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とても、こわい―「ぼっけえ、きょうてえ」書評

霊という欲望/欲望という霊

ミステリーは解決可能性に、ホラーは解決不可能性に基づいて成立するものだと高橋敏夫は言っているが、そのような区別はミステリーが論理=ロジックに、ホラーが欲望にもとづくものだと言い換えることができるだろう。
幽霊とはこの世に何らかの未練があったために成仏できなかった人間の魂だと考えられている。「~をやり残した」「~をやりたかった」という欲望あるいは執着の強さによって死後もなお超自然的/非科学的/反理性的な存在として此岸と彼岸の間をさ迷うことになったわけだ。科学で証明できないから怖いのか、証明できたら怖くなくなるのか、それはわからない。科学=ロジックに反するこの霊的存在は、いわば理性を喰い破る「壊れ」を体現するものとして人間に憑依する。とらえどころがなく不定形で様々なものにとり憑いて、それは日常を内破させる。科学=ロジックを逸脱する霊=欲望を描くこと、それこそがホラー小説の役割ではないか(もちろん霊が登場しないものもあるし、単に見た目がおぞましいだけの怪物という場合もあるけれど)。

ホラーは恐怖という意味であるが、高橋敏夫によればhorrorは他の類語(fear/dread/terror/panic)と比べて「おぞましさ」や「まがまがしさ」が際立っているという。ゾンビやフランケンシュタイン(の怪物)など見た目がグロテスクなキャラクターが登場するものは広く見ればhorrorだが、細かく振り分ければterrorやpanicへと分類されることになるだろう。それらの怪物はおぞましくなくただパニックを誘発するだけの、恐怖というより驚きを喚起するだけのゲテモノだと言えよう。horrorはもっとおぞましく恐ろしいものでなければならない。「頭の恐ろしさ」にたいする「心臓の恐ろしさ」と言ってもいい。いわば「脈を打つ活きた恐ろしさ」を表現するところにホラー=horrorの本領がある。
「一番怖いのは人間だ」という常套句の通り最もhorrorなものは人間、さらに言えば人間の欲望である。岡崎京子が『リバーズ・エッジ』で〈欲望〉を「邪悪な視線」=「得たいの知れないもの」と表現しているように、邪悪で「得たいの知れないもの」=〈欲望〉こそがhorrorの正体であり、核である。それは常に「邪悪な視線」で対象を貫く。

ぼっけえ、きょうてえ

「ぼっけえ、きょうてえ」(岡山弁で「とても、怖い」の意味)に幽霊は出てこない。女郎が客の男性に語る身の上話の体裁をとったれっきとしたリアリズム小説だ。しかし霊としての欲望/欲望としての霊は登場する。それは語り手の女性の「頭の左っかわ」に生まれた時からくっついていた「人面瘡」の「姉ちゃん」=「化け物」として具現化されている。「姉ちゃん」は「赤子の握りこぶしくらい」の大きさしかなく「しかも顔だけ」であるが、ときどき癇癪を起こしたり不機嫌になった際に「妾」=語り手の頭をかじる。妾は「姉ちゃん」に関して次のように言っている。

今さら言い訳も立たんけど、おっ父を殺したのは......そりゃあ直接に藁打ち槌を後ろから降りおろしたんは妾じゃけど、殺せぇ殺せぇと咬みつきまくって妾をそそのかしたんは、この姉ちゃんなんよ。自分もオカイチョウしたいけどできんから怒ってなぁ。

引用文からわかるように妾は「姉ちゃん」にそそのかされて父を殺し友達を殺めダイヤを盗んだ操り人形でしかない。語りの端々に見える不気味なまでの冷静さや落ち着き、感情が欠落しているかのような順応性もまた妾の人形性を強めている。ドーキンスの言葉を借りれば「遺伝子の乗り物」ならぬ「欲望の乗り物」あるいは「姉ちゃんの乗り物」として妾は「きょうてえ話」を語っているだけだ。

そのような彼女の性質はおそらく生い立ちに由来している。妾は「間引き専業」の産婆をする母親から生まれ、生後まもなく川に捨てられる。なぜなら飢饉の年に生まれた「餓死ん子」であるからだ。少しでも食い扶持を減らすため妾と姉ちゃんは間引かれた。しかし妾は「溺れずに、烏にも食われずに」「口元に流れてきた、半分腐ったどこかの水子の手足をしゃぶって」二日間生き延びて母親に回収され仕方なく育てられることになる(もちろん妾に寄生してる「姉ちゃん」も同様)。
「生きた人間との思い出より、死んだ人間との思いでの方が遥かに多いわ」と言うように、彼女は生よりも死に近いところに位置し、死によってかろうじて生を支えている。それは人の子供の死で金を稼いでいた母親の職業に因縁している。誰かの死によって妾は生きるのだ。ある意味生まれたときから死んでいたと言える妾は「姉ちゃん」にとって格好の乗り物である。水子を食う「おぞましい」行為もおそらくは「姉ちゃん」の意図によるものだろう。

ホラーとは解決不可能性=欲望を扱うものであり解決可能性=ロジックを旨とするミステリーとは正反対の性質だと冒頭に書いたが、この反論理的な立場は妾によって示されている。妾は「学校と名のつくところは一つも行っとらん」し、「食うこととオカイチョウすることは、犬にも牛にも無学の女郎にも、誰にも教えてもらわんでも充分にできるけんなぁ」と笑う。つまり妾はロジックをひとつも習わずにもっぱら欲望や本能を中心にして生きてきたのだ。なぜならそれら(「食うこととオカイチョウすること」)は人に教えてもらわなくても充分にできるからだ。
妾はたしかに誰にも教えられていない。しかし妾の行動は「姉ちゃん」によって操られている。犬や牛にも匹敵する節操のなさを持つ「姉ちゃん」はまさに欲望の権化であり妾に殺人と窃盗を遂行させるほどに強く密接に宿主にとり憑いている。horror的なるものを一身に背負う「姉ちゃん」の力によって妾は今まで生きてこれたし誰に教えられることもなく食べて寝て交わることができた。

以上のように岩井志麻子は「ぼっけえ、きょうてえ」において、欲望という霊/霊という欲望にとり憑かれた人間の姿を見事に表現している。私は霊という言葉を使ってきたが、それはひとつの比喩だ。人間にとり憑くものとしてそう表現してきたが、「姉ちゃん」は実際、いわゆる幽霊ではない。そこがこの作品のポイントだ。つまり人間でもなく幽霊でもなく「人面瘡」=「得たいの知れないもの」として「姉ちゃん」がhorror的なるものを体現することで「ぼっけぇ、きょうてぇ」は稀有なホラー小説として絶賛されたのだ。意識的にせよ無意識的にせよ、本作を称賛する人々の多くは人間の持つ解決不可能な欲望のおぞましさをこの作品から読み取ったのである。
このおぞましき欲望の塊=「姉ちゃん」は都合が悪くなったら「ただの腫物みてえなふり」をするという。妾は腫物触れるように注意深く欲望=霊を扱わねばならない。なぜならそいつは妾を使って好きに願望を成就できるし、宿主の生殺与奪の権を握っているからだ。

「ぼっけえ、きょうてえ」は妾の語りを聞く構成になっている。つまり妾/「姉ちゃん」と差し向かいで話しているわけだ。それは欲望=「得たいの知れないもの」の「邪悪な視線」に読者が常にさらされていたことを意味している。この作品は次のような言葉で終わる。

―うちの姉ちゃん、旦那さんに惚れたみたいじゃわ。どうされます?

欲望を覗くときは欲望もまたこちらを覗いている。最後の一文によって読者は今まで読まれるものにすぎなかった小説の内部からこちらを差す「邪悪な視線」に気がつくこととなる。「姉ちゃん」の底なしの欲望にたいしてはこう答えるしかない。「ぼっけえ、きょうてえ」、とても、こわい。


高橋敏夫『ホラー小説でめぐる「現代文学論」』
岩井志麻子『ぼっけえ、きょうてえ』
夏目漱石『行人』

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