英雄的行為を達成したにもかかわらず主人公はまたもや周囲の良識を代表する先生たちに詰問されることになるのだ。「なんで、恵子にはわからないんだろうね……」と母親は呟くが恵子(主人公)からすればなぜ周りの人たちがなぜ「静か」にするための手段にそれほどこだわっているのか「わからない」し「なんで」この人たちは私の行動にケチをつけるのだろうも思っているはずだ。ゆえに彼女はひとつの決意をする。「必要なこと以外の言葉は喋らず、自分から行動しない」という決意である。

父と母が悲しんだり、いろんな人に謝ったりしなくてはいけないのは本意ではないので、私は家の外では極力口を利かないことにした。皆の真似をするか、誰かの指示に従うか、どちらかにして、自ら動くのは一切やめた。(p16)

この文章で注目すべきことはひとつしかない。それは「自ら動く」ことと「口を利かない」ことが並列して考えられている点である。彼女にとって「喋ら」ないことは「行動しない」ことと等しいのだ。音をならさないことが「行動しない」ことであり、「行動しない」ことは「口を利かない」ことなのである。だからこそ徹底して「黙ること」を守り通した学生時代を振り返る時彼女は「生まれる前」という語彙を用いることになるわけだ。
ここで使われた「生まれる」には「コンビニ店員として」という含意がある。すでに見たように主人公は周囲の人々には馴染めず「わからない」と言われ続けてきた人間だ。当然「コンビニ店員として生まれる」までも息を吸い睡眠し食事をしてきた、つまり生きていたことに間違いはないのだが、しかし「黙ること」=動かないことを旨としてきたコンビニ店員以前は主人公のなかで「おぼろげ」なものでしかない。さて、彼女は「生まれる」。その結果が「声」=「接客用語」という音によって象徴されるのは『コンビニ人間』なるテクストの意味作用を考えるならば当然すぎるほど当然な事実であるだろう。

「いらっしゃいませ!」
私はさっきと同じトーンで声をはりあげて会釈をし、かごを受け取った。
そのとき、私は、初めて、世界の部品になることができたのだった。私は、今、自分が生まれたと思った。世界の正常な部品としての私が、この日、確かに誕生したのだった。(p25)

「声をはりあげ」たとき私は「生まれた」。つまり「声」という音を発することで私は世界に組み込まれることが可能となったのである。これを赤ん坊の産声と重ねることは容易い。世界とは何よりもまず音による連帯を求める場のことであるのだ。そこに参入するためには産声を発する必要がある。そして「世界」というものが結局は「コンビニと同じ構造」でありまた、「コンビニエンスストアは、音で満ちている」のだとすれば、「コンビニ人間」とは「音で満ち」た存在であらねばならない。朝礼において「接客6大用語と誓いの言葉を唱和」し「声が重なる」という経験を通して人は「世界の正常な部品」という「歯車」になることができるのだ。この作品ではコンビニと社会と世界がアナロジーによって貫通しているのだから、「音で満ち」た「コンビニ人間」であることは世界=社会で生きていくために必要でかつ不可欠な手段なのである。つまりはパスポートであるわけだ。そのために「黙ること」に徹していた学生時代の主人公は社会から弾かれていたのである。

だが生まれ変わった後にも主人公を規定する根本的な性質が変わることはない。泣いている赤ちゃんをあやす妹を見て「テーブルの上の、ケーキを半分にする時に使った小さなナイフを見ながら、静かにさせるだけでいいなら簡単なのに、大変だなあと思」う、ともすればやりすぎとも見える場面ではあるが、しかし主人公の首尾一貫した特徴を表現するためには必要であった。生-死という区別などいざ知らず「静かにさせる」=動きを止めることしか頭になくそれを最短で達成したいのだ。

さて、制服を着てコンビニ店員なればみなが「均等な存在」となる。つまり個性が捨象されるのだが、しかし個々の店員の区別がある符丁によって特徴付けられている。言うまでもないだろう。「声」である。
久しぶりにあった友達から「前はもっと、天然っぽい喋り方じゃなかった?」と質問される「声」的主人公は、冒頭から「音」によって客の行動を認識しているし、同僚の泉さんは「ハスキーな声」として表され大学生の菅原さんは「声が大きい」しそのバンド仲間は「同じような服装と喋り方」をしている。ハスキーな泉さんは「バックルームでは少し語尾を伸ばしてだるそうに喋る」。留学生のトゥアンくんは「安いデス」となれない日本語を操る。

特に喋り方に関しては身近な人のものが伝染していて、今は泉さんと菅原さんをミックスさせたものが私の喋り方になっている。(…)
私の喋り方も、誰かに伝染しているのかもしれない。こうして伝染し合いながら、私たちは人間であることを保ち続けているのだと思う。(p31)

さて、そのような「声の共同体」のなかで「異物」が周囲の音との不協和音として、つまり異なる「音」を出すものとして描かれていたとしても不思議はない。ひとつめの「異物」は「甲高い声」で客を注意して回る「変な客」であり、ふたつめは「もごもごと小さな声」で話し、声を重ね合わせる儀式である朝礼においても「口をぱくぱくさせるだけで、ほとんど声を出していなかった」白羽さんである。両者ともに「コンビニの音」と調和を奏でないため即座に排除される。そもそも白羽さんの「異物」性は登場シーンから明らかである。コンビニのドアが開くとき音が鳴ることは誰でも知っているし、テクストにおいても何度か書かれているのだが、白羽さんの時だけはちがう。

店長の声に静かにドアが開き、180㎝はゆうに超えるだろう、ひょろりと背の高い、針金のハンガーみたいな男性が俯きながら入ってきた。(p47)

白羽さんは本来なら客の到来を知らせる音を奏でるドアから「静かに」入ってくる。無論この音のなさは主人公が徹底していた「黙ること」と等しく、それが世界に組み込まれない人間の印であることは言うまでもない。音はなくてもダメで大きすぎてもダメなのだ。本書で繰り返し言及される「普通の人間」とは周囲と「声が重なる」人間のことである。

さてはこのような声の「伝染」によって繋がる人々の共同体を論じるときに思い出すのが折口信夫という固有名であり、彼自身の偏執=変質的な身ぶりを模倣するかのような手つきで松浦寿輝によって書かれた『折口信夫論』という小著の存在である。松浦は折口信夫を「口唇的」な存在として、彼のテクストを「仮名という音韻記号」の奏でる「言語的ユートピア」として規定する。そこに偏在しているのは文字化されることを厭う純粋なる「声」たちの群れである。折口信夫とは「耳の体験」を強いる作家であるのだ。折口は弟子たちに自分の言うことを一言一句違わず記録させ、それをもとに講義をさせたという。つまり発話者が異なるだけで弟子が教壇で講じる「声」は折口の「声」なのである。松浦はこのような「口移し」の場面に「政治」と「権力」の出現を見ているのだが、そのときに彼の脳裏にあるが天皇制という日本社会特有の「政治」機構の存在である。「奇妙に柔らかく弾性に富んだ不可視の権力システムの謎」と「折口のあの薄気味悪い文章や和歌」とを重ねて論じようというのが松浦の思惑であった。
『コンビニ人間』に戻ろう。松浦はアルトーを論じたデリダの身振りを真似て「プロンプター」という概念を導入し折口の言葉を分析していくのだが、デリダを真似た松浦を模倣して同様の概念を『コンビニ人間』に当てはめてみようと思う。

プロンプター(souffleur)―息を吹き入れ、かつまた盗む取る者、言うべきセリフを口移しに教えてくれるが、しかしそのこと自体によって、主体としての私自身に固有に帰属するはずの言葉を私から掠め取ってしまう者、要するに、言葉を与えると同時に奪う者。(p85)

松浦はここに「霊」や「神」や「天皇」を見ている。しかし我々が考えるテクストにおいて「プロンプター」の役割を担っているのは無論コンビニにほかならない。主人公は物語の終わりで「コンビニの声」を聞く。

私にはコンビニの「声」が聞こえて止まらなかった。コンビニがなりたがっている形、お店に必要なこと、それらが私の中に流れ込んでくるのだった。私だけではなく、コンビニが喋っているのだった。私はコンビニからの天啓を伝達しているだけなのだった。(p157)

この場面には「言葉を与えると同時に奪う者」としてのプロンプターの姿が明瞭に表れている。主人公が喋るのはコンビニの言葉ってあって私自身のものではない。そこに個性はなくコンビニ=社会=世界という抽象的な価値観に根差した「マニュアル」を押し付け「均等な存在」へと個人を鋳造するメカニズムが働いているだけだ。主人公はこのような場所でだけ生きることができる。つまり「声」=「音」を与えられると同時に奪われたとき「普通の人間」になることができるのである。もちろん彼女はそのことを熟知している。「人間っぽい言葉を発しているけれど、何も喋っていない」、つまり受け売りの言葉を話す白羽さんを見て「まるで私みたいだ」と思うからである。勿論言葉というものが事物そのものを指すものとする認識はすでに捨て去られているし、また松浦も論じているように折口にとっての言葉とは「擬」=「モドキ」でしかない。すべての「声」はモドキに過ぎないが、与えられたモドキに同調することができた時人は「普通の人間」になり同時に個性を奪われる。しかしそれらも「人間っぽい」という近似値以上のものとは言いがたい。
東畑開人の『居るのはつらいよ』によればアジールとアサイラムは語源が同じだという。主人公にとっての「普通の人間」になれるコンビニはアジールにほかならないが、白羽さんにとってそこは居ることに苦痛が伴うアジールでしかない。彼は「声」を与えられたくないのである。自らを特別な存在だと思い込む彼は主人公のように普通にはまることができないのだ。そんな彼からすれば主人公こそ「人間」ではない。「コンビニの声」がきこえるという彼女に「気持ち悪い。お前なんか、人間じゃない」と叫ぶのである。この物語に「人間」はいない。否、この世界に「人間」はいない。どれだけ周囲の「声」と同調し「普通の人間」を演じたとしても、すべての言葉がモドキに過ぎない以上かれらはみな「人間モドキ」にとどまるわけである。後に村田沙耶香は「地球星人」という物語を書くことになる。無論それは正常の生活を営むことのできない「普通の人間」から外れた「人間そっくり」「人間っぽい」かつ「人間モドキ」を指す言葉であろうが、しかし『コンビニ人間』が表しているように人間とはすべて「モドキ」でしかないわけである。村田沙耶香のテクストにとりつくのは「っぽい」というモドキの思想である。

引用文献
村田沙耶香『コンビニ人間』
松浦寿輝『折口信夫論』
東畑開人『居るのはつらいよ』



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