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ことばの三態―『ことば汁』書評

「ことば汁」を「ことばの汁」ではなく「ことば汁」、つまりことばの形をとってからだあるいはこころから流れ出る汁としてイメージすると、詩人が本書に『ことば汁』という題名をつけた意図がおぼろげながら見えてくる。
文月悠光が解説に書いている通り、「汁」=「ジル」には「ただのミズやエキタイとは違う」「からだから湧き出してくるような響きがある」。たしかに「汁」には生々しさがつきまとう。すまし汁や味噌汁は置いとくとして、果汁や肉汁に使われる「汁」の字には「ただのミズやエキタイとは違う」生命感の残滓のようなものが透けて見えるし、スープほど洗練されていないなまの素材感のようなものが伝わってくる。例えば搾りたて生果汁やステーキに滴る血のような肉汁。素材から離れたばかりの、傷口から流れる血よりももっとずっと生命的で生物的な手触りが感じられる。
この感じは、本書に何度か登場する「野兎」の「獰猛な感じ」と似ている。

「あら、野兎ってけっこう獰猛な感じがするけど」
「ドーモーって何」
「たくましくて、ちょっと怖くて、野蛮ということかな......。(略)」(「りぼん」)

「汁」にこの「獰猛な感じ」と同じ印象を受けてしまうのはあながち間違いではないかもしれない。「ことば汁」とは「たくましくて、ちょっと怖くて、野蛮」な人間から溢れる汁に他ならないのだから。そのような人間を作者は次のように描写する。

ときおりすれ違うひとの皮膚は、汗で異様に光っており、どのひとも、口を開いている。笑っているのか放心しているのか。みな、不気味に漂う生体である。(「野うさぎ」)

汗という字が汁に似ていることに偶然以上の何かを連想してしまうが、語源を遡る余裕がないため深入りはしない。ともかく、「野うさぎ」が枯れ葉のような老人の手の描写から始まることを考慮すれば、汗で異様に光っている「すれ違うひとの皮膚」が、冒頭の老人の対比として機能していることがよくわかる。人間を生物でも生命でもなく「生体」と表記している点に詩人の特異な言語感覚が表れている。生きる体=生体を持つ人間から垂れる汁、それは端的に言って欲望の滴りではないか。

水は三つの状態に変化する。液体と固体と気体。本書においても「ことば汁」は三つの形態に変化しながら作品の底を流れている。
まずは気体としての「ことば汁」を見てみよう。それは「つの」という短編に描かれている。老詩人と老秘書の思い出/現在が語られる話だ。この老人は「詩を書くことに飽きないのか」という質問に「詩を書くことはわたしにとって、息をするのと同じですから」と答えている。これにたいし秘書は次のように思う。

たしかに先生の詩はもうすでに「息」であった。何か書けばそれがそのまま、吐く息である。もう、そこには言葉があるという感じすらしない。(「つの」)

ことばは湿り気をなくし乾いた空気、「息」となる。「ことば汁」の気化現象を単に熟練と惰性に帰納してはいけない。それでは液体が気体に変化してしまったことの意味が理解できないからだ。
秘書は先生が「もう半ばは、人間をおりておられる」ように感じている。実際先生は「哲学する枯れ草」や「ちりめんの皺の漣」と描写されている。これも上の気化現象と同様で、単に老化によるものと考えるのではなく、欲望の不在による現象として受け取らねばならない。

ごく若いころから、先生にはどこか死んだようなところがあった。めらめらとした野望や野心、欲望のたぐいとは無縁だった。(「つの」)

愛人や秘書が先生を見て「超越」した印象を受けるのは、人間を人間足らしめるさまざまな欲望が感じられないからだろう。「すずめ」という短編には「短い会話のなかで、客の好みをかぎ取る」能力を持った女声が登場する。彼女は客と対話することで「そのひとの心の奥に眠る欲望が、濃く、薄く、透けて見えてくる」。言葉として現れる「表層の「好み」」を手がかりに「そのひとの持つ、欲望の原型」へと遡るのだ。つまり彼女にとってことばとは欲望と切り離せないものであり、もっと言えば欲望の表現として個々のことばが存在している。「欲望の原型」のない先生の詩は必然的に「息」とならざるを得ない。もしくはことばが「息」である限り欲望は持ち得ない。おそらく「すずめ」の女性はことばに滲む「汁」を見ているのだ。

ことばが気体でも液体でもなく固体として身内から出てくる人もいる。それは「野うさぎ」の女性だ。彼女は「機械に弱いので、肉筆以外の方法で書いたことがない」物語作家であった。しかし「つの」の、息をするように詩を書く先生とは反対に、「野うさぎ」の女性は言葉が書けなくなったために物語作家をやめた。

いつもなら、ふと心に浮かんだ文字が、次の文字を呼ぶようにして、するすると一文が引き出されてくる。だが、あのとき、「樹」はいつまでも「樹」であるだけで、そこから何も、生まれでてはこなかった。(「野うさぎ」)

そのつぎに女性は「私」と書く。「けれどもその「私」も、石のように固まってそこにあり、ほかのどんなことばも導き出してはくれない」。ことばが「固まって」しまうこと、「息」でも「汁」でもなく「石」という質量を持った物質へとことばが変化してしまうことによって、彼女は物語が書けなくなった。

書けなくなったことははっきりしていた。書きたくないのかもしれなかった。どちらであるのかはわからなかったし、もうどちらでもよいのだった。(「野うさぎ」)

彼女は自分の欲望を見失ってしまった。「書けない」のか「書きたくない 」のかわからない。そして彼女にとってそれは「どちらでもよい」ことだ。「つの」の先生と同じように、欲望が枯れ果ててしまったために彼女のことばはみずみずしさを失った。「どちらでもよい」ということばには「自分がどうなろうと知ったことではない」と、自らを放棄するような投げ遣りさがある。ある意味で、先生のように世俗を超越している。しかしその結果、自己喪失感にとらわれる。

わたしはもう、自分自身が、この世のどこにも存在していないかのような、はかない感覚を味わっていたが、(中略)傷つけたり、傷ついたり、競ったり、謀ったり、愛したり憎んだりという、生々しい感情生活から離れると、こころはいつも不気味なほど平安で(省略)(「野うさぎ」)

彼女が「生々しい感情生活」としてあげる感情の数々は、それ抜きでは人間が人間として活動し得ない「原型」である。コジェーヴはヘーゲルの「自己意識」の核に欲望を置いている。「この存在者を自我として構成し自我として開示するものは、この存在者の(意識された)欲望である」(『ヘーゲル読解入門』)と言うように、人は欲望によってはじめて自己を認識する。だから、「つの」の先生や「野うさぎ」の女性のように欲望を喪失してしまうと、なし崩し的に「この世のどこにも存在していないかのような」「はかない感覚」に陥ってしまう。欲望の喪失とは「自己意識」の喪失に等しい。

欲望/自己が不在の「野うさぎ」の女性はあることがきっかけで再び「生々しい感情」を送ることになる。つまりことばが水分を持ち始める。不思議な老婆との出会いと、老婆の家での食事だ。老婆は不思議だ。先生のように「皺だらけの顔」でありながら、その手は「人を殺せるくらいにがっしりしていて」「自らの肉体を使って生きてきたひとであること」が伝わってくる。それを見て主人公は「わたしのヤワな身体とはまるで違う」と感じる。その後彼女は老婆にスープとステーキをごちそうになる。ステーキは「切ると赤い血がナイフに残る」ほど新鮮だが、「何の肉か」はわからない。

だがそれを食べると、わたしのなかに、いままで感じたことのなかった力が生まれたように感じた。叫びだしたいようなよろこびが、身体の奥から、欲望のようにわいてあふれる。
ああ、生きたい。(「野うさぎ」)

「生きたい」とは人間の持ちうる最大限の欲望ではないか。生きるから「傷つけたり、傷ついたり、競ったり、謀ったり、愛したり憎んだり」することができる。「生々しい感情生活」を避ければたしかにこころは波風たたず平安になる。しかし彼女が感じた「叫びだしたいようなよろこび」とは無縁だ。それが「身体の奥から」欲望のように、また「汁」のように「わいてあふれる」(なんと水的な比喩)ことはない。こころの平安を破って「わいてあふれる」ものにこそ人は「よろこび」を感じる。
「生々しい感情」に復帰した彼女のことばは「身体の奥から」「わいてあふれる」汁によって再び湿り気を帯びることになる。食後町に繰り出した彼女は自分の腕に「ぎっしりと渦をまいて生えている」産毛をみて、「わたしの体毛はかなり濃い」こと、両親からそれを「自然で魅力的なもの」で「豊かな命の象徴」だと教えられたを思い出す。欲望の噴出とともに身体を覆う獣のような毛はまさに生命感のあらわれであり「豊かな命の象徴」である。彼女はバーで出会った男と寝ることになる。エクスタシーを迎えた彼女は次のように思う。

わたしのなかから、欲望がもりあがり、もっとつよくつながりあいたいという気持ちで、いっぱいになった。
「お願い!もっと!」(「野うさぎ」)

二人で寝るのが水辺という並々と液体をたたえた場所の近くであることも注目に値するが、大事なのはもりあがってきた欲望によってこころがいっぱいになり、純粋な望みとも言うべき「お願い!もっと!」ということばにすべてが凝縮されたことだ。解説で文月悠光が「汁」には「湧き出してくるような響きがある」と言ったのは詩人ならではの慧眼だ。「野うさぎ」における二度の欲望の発露はどちらも「わいてあふれる」「もりあがり」といった「湧き出してくるような」運動性によって表現されているからだ。それは平安なこころをかきみだす、有無を言わさぬような力を発揮している。ここにおいて、主人公のことばは固体から「ことば汁」という欲望の滴る液体へと変化する。

わたしは欲望のままに生きる。食べたいときに食べ、誰かと抱き合い、たっぷりと眠る。ただ、それだけだ。(「野うさぎ」)

本書の要約とも言うべき「ことば汁」溢れる見事な一節だ。『ことば汁』には「傷つけたり、傷ついたり、競ったり、謀ったり、愛したり憎んだりという生々しい感情生活」、食欲や性欲などのようなさまざまな欲望が描かれている。愛情がそのまま食欲へと変化する女性も出てくる(「花火」)。
コジェーヴは「自我とは、或る欲望の――或いは欲望そのものの――自我なのである」と言っている。詩人に必要なのは人間を超越することではない。むしろ自我=「欲望そのもの」を持ち、「息」のような軽やかなことばでなく「汁」のようにいかがわしく獰猛で湿り気を帯びたことばを「身体の奥から」響かせることだ。

声はどこからやってくるのだろう横隔膜を震わせて、骨格と肉を震わせて、声はどこから、やってくるのだろう。(「女房」)

声は「身体の奥から」、欲望から、「わいてあふれる」自我そのものだ。


引用文献

小池昌代『ことば汁』
アレクサンドル・コジェーヴ『ヘーゲル読解入門』



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