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私の余生、貴女にあげます

今日も無駄に疲弊して一日が終わった。医者。他人の命を救う立派な仕事だと言うけれど、実際の所助かる命は助かり、気力や体力を費やしても助からない命は助からない。泪は事務的に右、左、右と進められる自分のつま先を見つめながら静かに帰路についた。
「う゛う゛……、う゛っ」
道ばたから声がする。人が倒れているなんてことはここら一帯では日常茶飯事で、誰も気に留めない。しかしこの日の泪は何を思ったかその声の方へ近付いた。
「顔が…良い。」
泥にまみれた得体の知れない女を泪は顔が良かったからという理由だけで手を差し伸べたのだった。

「まあまあ、飲んでくださいなお嬢さん!ホント助かったわ、アタシもう終わったと思っていたもの。こんなんでお礼になるかわかんないけど、何でも好きなもの頼んで頂戴ね。ここ結構知る人ぞしるって感じのお店なのよ!」
「はぁ。ありがとう…ございます。」
よく喋る女だと思った。聞くと女は殺し屋を請け負っていて、あの日は仕事終わりだったのだという。こんな事こんなテンションで打ち明けるものなのか。この気丈で一見するとホステスを思わせる外見からは、殺し屋なんて物騒なものとは結び付けづらい。殺しや薬物売買が横行するこの地域で誰がどんな素性であるかは分からないのであるという事を考えても驚きである。
「いつもあんなに無茶されるんですか。」
「いやぁ、まああの日はちょっとヘマしたっていうか、ね。いつもはあんなんじゃないですよ。誰だって調子悪い時はあるじゃないですか。」
女はケラケラと笑いながら上機嫌で続ける。本当に殺し云々の話題で間違っていないよな、と独りごちる。
「こんな風には死にたくないなぁー、と思いながらね。アハハ、お嬢さんは学生さん?」
「いえ外科に勤めてます。」
「あらら、お医者さんか。助けたのが殺し屋だったとか、笑えないわよね。お医者さんはこんな命の危機とは無縁の安泰生活なんでしょう、羨ましいわ。」
「別に自分の命を守る為とか、そんなくだらない理由で医者をしているんじゃないですよ。」
「くだらない?どういう事よ。」
「単に勉強が出来たから医者やってるだけで、別に今の医療なら人の命なんて簡単に救えるし、逆も然りです。死にたくなったらお薬で簡単に死ねますし、案外殺し屋同然かも、なんて。」
「お嬢ちゃんちょっと働き過ぎなんじゃないの。もう一杯どうぞ。」
確かに泪は女の言うとおり常に過労状態であったし、その自覚もあった。もはや自暴自棄の様にやみくもに働き続けていた。
「お気楽なものですよね。殺し屋なんて。この辺りの殺し屋さんは人の命平気で奪って生きていくんですから。」
酔いが回った泪は、所謂殺し屋に医療ミスだなんだと言いがかりを付けられて殺された実の父について思い出していた。
「ふざけないでよ、アンタ医者でしょう。人の命は有限だって分かるでしょ。いくら医療が凄くたってアンタみたいに心が死んだら終わりよ。」
「へぇ、殺し屋さんにも倫理感ってあるんですね。びっくり。」
「ハァ?そっちこそ医者のくせして、人様の命軽く見てんじゃないわよ。」
「あの…お客様、他のお客様のご迷惑になりますので…もう少しお静かにお願いできますか。」
「あぁ、すいません。ちょっと取り乱しちゃって…。ハイボール追加でお願いします。」
「かしこまりました。」
人前でこんなに感情をあらわにしたのはいつぶりだろうか。泪は、驚きと共に高揚感を覚えていた。よく知りもしない赤の他人に、ましてや殺し屋だとかいう女相手に自分はこれほどまでにも感情を動かされたのか。助けなければ良かったと考えた矢先、信じられない事にこの女に対する興味すら湧いてきたのだった。

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