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千早茜『ガーデン』について

千早茜『ガーデン』を読み終わった。この方の小説は、元々『しろがねの葉』が気になっていたのだが、それより先にこちらを手に取ることとなった。結果としては個人的に大当たりであったため、他作品にも期待が高まる。

先ほど帰省のバス内で読み終わった『ガーデン』

『ガーデン』に話を戻す。主人公羽野と彼の育てる植物たち、そして彼を取り巻く女性たちとの関係が丁寧に描かれていた。もっとも、基本的に文章は羽野の視線に寄っているため、女性たちひとりひとりが羽野ほど丁寧に描かれているわけではないが、その書き方はこの物語にふさわしいのだろう。

出版社で働きながら誰とも深く関わらず、帰宅後は植物たちの世話に精を出す羽野は、一見ひどくさっぱりした大人のように見えた。社会的生活を営む「ヒト」としての何かが欠けているようにも思えたが、それは私にとってある種の理想の生活のようにも思われた。
思い返してみれば、それはある種の宗教に近かった。羽野は自室の植物たちは自分が世話をしてやらねば抵抗もなく枯れてしまうと考えていた。だが、逆に言えば世話をすることが羽野の幸せでもあり、植物たちは世話があろうとなかろうと、芽生え、花が咲き、種を残し枯れていく決まった生涯を送る。そこに羽野が介入することはあっても、羽野である必要はない。


物語が進むにつれて、その羽野の生活、そして羽野自身の価値観が綻んでいく。いや、綻ぶのではなく、元々そうだったのであり、痛いところに目を向けてこなかったのだ。あらゆるものが削ぎ落とされた羽野の生き方は、大人どころか子どものものとして扱われた。そして彼が他人と関わる底知れ無さに向き合ったときから、あれほど語られていた部屋の植物たちには言及されなくなったことに気付いた。

私はなぜ羽野の生き方をある種の理想として捉えたのだろう。色々と考えてみたが、私はそれを理性によって支えられたものだと見なしていたからだと思い至った。
私自身はどちらかというと、羽野が理解しきれない女性たちの側の精神を持っている。底知れない、と羽野は表現したが、正直私は自分でも自分が何を考えているかわからなかったり、行動に細かな理由をつけることが難しかったりする。しかしそれでいて、そのようなわけの分からなさを忌避する心もある。これは私の恋人との関わりで身に付いた「外付けの理性」の影響だろう。
彼は私から見ると恐ろしく理性的な生き物で、目的のために手段を選ばないタイプのひとである。そんな彼と3年もいると、嫌でも自分の幼さ、感情の制御のできなさが目に付く。そこから生まれたのが「外付けの理性」なのだろう。しかし、元々持っている底知れない本能は、どうにも消すことはできずにずっとそこにある。

私はこの物語を読了したとき、ひどく戸惑った。そして、自分の心の構造がどうなっているのかを考える必要に迫られた。
いつも物語を読み終わったとき、私はその登場人物の考え方や生き方を自分と照らし合わせ、心の形を定め直す。その過程が私には必要不可欠ではあるが、今回は特にその必要に迫られて動揺した自分がいた。このことをもって、『ガーデン』は私にとって重要で、忘れられない物語となるだろう。


この物語では、何人かの重要な登場人物が花と関連付けられた。羽野は特に物語中で熱心に世話した蘭の花と、莉沙子は赤く大きなバナナの花と、緋奈は白くて儚いコデマリの花と。
実は私の本名はジャスミンから取られている。もしもこの物語のように関連付けられるのなら、ジャスミンのように丈夫にと両親が付した願いの他にも、つる性植物ゆえに何かにすがって生きていかなければならない運命が付されているかもしれない。それが恋人なのか、友人なのか、家族なのが、環境なのか。どれとは言えないけれど、確かになんとなく的を得ているような気がした。


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