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鹿児島旅行記① 〜知覧特攻隊平和会館〜

鹿児島に行きたかったのは、知覧に行ってみたかったから。
知覧の、特攻平和会館に。
小学生の頃に特攻の映像をテレビだったか映像の世紀だったかで見たのが始まりで高校生頃で知覧の平和会館の存在を知った。
それ以来、ずっと気になっていた場所だ。

戦争資料館には足を運んでいる方だと思うが、
歴女ってわけではないと思う。
私のとっての歴史は、「まあまあ好き」の域を出ない。
高校生で文理選択をするときに、
化学や物理よりは歴史の方が「まあまあ好き」なので文系を選んだくらいの話であるし、なんなら世界史専攻だったので
教科書に「特攻隊」という文言は恐らくなかった。

鹿児島に行くというと、そこが意外な旅行先であったようで、皆、何が目的で行くのだと問うた。特攻隊の平和会館に行くというと、今度はその理由を決まってみな問うた。

おかしいくらい皆同じことを問うので、私がおかしいのかと疑うほどだった。

なぜ行くのか。
私にも、なぜか分からなかった。
分からないままでもいい気もしていた。

鹿児島は、東京と比べて暖かかった。

空港バスを山川という駅で下車し、ローカルバスに乗り換える。
空港バスから降りると、絵に描いたような田舎で、ローカルバスに乗り換える案内一つ出ていない。
桜島がよく見える。

山川駅から、ローカルバスの停留所へ

鉄道が近くに通っているようだったので、バスも近くにあるに違いないと思い、探して歩くと、色褪せた小さなバス停を発見。
鉄道から来たであろう、50歳くらいの男性とふたり、バスを待った。
30分くらいだったとおもうが、11月というのに春のような陽気で、バス停は永遠に思われる気持ちよさだった。
特攻隊という悲しい歴史を見に行く手前、それが悲しい気もした。
原爆記念館の、光あふれる廊下に似ている。

バスを乗り継ぎ、ついたのは16時。
17時に資料館が閉まるので、案外ぎりぎりになってしまった。
一応事前に所要時間などは調べていたのだが、どこで見誤ったのだろう。

記念館の前は公園のようになっていて、桜並木が並ぶ。
来る途中では、ヤシの木がそよいでいるところもあり、季節外れの気候ということもあり、すぐに飾りをつけそうにも思える。

公園の中には、戦後に作られた特攻隊に関する映画で使われたという特攻機があった。
飛行機って、意外と大きいんだな。

特攻機のレプリカ

500円の入場料を払い、館内を見て回る。

遺影、遺書、遺髪。
出撃した特攻隊が自分を模した人形を家族あてに贈ったものなど、そこには彼らの家族に遺されたものばかりがあった。

戻ってきたものなど、海底から引き上げられたという、特攻機の残骸(特攻機だとわかるくらいには、かろうじて原型はとどめていた)くらいである。

ここでは「傷跡が何もない」ことが悲しさを増幅させるようだ。
遺されたものばかりが、明るい未来を語り、笑顔を残す。

海から引き揚げられた特攻機の残骸

*
帰りのバスは、2時間半後だった。
そのバスが、鹿児島中心地の鹿児島中央にその日中に帰れる最後のバスであった。

行きのバス停同様に、古びたバス停が、なんとなく帰れるか不安にさせた。
携帯の充電もなく、どうすることもできない。
月が左から右に移動していくのを、ただ見つめた。

不思議な時間だった。
バスを待つ間、自然なのか、空気なのか、知覧のなにかと一体になるかのような感覚で、一心にゆっくり動く月と対話した。

バスが来なければ。
私は今日中には帰れないだろうし、
明日ももしバス停で待ちぼうけしていたら、東京にも帰れないかもしれない。(知覧への往路は、山を一つ越えるような道のりだったので、歩いてもどうなることやら。)

バス一本。来なければ、自分にあると思った日々は全く違うものになってしまうのだ。そんなことを考えていた。

*

帰りのバスは、来た。
バスに乗っていると、先ほどの静けさが嘘のように、時間が動き出す。

知覧特攻隊平和会館は、
ひんやりとした死と、刮目せねばならない生が共に在るように感じた。
特攻自体は、悲惨な攻撃に間違いないけれど、ここから飛び立っていった彼らには、信じるもの、愛するもののために命をなげうつ覚悟があった。

自分も自分の信じるもののため、生きていけるだろうか。先ほどの月の沈黙を思い出す。

今はただ、月が動く夜のこと、覚えていよう。
この静けさを持ち帰る。

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