新聞部の葛藤
勉強机の棚をいじっていると、高校の頃に作った学校新聞が出てきました。大阪と東京にいる、可愛い後輩たちは元気だろうかと懐かしんだ。新聞作りからはもう4年以上離れているが、記憶は結構鮮明に残っている。
最初は、人手が足りないからという友人の頼みで助っ人に入ったことから。私と友人ふたりの3人、そこに後輩が入ってきてから5人、友人は色々あって退部、気づけば手伝いの私が部長になっていました。私は元々柔道部で、籍だけ新聞部に入れて手伝っていたけれど、元々膝が悪く丁度ドクターストップをかけられたのもあって本格的に新聞作りに乗り出した。
あなたは、新聞作りの中で1番何が難しそうだなと思いますか?取材や記事制作、校閲、やることは色々ありますよね。実のところ、レイアウトだったり、文章を書いたりというのは、運のよいことにそれぞれ得意分野があって何とかなりました。
私たちの場合、見出しを付けるのに1番苦労しました。これがいつも最後に残っちゃうんです…。3人寄っても文殊の見出しはなかなか出ない。特に一面の最も大きな見出しとかは半日掛けて考えたりすることも…。実際に売られている新聞作りではどうなんでしょうね?
最終チェックが終わって印刷し、朝のホームルーム前に各教室へ届ける。そして全校生徒、全教職員の手に新聞が届く緊張の瞬間。初めて携わった新聞が配られたとき、私は丁度後ろの方の席だったので、皆が手に取ってどうするか見ることができました。
クラスでも仲の良かった友達がそのまま手にして読んでくれただけで、あとは大体連絡の書類などと一緒にファイルに仕舞われてしまった。唖然とした。そんなものだよな、と思える程私は大人じゃなかった。
放課後、教室のゴミ箱にぐちゃぐちゃに丸められて捨てられているのを見た。進学校だとか、成績の良さだとか、くそくらえだと思いました。せめて見えないところで捨ててくれ。
毎月発行しても、毎月ゴミ箱に入っている。虚しさも感じましたが、それでもちゃんと読んでくれる人がいて、取材させてくれる人がいて、何よりひとりじゃなかったお蔭で何とか代替わりまで続けられました。
今は、新聞は結局のところ消費物だと思うようになりました。情報という形で通り抜けた後に残るのは、大きな紙の束。正直なところ、実家で取っている新聞を、私も雑紙として利用したりします。
しかし、いのちの短い消費物だとしても、考えて考えて作ることの面白さ、尊さを教えてくれたのは新聞部での経験ですし、それが今もこうやって、あなたに読んでもらえるような文章作りに役立っているのだと思います。
たった3人の部員、空調のない小さな部室で夏は扇風機を持ち込み、冬は毛布にくるまって、たまにデータの飛ぶ古いパソコンで新聞を作る。
顧問に何度もペン入れされて真っ赤になった原稿、下校時間ぎりぎりまで校閲を続けた発行前日、なくていいものなんて何もなかったな。
現在は廃部になってしまったけれど、そこに新聞部があったという記憶は今も鮮やかに私の中で生きています。
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